第9話 裁きの水晶
裁定の間の水晶柱が、朝日を受けて透明に輝いていた。
今日、あれが赤く染まる。
再審理七日目。最終日。大広間が公開審問の場に変えられていた。長いテーブルが半円形に並べられ、中央に宣誓の水晶が据えられている。人の背丈ほどもある水晶柱は、何の色も帯びていない。清浄で、冷たい光を放っている。
列席者は二百名を超えていた。貴族の代表、教職員、学園の上級生、そして──クレイシス公爵である父が、来賓席の最前列に座っている。父と目が合った。頷いてくれた。あの静かな目に、どれだけ救われてきたか。
深呼吸をした。
ドレスの下で、膝が震えている。七日前と同じだ。でも──あの時とは違う。今の私には証拠がある。仲間がいる。そして──隣にノエル様がいる。
「準備はいいか」
低い声が、すぐ隣から聞こえた。ノエル様は騎士団の正装で、剣を帯びている。今日は護衛役として正式に配置についている。
「ええ。完璧ですわ」
嘘だ。完璧かどうかは分からない。でも──やれることは全てやった。
◇
審問が始まった。
議長は学園長が務める。まず私が、七日間の調査結果を報告する。
一つ一つ。積み上げるように。
「第一に、毒物について。ベルガモア草の精製毒であることはヘルガ教諭の鑑定で確定しています。この毒の入手には王宮薬草園への入園が必要です。入園記録を確認した結果──私の入園記録は存在せず、セレスティナ様が一ヶ月前に三時間滞在していたことが判明しました」
書類を掲げる。会場がざわめく。
「第二に、前例について。セレスティナ様の前の在籍校、シュテルン女学院でも同様の『毒物被害』事件があり、無実の生徒が退学処分になっています。同じ構造の事件が二度起きている」
カタリナの手紙の写しを提出する。ざわめきが大きくなる。
「第三に、証拠書類の改竄について。風紀委員長ロラン・ダヴィエは、セレスティナ様に脅迫されて証拠を改竄したことを自白しています。改竄前の原本はここにあります」
原本と改竄版を並べて提示する。インクの乾燥度の違い、筆跡の微細な差異。ノエル様が補足説明を加えた。
「第四に……治癒魔法の副作用について」
会場が一瞬、静まり返った。
「ゲルハルト博士の鑑定により、セレスティナ様の治癒魔法には対象者に好意的感情を増幅させる副作用が確認されています。これは魔法犯罪法第八条に該当する、感情誘導の禁止に抵触する可能性があります」
鑑定書を提出した。会場の空気が変わった。同情や好奇心ではない──緊張だ。
◇
セレスティナ様が宣誓の水晶の前に進み出た。
白いドレス。銀のティアラ。穏やかな微笑み。儚げで美しく──完璧に制御された表情。
議長が宣誓を求めた。セレスティナ様が水晶に手を触れ、宣誓する。
「真実のみを述べることを誓います」
水晶は透明なまま。嘘はついていない──まだ。
「セレスティナ様。あなたは一ヶ月前に王宮薬草園に入園されましたね」
「はい。聖女の職務で薬草の知識を深めるために」
水晶は透明。これは嘘ではない──入園したのは事実だから。
「薬草園でベルガモア草をご覧になりましたか」
「……はい。美しい花でした」
透明。見たのは嘘ではない。
「ベルガモア草を摘み取りましたか」
「いいえ」
透明。──なるほど。自分の手では摘んでいないということか。誰かに指示して摘ませた可能性がある。
(巧い。予想通り、嘘をつかずに真実を隠す。──でも)
「では、質問を変えます」
深呼吸した。ここからが本番だ。
「セレスティナ様。あなたは──毒を入手していませんね?」
「いいえ、入手しておりません」
水晶は──透明。予想通りだ。「入手」の定義を「自分の手で取った」に限定している。
「では──毒を『誰かに入手させた』こともありませんね?」
沈黙。
セレスティナ様の微笑みが、ほんの一瞬、固まった。
