第8話 私が選ぶのは
ヴィクトル殿下の瞳は、もう曇っていなかった。……だからこそ、はっきり言えた。
再審理六日目の夕方。学園の庭園、薔薇のアーチの下。ヴィクトル殿下が私の前に立っていた。
治癒魔法の副作用が判明してから、殿下は一晩で別人のようになっていた。目の下に深い隈を作り、頬がこけている。それでも瞳だけは澄んでいた。魔法の霧が晴れた目は、断罪の夜よりもずっと真摯だった。
「リーネ。──婚約を、もう一度やり直させてほしい」
覚悟を決めた声だった。王子として、ではなく。一人の男として。
周囲には庭園を歩く生徒の姿がちらほらある。こちらを遠巻きに見ている者もいた。「断罪された令嬢と王子の密談」……明日にはまた噂になるだろう。
「殿下。お気持ちは、ありがたく存じます」
「リーネ──」
「ですが、お断りいたします」
殿下の目が見開かれた。
風が吹いた。薔薇の花びらが一枚、殿下と私の間を通り過ぎた。
「殿下。あなたの謝罪は受け入れます。あなたが魔法の副作用に気づけなかったことを、責めるつもりもありません」
「では──」
「でも。私が選ぶのは、最初から私を信じてくれた人です」
言ってしまった。
言ってから、自分の言葉の意味に、遅れて気づいた。
最初から私を信じてくれた人。断罪の場で唯一、証拠に疑問を呈してくれた人。夜の外套。朝のサンドイッチ。推理を一言一句メモしてくれた、あの小さな帳面。
(……あ)
頬が熱くなった。
(これ、ノエル様のことですわ。私、今──ノエル様のことを言いましたのね)
ヴィクトル殿下が、ゆっくりと目を伏せた。
「……そうか。そう、だな」
殿下の声には、悲しみと、不思議な安堵が混じっていた。
「お前の幸せを祈っている、リーネ」
「ありがとうございます、殿下」
深く頭を下げた。長い婚約だった。愛していた……こともあった。だが、今の私の胸にあるのは、もう殿下ではない。
◇
庭園を離れて、ゲストハウスへの道を歩く。足取りが落ち着かない。心臓がうるさい。
(好き……なのかしら。ノエル様のことが)
推理ならいくらでもできる。前世で二百冊読んだミステリーの知識がある。でも恋愛に関しては参考書がない。いや、恋愛小説はそこそこ読んだけれど、自分事になると全く役に立たない。
(冷静に考えましょう。証拠を整理するように。一つずつ)
証拠その一。ノエル様がよそよそしくなった時、胸が痛かった。
証拠その二。ノエル様の外套の温かさを、三日経っても覚えている。
証拠その三。今、殿下に「最初から私を信じてくれた人」と言った時、浮かんだ顔はノエル様だった。
(──推理完了ですわ。被疑者は私。容疑は……恋)
自分で自分に呆れた。よりによって、事件の最中に恋を自覚するとは。推理小説の探偵なら、もっとクールに振る舞うところだ。
ゲストハウスの前で立ち止まった。夕日が建物の壁を橙色に染めている。
ノエル様は今日、庭園のどこかで殿下と私の会話を見ていたはずだ。遠くから。あの人はいつも、私を遠くから見守っている。
殿下が私の手を取った場面も見ただろうか。私が頭を下げた場面も。──でも、私が「お断りします」と言った場面は、声が届かなかったかもしれない。
(誤解しているのだわ。きっと、私が殿下と復縁したと思っている)
説明したい。でも、今その言葉を口にしたら、止まらなくなる気がした。事件が終わってから。全部が終わってから。
それまでは、この気持ちは、胸の中に仕舞っておこう。
◇
ゲストハウスの応接室で、全ての証拠を広げた。
入園記録。シュテルン女学院の証言。ロラン様の原本。改竄の分析結果。治癒魔法の鑑定書。フローラの偽証の記録。ヘルガ先生の毒物鑑定。ノエル様の配置図と時系列。
テーブルの上に並べると、壮観だった。七日前、私の手元には何もなかった。今はこれだけの真実がある。
扉をノックする音がして、ノエル様が入ってきた。
──まだ、少しよそよそしい。目が合うと、わずかに視線を逸らす。
(殿下との会話を見て、誤解しているのだわ。復縁したと思っている?)
訂正したい。でも「実は殿下を断りました、あなたのことが好きだからです」なんて、事件前夜に言える台詞ではない。
「明日の審問の段取りを確認したい」
ノエル様はいつもの簡潔な言葉で切り出した。よそよそしいくせに、仕事は完璧にこなす。この人は本当に不器用で、真面目で。
「はい。確認しましょう。──宣誓の水晶の前でのセレスティナ様への質問を、最終確認させてください」
白紙を広げる。ここからが最も重要な準備だ。
宣誓の水晶は、嘘をつくと赤く濁る。だが、「言わない」「はぐらかす」には反応しない。セレスティナ様は、嘘をつかずに真実を隠す回答を用意してくる。
だから──「イエスかノーでしか答えられない質問」を設計する。逃げ道を一つずつ塞いで、最後に「答えるか、黙るか」の二択に追い込む。黙れば水晶が反応する。答えれば嘘になる。どちらを選んでも、セレスティナ様の仮面が剥がれる。
ペンが紙の上を走る。質問の順番、誘導の流れ、セレスティナ様が逃げられるポイントと逃げられないポイント。推理小説の法廷シーンを思い出しながら、一つ一つ組み立てていく。
前世で最も好きだったミステリーの一節が頭をよぎる。「真実は隠せない。隠せるのは言葉だけだ。だから、言葉を奪え」。まさに今、私がやろうとしていることだ。
ノエル様が隣で黙って資料を整理している。会話は少ない。でも同じ空間で、同じ目的に向かって手を動かしている。それだけで十分だった。
時計が深夜を回った。
「完成しましたわ」
質問リストを差し出した。ノエル様が目を通す。
「……よくできている。これなら追い詰められる」
「ええ。明日で、すべてが決まりますわ」
ノエル様が立ち上がり、扉に向かった。その背中に、声をかけた。
「ノエル様」
「何だ」
「──明日。隣にいてくださいますか」
ノエル様が振り返った。碧い目が、真っ直ぐ私を見た。
「……当然だ」
短い。たった三文字。でも、その声には、六日間で一番温かいものが、込められていた気がした。
扉が閉まった後も、しばらく立ったまま動けなかった。
(明日。すべてが終わる。そして、すべてが始まる)
質問リストを胸に抱いて、窓の外の星を見上げた。明日の私は、きっと今日より強い。




