第3話 毒と薬草園と、騎士の外套
王宮薬草園の入園には、三等級以上の許可証が必要である。
私は持っていない。
朝霧が残る庭園を、ノエル様と並んで歩いていた。王宮薬草園は学園の裏手にある。高い石壁に囲まれたそこは、厳重な管理のもとで百種以上の薬草が栽培されている。
門番に騎士団副長の紋章を見せると、すんなり通された。ノエル様の権限──というよりも、彼の名前が持つ重みだろう。辺境伯の三男で、最年少で副長に昇進した男。門番が一瞬で背筋を伸ばしたのが印象的だった。
「入園記録は管理棟にある。こちらだ」
ノエル様が先に立って歩く。背が高い。私の頭ひとつ分は優に超えている。その背中を追いながら、薬草園の空気を吸い込んだ。
湿った土の匂い。薬草の青い香り。朝露に濡れた葉が、魔法灯の名残で微かに光っている。
管理棟の受付で、過去三ヶ月分の入園記録を閲覧した。
指でページを繰る。名前、日付、目的、滞在時間。淡々とした記録が並ぶ中に──。
「ありましたわ」
声が震えた。興奮で。
「一ヶ月前。セレスティナ・マールス様。目的欄には『聖女の職務に伴う薬草の視察』。滞在時間は──三時間」
「三時間か。薬草の視察にしては長い」
ノエル様が眉を寄せた。
「ベルガモア草の精製には、新鮮な状態での加工が必要です。摘み取りから精製まで、手慣れた人間でも二時間はかかる。三時間あれば十分ですわ」
一方、私の名前は記録のどこにもない。
当然だ。入ったことがないのだから。
(これで一つ──確実な物証が手に入った)
◇
次に向かったのは、ヘルガ先生の研究室だった。
薬学担当のヘルガ先生は、白髪を後ろで纏めた小柄な女性だ。学園で唯一、毒物の鑑定ができる専門家。研究室は薬品の匂いが充満していて、棚にはびっしりと薬瓶が並んでいる。
「先生。あの杯に残っていた毒物について、正式な鑑定をお願いしたいのです」
ヘルガ先生は老眼鏡の奥から、じっと私を見た。
「クレイシス嬢。あなたが犯人かどうか、私は判断する立場にありません」
「存じております。だからこそ、科学的な事実を教えていただきたいのです」
「……ふむ」
ヘルガ先生は椅子に座り直し、手元の資料を開いた。
「あの毒物はベルガモア草の精製毒で間違いありません。精製には高度な薬学知識が必要です。少なくとも、学園の薬学課程を修了した者か、それに準ずる知識を持つ者の手によるものです」
「私は薬学課程を履修しておりませんわ」
「それは事実ですね。成績簿で確認済みです」
ヘルガ先生の声は淡々としていた。味方でも敵でもない。ただ事実を述べる──学者としての矜持。
こういう人の証言は、何より重い。
「先生、もう一つ。あの毒を飲んだ場合の症状を教えてください」
「嘔吐、痙攣、発熱。発症まで最低三十分。致死量に達していなければ、半日程度で症状は治まります」
「セレスティナ様が倒れたのは、杯を飲んでから数分後でした」
ヘルガ先生の眉がぴくりと動いた。
「……それは、ベルガモア草の毒性とは一致しませんね」
やはり。セレスティナ様の「倒れ方」は不自然なのだ。
鑑定結果を正式な書面にしていただくよう依頼し、研究室を後にした。
◇
午後。学園のサロンに、断罪の関係者が非公式に集められた。
ヴィクトル殿下の命で設けられた「中間報告の場」だ。殿下は私に再審理の機会を与えたが、同時に「疑いが晴れなければ処分を執行する」という姿勢を崩していない。
セレスティナ様が席についていた。白いドレスに聖女の証である銀のティアラ。儚げな微笑みを浮かべて、まるで被害者そのもの。
(……あの笑顔。完璧すぎて、磨きすぎた銀食器みたい。前世の安アパートに銀食器なんてなかったけれど)
「セレスティナ様。一つお伺いしてもよろしいですか」
「ええ、もちろんですわ、リーネ様」
柔らかい声。穏やかな微笑み。隙がない。
「あの毒物──ベルガモア草の精製毒は、王宮薬草園でしか入手できません。入園には三等級以上の許可証が必要です」
間を置いた。サロン中が静まっている。
「私は入園許可証を持っておりません。入園記録にも私の名前はございません。──けれど、一ヶ月前に入園された方がいらっしゃいますわ」
セレスティナ様の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
ほんの一瞬。まばたき一回分にも満たない時間。だが私は見た。あの完璧な微笑みに、初めて亀裂が入ったのを。
「聖女の職務として入園されたと記録にありますが──三時間の滞在は、視察としては随分長いですわね」
「……薬草園は広うございますから。じっくり見て回りましたの」
微笑みは戻っていた。声も、表情も、完璧にコントロールされている。
だが、周囲の空気は変わった。サロンの貴族たちが、小さな目配せを交わしている。疑問の種が、確実に蒔かれた。
ヴィクトル殿下が「本日はこれで終わりとする」と場を閉じた。セレスティナ様の手を取って退室する殿下の横顔は、まだ聖女を信じている顔だった。
ふと、教頭の動きが目に留まった。セレスティナ様が立ち上がると、糸で引かれたように教頭も立ち上がる。セレスティナ様がサロンを出ると、小走りについていく。……まるで、飼い主の後ろをついて歩く犬だ。
教頭は去年まで、学園で最も厳格な人物だったはずだ。聖女相手でもあんな卑屈な態度は取らなかった。いつから変わった?
……分からない。今はまだ、分からない。
◇
日が暮れて、ゲストハウスへ戻る道。
春とはいえ、日没後の風は冷たい。ドレス一枚の肩が冷える。
ふわり、と。
背中に温かい重みがかかった。
ノエル様の外套だった。革と鉄と、ほんの微かな石鹸の匂い。体温がまだ残っている。
「夜風が冷える」
それだけ言って、ノエル様は前を歩き始めた。自分は薄い制服のシャツ一枚で。
「ノエル様、ご自分が寒くはありませんの?」
「騎士は寒さに強い」
(……そういうものかしら。頑丈ですこと)
外套を羽織り直した。大きすぎて、袖が手の先まで余る。
温かい。ただそれだけのことが、今日一日の緊張を少しだけ溶かした。
ゲストハウスに着くと、私の部屋の扉が半開きになっていた。
中を覗いて、息を呑んだ。
引き出しが引っ張り出されている。棚の本が床に散乱し、ベッドのシーツも剥がされていた。
「……荒らされましたわね」
ノエル様が即座に私の前に立ち、部屋を確認した。犯人はすでにいない。
「何が盗まれた」
「恐らく──捜査メモの写しです。今朝の推理をまとめたものを一部、ここに残していました」
ノエル様の表情が険しくなった。
「明日から、重要な資料は二人で管理する。部屋には鍵を追加する」
頷きながら、私は考えていた。
(この方──セレスティナ様は、思ったより手強いですわね。妨害が早い)
でも、裏を返せば焦っているということだ。証拠が積み上がっていることを、あの方も感じている。
ノエル様の外套を返そうとしたら、「明日でいい」と言われた。
「……ノエル様」
「何だ」
「この外套、少し大きすぎますわ」
「そうか」
それだけ。相変わらず愛想がない。でも……なぜか、大きすぎるくらいがちょうどいい気がした。




