第2話 堅物騎士と推理令嬢
震えが止まらなかった。
ゲストハウスの小さな寝室で、私はベッドの縁に座り込んでいた。誰もいない。壁の魔法灯がぼんやりと橙色の光を落としている。
昨夜の大広間での自分が、まるで他人のことのように思える。あの冷静な声。あの微笑み。あれは本当に私だったのだろうか。
右手を持ち上げた。
震えている。細かく、止めようもなく。
(……怖かった。本当は、すごく怖かった)
頭を上げて、天井を見た。ゲストハウスの天井は低い。大広間の高い天井とは大違いだ。あの場所で、三百人の視線を浴びた自分が信じられない。
前世の私はただのOLだ。法廷に立ったことなんて一度もない。満員電車に揺られて、コンビニ弁当を食べて、推理小説を読んで寝る。それだけの人生だった。推理小説は読む側であって、自分が謎を解く側になるなんて想定していなかった。
でも。
膝の上で拳を握った。震えごと、握りつぶすように。
泣いている暇はない。あと六日。六日で、すべてを暴く。
◇
朝食の時間に、ゲストハウスの応接室へ降りた。
テーブルの上に朝食が用意されていた。焼きたてのパンと温かいスープ、果物の盛り合わせ。それだけではない。着替えの衣装が三着、洗面具一式、そして筆記用具と白紙の束まで。
「……気が利きますのね」
思わず呟いた。これを手配したのが誰か、すぐに分かった。
応接室の扉をノックする音。
「入ってくれ」
──いいえ、ここは私の部屋なので、入っていただく許可を出すのは私のほうでは。
そう思ったが、もう扉は開いていた。ノエル様が捜査資料の束を抱えて入ってくる。朝から騎士団の制服を完璧に着こなし、髪もきっちり束ねている。この人、昨日の今日で寝たのだろうか。
「昨夜のうちに、断罪の場にいた全員の名簿と配置図を作成した」
言いながらテーブルに資料を広げる。挨拶どころか「おはよう」すらない。
(……この方、雑談という概念がないのかしら)
「それと、杯に触れた人間の記録。パーティー開始から断罪までの時系列も整理してある」
資料を見て、私は目を見開いた。時系列が分単位で記録されている。誰がどの位置にいて、何時に何をしたか。騎士団の報告書形式で、正確で、無駄がない。
「ノエル様。これを一晩で?」
「記憶力には自信がある。一度見た顔と名前は忘れない」
淡々と答える横顔に、ようやく気づいた。この人の目の下に、薄い隈がある。
寝ていない。私のために、一晩中これを作っていたのだ。
(……感謝と申し訳なさが半々ですわ)
◇
二人で事件の時系列を確認した。
「まず、矛盾を整理しましょう」
私は白紙に書き出し始めた。前世で培った──というか推理小説で学んだ──論点整理の方法だ。
「一つ。毒物がベルガモア草の精製毒であること。王宮薬草園でしか入手できない希少種で、私には入園許可がありません」
「二つ。杯に毒を入れるタイミング。パーティー中、杯はセレスティナ様の手元にあった。私が近づいた記録はノエル様の配置図にもない」
「三つ。セレスティナ様の倒れ方。毒を飲んでから倒れるまでが早すぎる。ベルガモア草の精製毒は即効性ではなく、通常は三十分以上かかる」
「四つ。セレスティナ様の『症状』。嘔吐や痙攣が出ていない。ベルガモア草の毒なら、まずそれが出るはずです」
「五つ──」
ノエル様が私の顔を見ていた。
「……貴女は本当に十八歳か?」
「十八歳ですわ。前世を含めると少々上乗せされますけれど」
「前世?」
「冗談です」
危ない。うっかり口が滑った。推理モードに入ると、つい前世の口調が出てしまう。気をつけないと。
ノエル様は怪訝そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。実直な方だ。仕事に関係ないことには踏み込まないという矜持が見える。
代わりに、資料の一枚を指で示した。
「五つ目の矛盾、俺も気づいていた。風紀委員長ダヴィエが提出した証拠書類──筆跡に不自然な箇所がある」
「ロラン様の書類に?」
「断定はできない。だが、俺は現場で数多くの報告書を読んできた。あの書類は、書き直した痕跡がある。インクの濃淡が一部だけ違う」
私は思わず身を乗り出した。椅子がガタリと鳴る。
「書き直し──改竄の可能性があるということですわね?」
「可能性だ。確証ではない」
慎重な物言い。しかし、その目には確信に近いものがあった。
私は白紙にペンを走らせた。五つ目の矛盾──「証拠書類の改竄疑惑」。書きながら、胸の奥がじわりと熱くなる。
パズルのピースが揃い始めている。まだ全体像は見えないけれど、確実に何かがおかしい。そしてその「おかしさ」は、私の無実を証明する道に繋がっている。
ノエル様は、最初からこの事件に疑問を持っていたのだ。だから昨夜、あの場で声を上げた。
(この方は──信じられるかもしれない)
◇
資料を一通り確認した後、今後の方針を話し合った。
「まず、毒の入手経路を潰す。王宮薬草園の入園記録を調べましょう」
「入園記録の閲覧には、騎士団か宮廷の許可が要る」
「ノエル様の権限で可能ですか?」
「……ギリギリだが、できなくはない」
ありがたい。推理小説の探偵が警察の協力を得るようなものだ。いや、この場合はノエル様が警察で、私が探偵か。
「明日、薬草園に行きましょう。入園記録を確認して、セレスティナ様が──いえ、誰が最近入園したかを調べます」
ノエル様が頷く。
応接室を出る時、廊下でロラン様とすれ違った。
ほんの一瞬。視線が合って、すぐに逸らされた。
ロラン様の手が──昨夜と同じように、小さく震えていた。そして瞳が泳いでいる。風紀委員長として堂々と証拠を提出した人物とは思えないほどの、怯えた目。
廊下に残った香り。清潔な石鹸の匂いと、それを上書きするような冷たい汗の気配。
(……あの方、何かを隠していますわね)
罪悪感だ。推理小説で何度も読んだ。良心の呵責を抱えた人間は、体が嘘をつけない。
手の震え。目の揺らぎ。すれ違いざまに見えた唇の乾き。あれは「正しいことをしている人」の顔ではない。
ゲストハウスに戻りながら、私は考えを巡らせた。
ロラン様は共犯者か。それとも──脅されているのか。
どちらにしても、あの人から糸を手繰れる。あの震えを止めてあげることができるのは、きっと真実だけだ。
窓の外では、学園の時計塔が朝の鐘を鳴らしていた。
六日間の時計が、静かに動き始めていた。