「……質問の意図が分かりかねます」
「簡単な質問ですわ。あなたが誰かに指示して、あるいは依頼して、ベルガモア草を手に入れさせたことがありますか? イエスか、ノーかでお答えください」
会場が水を打ったように静まった。
セレスティナ様の唇が薄く開いた。
「……いいえ」
水晶が。
淡い赤に──濁った。
どよめきが広がる。宣誓の水晶は嘘を許さない。「いいえ」と言ったのに水晶が赤くなった。それが意味することは一つしかない。
セレスティナ様の瞳が揺れた。水晶を見上げ、自分の手を見下ろし──そして、もう一度私を見た。
「続けます。セレスティナ様。パーティーの夜、あなたは自分の杯に毒を入れましたか?」
「……わたくしが、自分を害する理由がありません」
はぐらかし。水晶は反応しない。質問に直接答えていないから。
「では──あなたは毒を飲んでいませんね? 杯に口をつけた振りをして、実際には飲んでいない。違いますか?」
セレスティナ様の指先が、小さく震えた。
「あなたの症状はベルガモア草の毒性と一致しません。ヘルガ教諭の鑑定によれば、この毒は発症まで三十分以上かかり、嘔吐と痙攣を伴います。あなたは数分で倒れ、嘔吐も痙攣もなかった。──演技ですわね?」
完璧な微笑みが……崩れた。
笑顔の奥から、別の顔が現れる。整った眉が歪み、薄い唇が震え、美しい瞳に怯えの色が滲む。
でも──崩れた顔の方が、よほど人間らしかった。三年間、いやもっと前から。演技の下に隠していた、ただの十七歳の少女の顔。
「……証拠も、なしに……」
「証拠ならございます。入園記録、前例の証言、改竄の原本、治癒魔法の鑑定書。そして……宣誓の水晶の反応。すべてが、一つの真実を指しています」
議長が立ち上がった。学園長の顔は蒼白だった。
「本審問の結果を宣告する。リーネ・フォン・クレイシスの断罪は撤回。セレスティナ・マールスに対し、毒物偽装、証拠改竄の教唆、感情誘導魔法の使用容疑で拘束命令を発する」
セレスティナ様が騎士に連行されていく。その足取りは意外なほど静かだった。
すれ違いざま、彼女が私を見た。もう微笑みはない。化粧が乱れ、唇は乾き、瞳の奥には──疲労があった。演じ続けた者にしか分からない、深い疲労。
「……ねえ。私の周りにいた人たちは、みんな治癒魔法のせいで私に従っていたのよ。本当に私を見ていた人なんて、一人もいなかった」
声が震えていた。演技ではない。水晶の前で嘘をつけなくなった今、この声は──本物だ。
「あなただけは、私を見ていた。嘘を見抜くために。でもそれは……私を『見て』いたことに変わりない」
言葉が見つからなかった。
セレスティナ様は小さく笑った。微笑みではない。歪んで、不恰好な、でもどこか晴れたような笑い方だった。
「ありがとう。……やっと、終わった」
◇
審問が終わった。大広間が騒然とする中、廊下に出た。
足が震えている。膝から力が抜けそうだ。七日間の緊張が、一気に溶け出していく。
「クレイシス嬢」
ノエル様の声。振り返ると──初めて見る表情がそこにあった。
笑っている。あの堅物で無表情の騎士団副長が、確かに──笑っていた。
「よくやった」
たった五文字。でも、その声の温かさに──。
涙が出た。
七日間、泣かなかった。断罪の夜も、一人で震えた朝も、妨害された時も。泣いたら負けだと思っていた。推理に涙は不要だと。
でも──もう、いいだろう。
「……ありがとう、ございます。ノエル様」
声が震えた。涙で視界が滲む。
ノエル様が一歩近づいた。何か言いかけて……やめた。
代わりに、そっと──自分の外套を、私の肩にかけた。
──ああ。この温かさだ。ずっと覚えていた、この温かさ。
廊下の窓から夕日が差し込んでいた。水晶柱はもう、透明に戻っているだろう。
嘘のない世界は、少しだけ──眩しかった。




