第10話 新しい朝と、次の事件
事件が解決して三日。私の日常は──まったく、日常に戻らなかった。
クレイシス公爵邸の朝食室。テーブルの向かいにお父様が座っている。三日前、学園に駆けつけた父は、公開審問の結果を聞いて──泣いた。
泣いたのだ。あの威厳ある公爵閣下が。「リーネ」と私の名前を呼んで、人前も憚らず。
今朝はさすがに落ち着いているが、目元がまだ少し赤い。
「リーネ。朝から手紙が山のように届いている」
「ええ、存じておりますわ」
テーブルの隅に積まれた手紙の束。断罪の夜に手のひらを返した貴族たちからの謝罪状、社交界からの招待状、そして──見知らぬ人々からの応援の手紙。
「『推理の令嬢』と呼ばれ始めているらしいな」
「大袈裟ですわ。ただ証拠を集めて、論理的に並べただけですもの」
父が苦笑した。
「それができる十八歳が何人いると思っている」
褒められると弱い。頬が熱くなった。この欠点は前世から変わらない。褒められ慣れていないのだ。前世のOL時代も、上司に「よくやった」と言われると固まっていた。
(……そういえば、ノエル様の「よくやった」でも固まりましたわね)
その名前が浮かんだだけで、胸がざわつく。三日前の審問後から、まだノエル様には会っていない。騎士団の事後処理で忙しいと聞いている。
◇
午後。学園を訪れた。
荷物の整理と、いくつかの人に会うために。
まず、ロラン様。
風紀委員長のバッジを外したロラン様は、三日前より少し──穏やかな顔をしていた。
「クレイシス嬢。ご報告です。姉の治療は、殿下のお計らいで王室の費用で継続されることになりました」
「よかった。ロラン様のお姉様が回復されることを祈っていますわ」
「……ありがとうございます。そして──申し訳ありませんでした」
深く頭を下げるロラン様に、私は首を横に振った。
「あなたはもう償いましたわ。原本を残してくれたこと──あれが全てを変えたのです」
ロラン様は法務官への道を閉ざされた。だが、私とノエル様の嘆願書が受理され、減刑されている。新しい道を歩き始める彼の背中は、もう震えていなかった。
◇
次に、ヴィクトル殿下。
学園の庭園で、殿下は一人で佇んでいた。三日前の蒼白さは消えたが、目の下の隈はまだ深い。
「リーネ。……いや、クレイシス嬢」
「殿下」
「婚約破棄の正式手続きを、父上に申請した。書類は来週中に届くだろう」
「承知いたしました」
「……一つだけ、聞かせてほしい」
殿下が私の目を見た。真っ直ぐに。もう曇りのない瞳で。
「お前が言った、“最初から信じてくれた人”。それは──ヴァルトシュタインか」
心臓が跳ねた。
「……殿下。そのような話は」
「いや、いい。答えなくていい。──顔を見れば分かる」
殿下が微かに笑った。悲しそうで、けれどどこか晴れやかな笑み。
「あいつは、いい男だ。俺が保証する」
「……ありがとうございます、殿下」
「頑張れ、リーネ。お前の幸せを──心から願っている」
もう恋人ではない。婚約者でもない。でも……この瞬間、ヴィクトル殿下と初めて対等に向き合えた気がした。
◇
夕方。学園の中庭を歩いていたら、ノエル様がいた。
騎士団の制服ではなく、簡素な白いシャツに黒の上着。髪はいつも通り後ろで束ねている。腰に剣はない。
三日ぶりに見る横顔。相変わらず──無愛想で、背が高くて、目つきが鋭い。
(……好きだなあ)
もう誤魔化せなかった。推理の余地もない。被疑者は私、容疑は確定だ。
「ノエル様」
「……クレイシス嬢」
まだ「クレイシス嬢」か。六日間を共に過ごしたのに、律儀にも距離を保っている。
「事後処理は終わりましたの?」
「ああ。──それで、一つ、伝えたいことがある」
ノエル様が一歩近づいた。碧い目が、まっすぐ私を見ている。いつもの視線だ。でも──今日は、どこか違う。
「俺は──」
口を開いて、閉じた。開いて、また閉じた。
(……この方、何度やり直していますの?)
「俺は、貴女の傍にいたい」
低い声が、夕暮れの空気に溶けた。
「捜査のためではなく。騎士団副長としてでもなく。──俺自身の意志として」
心臓が、うるさい。
「ノエル様、それは──つまり……」
「好きだ。──リーネ」
名前で呼ばれた。初めて。六日間、ずっと「クレイシス嬢」だった人が、今──リーネ、と。
その声が耳の奥で何度も反響する。低くて、少しだけ掠れていて、不器用で。
頭が真っ白になった。推理ができない。論理が組み立てられない。前世で読んだ二百冊のミステリーも、この瞬間には何の役にも立たない。
「そ、それは──つまり、論理的に考えますと──」
「論理は関係ない」
「で、ですが、証拠の検証が──」
「証拠も関係ない」
「え、えっと──」
ダメだ。推理で誤魔化そうとしているのが自分でも分かる。顔が熱い。耳まで赤いだろう。
深呼吸した。
「……私もです」
やっと出た。たった四文字。でも──それで十分だった。
「私も──ノエル様の、おそばにいたいです」
ノエル様が、目を見開いた。そして──笑った。三日前の審問後よりも、もっと。この六日間で一番の……いや、おそらくこの人の人生で一番の笑顔だった。
夕日が二人の間を橙色に染めている。学園の時計塔が、六つの鐘を鳴らした。
◇
それから数日後。
クレイシス公爵邸の書斎で、朝の手紙を開いていたら──見慣れない封蝋の手紙が混じっていた。
差出人は、隣の領地の子爵。内容は──。
『領内で不審な事件が発生しております。毒物が関係している可能性があり、クレイシス嬢のお知恵を拝借できれば幸甚です』
「……また推理ですの?」
呟いた瞬間、書斎の扉が開いた。
「リーネ。何か面白い手紙が来たようだな」
ノエル様だった。──最近、よくうちに来る。父が妙に嬉しそうに迎えるのが困る。
「事件の相談ですわ。毒物が絡んでいるらしいのですけれど」
「ほう」
ノエル様の目が光った。この人、こういう時だけ表情が動く。
「調査に行くなら、護衛が要る」
「……任務ですか?」
「いや。──俺が行きたいだけだ」
目が合って、二人で小さく笑った。
窓の外では春の風が吹いている。新しい季節。新しい事件。
「ノエル様、いえ……ノエル」
「何だ」
「お弁当、作っていきますわ。捜査に空腹は禁物ですもの」
「……頼む」
頼む。この人がその二文字を言うのを聞いたのは、初めてかもしれない。
推理令嬢と堅物騎士。どうやらこの組み合わせは、もう少しだけ続くらしい。




