第四話 野々宮side B
和菓子屋を出た野々宮は、ゆるやかに暮れてゆく夕空の下、駅までの道を黙って歩いた。
駅前の本屋に入り、何気なく手に取った雑誌をめくりながら一時間過ごす。読み耽るとあっという間だ。独身で独り身の彼にとっては忙しいときのストレス発散方法の一つでもある。
空がすっかり夜に染まったのを見計らい、電車に揺られて繁華街へと向かった。
目指したのは、ひとり暮らしの1LDKアパートではない。
騒がしさと汗の熱気が充満する、繁華街の片隅にあるクラブだった。
入店前、野々宮は駅のコインロッカーの前で立ち止まり、手慣れた動作で着替えを済ませる。
白いシャツを脱ぎ、代わりに黒いシャツを羽織り、ゴールドのネックレスとブレスレットをつける。両耳にはシルバーのピアス。
トイレの鏡の前で眼鏡を外し、コンタクトに替え、髪を無造作に整える。仕上げに、手首と耳の裏に香水をひと吹き。甘すぎず、スモーキーな夜の匂い。
私立高校の教師という肩書きとはかけ離れたその姿は、彼にとってもうひとつの顔だ。
子供のころからずっと「いい子」でいた。
東京の大学に進学するために塾通い、模試、内申……「規則正しさ」は生き延びるための術だった。
教師になってもそれは変わらなかった。
正しさを求められ、口を慎み眉間に皺を寄せ、ひたすら子どもたちの未来のために善くあろうとする日々。
だが一度、この夜の世界の喧騒と湿度を知ってしまえば、そこへ還る自分を止められなかった。こんな姿を生徒や保護者が知ったらどうなるだろうか。
そんなのは関係ない……どうでも良いと思っているようだ。
疲れているからこそ、騒がしさが心地よかった。
汗とスモーク、スピーカーの低音。
炭酸のノンアルドリンクを片手に、フロアの端で静かにタバコをふかす。タバコも学校内では禁煙、アパートでも吸わないためタバコはだいぶ前に買ったものだ。
そして踊らずただ音楽に合わせ踊る人々を眺める。誰も自分を「先生」と呼ばない、名もいらない夜の海に身を沈めるように。
――それだけで、十分に癒された。
そしてふと、朝の記憶が蘇る。
職員室。会議の冒頭、校長が声を荒らげていた。
『みなさんもご存じの通り、夏休み明けで、事態は深刻です』
(知ってますよ、うるさく言わなくても)
そう顔に出さないように努めながら、内心ではうんざりしていた。
隣に座る部下の高橋は産休を前倒しして出勤し、乳児の夜泣きで寝不足げっそりした顔だ。教師も人間。
他の教員たちも継いだらあくびを両手で覆い隠す連鎖が起きている。
『昨年の事件以降、入学志願者が激減しています。
大学側も、今までの推薦枠を一部取り下げました』
推薦枠が外れた生徒は、授業料の免除や補助も受けられないものもいる。
そのため経済的に進学が難しくなる子も出てきて、それを知った保護者のなかには、すでに他校への転校手続きを進めている家庭もある。
野々宮の学年でも、それは現実だった。数名どころか、十数名。まだこれからも増えるのではとヒヤヒヤし、説得に説得を重ねる日々。
『そして臨時で教員を増やします。すでに教員人材バンクに連絡し、候補者の履歴書が届いています』
聞こえてはいたが、心はもう半分抜けていた。
補充しても、辞める者が絶えない。履歴書の紙束をめくるたび、また同じことの繰り返しだろうと、職員室にはため息が漏れた。みんな同意見だ。
一時期、事件の噂目当てでやってきた若い教員もいた。またはそれをなんとかしようという正義感の強いベテラン教員もいた。
だが、彼らは思った以上の現場の忙しさ、悲惨さに耐えきれず、保護者からの叱責や大学への説得など責務は重く、長くはもたなかった。
クラブの隅で愚痴と共に煙を吐く。
「……かったる」
スピーカーから流れる重低音に身を任せながら野々宮はまどろんだ。完全に現実逃避だ。




