第三十話 一ノ瀬
黒いシャツに白いパンツという落ち着いた服装。手には手ぬぐいを持ち、表情は穏やかであった。
「あ……」
希菜子が小さく息を呑む。葵も黙って軽く頭を下げた。
「お久しぶりです」
先に声をかけたのは、昇降口から出てきた野々宮だった。
「……昨年、うちの子のことで大変ご迷惑をおかけしました」
彼女は龍弥の母親の一ノ瀬真紀子であった。彼女は深く頭を下げる。
「いえ……立派なお子さんでした。あんなに誠実な生徒は、そういませんでしたよ」
野々宮の言葉に、彼女は静かに頷いた。
「来年、龍弥の弟がこちらの学校にお世話になります。正直……悩みました。こんなことが起きたあとで……でも……」
彼女の声がわずかに震える。
「……私も主人も、この学校の卒業生なんです。だから……こんな形で白常盤学園を終わらせたくないんです」
その言葉に、野々宮と辻村は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
すると希菜子の母が、明るく手を打った。
「私も卒業生よー。代は違うけど、ここで学んだ一人よ。ふふ、ほほほ!」
笑い声に場の空気が少しだけ緩む。
「卒業生や在校生で来られない人も、みんな気持ちは同じ。この学校は、まだ終わっちゃいけないわよ!」
希菜子も母の言葉に倣って、微笑んで頷いた。
それを見た野々宮は深く息を吐き、声を張った。
「……よし。じゃあ、みんなで掃除をしましょう!」
「おー!」
周囲からもいくつかの声が返り、かすかに笑顔が戻ってくる。
――そのときだった。
「……あれ? あの先生……?」
龍弥の母が、ふと昇降口の影に目を留めた。
校舎から現れたのは、田所信作と、妻・節子。いつも使う掃除道具とゴミ回収のボックス共に後者から出て来た。
「一ノ瀬さんも、あの先生ご存知で?」
と希菜子の母が尋ねる。
「……ええ。でも……」
龍弥の母は口を濁した。
「たしか田所のおっちゃん……20年前は先生だったから女将さんとかの代では教師だったか」
辻村が野々宮に小声で確認する。
「てことになるな」
辻村が遠目の二人に目をやる。テキパキ動く節子と、その後ろをゆっくりついていく信作。
そのとき、龍弥の母と希菜子の母が顔を寄せて、ひそひそと何かを話していた。
辻村が気になって振り返ると、希菜子の母がふふふと笑った。
「あの人教師の時に……生徒の保護者に手を出したって、昔ちょっと噂になったのよ。奥さんも子どももいたのに」
「……結局、ダブル不倫でクビになったって話だったわね。幻滅よね。ってあの人が不倫相手かしら」
親たちの噂話に、希菜子と葵はため息をつきながら、バスケコートの掃除に戻った。
「……」
遠くから見る田所夫妻の背中に、どこか影が落ちているように見えた。
――過去の過ちを抱えたまま、この学び舎に留まり続ける二人。その背中は、重いものを背負っているようだった。




