第二十九話 元に戻す
一週間後の平日。朝9時半。藤守が自首し、逮捕されたのちのことだ。
晴れた空の下、校内には久しぶりにたくさんの人々がいた。
教師だけでなくPTAの保護者、生徒や卒業生ら有志の姿もちらほら。
それぞれが掃除に勤しみ、中には外にいたマスコミが捨てていったゴミやタバコの吸い殻を拾っている者もいた。
例のバスケットコート。
葵は久しぶりにその場所に立った。落ち葉がすごく溜まっている。
「ここは綺麗にしなきゃね。先輩たちが作ってくれたし……また息抜きでここで遊びたいでしょ?」
希菜子がそう言って、葵を見る。ここで龍弥とバスケをした時の記憶が蘇る。
夏休み明け、なんとなく龍弥の様子がおかしかった――今思えば、あれは何かを抱えていた兆しだったのかもしれない、とは言ったもののそれはなんだったのか。まだ2人の中には消化不良気味でもある。
当初の藤守の供述では、婚約者の門倉の過去を知った友里恵がパニックになり、屋上から飛び降りようとしたところを龍弥が庇って転落。驚いた友里恵が後を追うように飛び降りた、とされていた。
けれどもその証言は、彼のスマートフォンの解析によって大きく揺らいだ。
友里恵のスマホには、事件直前の音声が録音されていたのだ。
そこには藤守が友里恵に門倉のことを伝える場面があり、たしかに彼女は一瞬沈黙したものの、取り乱す様子はなかった。静かに、しかし確かに「……そうなんですね」と事実を受け止めていた声が録音されていた。
その直後、藤守の口調が変わった。
「でも、俺は……俺は、君のことを……ずっと好きだったんだ」
悔しさと執着の混じる声。
「俺は、悔しくて悔しくて……どうして門倉なんか……」
音声の中で、龍弥の声が割って入る。
「藤守先生、やめて!」
続いて友里恵の声も重なる。
「一ノ瀬くん、ダメ!」
録音には、何か揉み合っているような音が聞こえた。
「お前、離れろ!」と、藤守の怒声。
それに続いて、必死な叫び声。
「一ノ瀬くん!」
そして、急に音が遠のくようなノイズ。
「……どうするの……一ノ瀬くん、落ちちゃっ……」
録音は、そこで途切れていた。
第三者の存在はなかった。だが、この音声が語るのは、藤守の証言とは食い違う、もっと生々しい「現場の空気」だった。
その音声を聴かせるや否や藤守は2人を突き飛ばしたことを供述し始めたらしい。
自分はそのつもりはなかったがたまたましんじゅうひめとも掛け合って心中事件とSNSが勝手に騒いでくれて助かったと。
しかし門倉の遺体を誰が移動させたのかはまだわかっていないようである。
教師との交際はなかったことが確かめられ、龍弥はただ、誰かを守ろうとしただけだった――その一点だけは、ようやく世間も認め始めていた。
でも、噂というものは、すぐには消えない。
それでも葵の中では、ようやく腑に落ちたような気がしていた。
「龍弥は……先生を助けたかったんだろうな」
横を見ると、希菜子が無理に笑おうとしていた。
自分だって辛いはずなのに、誰よりも明るく振る舞うその姿に、葵の心は救われる思いがした。
無理はしない。
でも、自分たちにできることを――少しずつ。
そこに野々宮と辻村が掃除道具を持ってやってきた。
「やっぱここにいると思った」
野々宮が声をかけると希菜子は微笑み、葵は会釈をした。
希菜子は野々宮たち二人を見てフフ、と微笑んだ。
「なんかお二人……前よりも仲良くなった感じがする」
!!! と野々宮はのけぞる。辻村はなんでそんなことでのけぞるのか? と笑うが希菜子になんでそう思ったの? と。
「なんかさ、二人の距離感」
そう言った瞬間に野々宮は距離をとった。一週間前の藤守の自白、辛いものはあったが初めてあそこまで感情をむき出しにできた野々宮もまた一歩前進できるきっかけにもなった。
この一週間のうちに二人は昔のように愛し合い元通りになった。今はもう止めるものはない。もちろんこの関係はバレてはいけない。
と、最初は和やかなムードに戻ったのだが……。
葵の目がふと向いたのは、バスケットコートの奥にある雑木林だった。
その先には、今も黄色い規制線が張られている。門倉の遺体が見つかった場所だ。
「……あの奥に、埋められてたんだよね」
葵がぽつりとつぶやくと、希菜子も静かに頷いた。
「まさかね……門倉先生がいたすぐそばで、バスケしてたなんて」
辻村が少し声を落として尋ねた。
「……希菜子さんは、門倉先生のこと、どう思ってた?」
希菜子は、少し考えてから答えた。
「優しくて、気が利く先生でした。うちのクラスにもよく顔を出してくれて……。あのニュース、最初は信じられなかった。……殺されてたなんて、かわいそうって思った」
隣で葵も頷く。
「皆に好かれてたし、すごく真面目に働いてたよね。だから……盗撮とか、そういう話、本当に信じられない。そんなことが事実だったら……誰のことも、信じられなくなりそうで」
門倉は、表向きには“いい先生”だったのだろう。
「どっちかっていうとさ、藤守先生の方が……ちょっと気味悪かったっていうか」
と、葵が言い出す。
「希菜子のスカートの丈、模範的だって他の子と比べてやたら見てきたし。水泳大会のときも、なんか……」
「……やめよ、葵」
希菜子が小さく言って、葵の腕に手を添えた。
葵ははっとして、口をつぐむ。
すると野々宮は、希菜子たちの前に静かに頭を下げた。
「……本当に、申し訳ない。藤守たち、そして門倉のことで……学年主任として……いや、白常盤の教師として……いや、大人として君たちに……申し訳なさすぎる」
その声は震えていた。
希菜子は戸惑ったように一歩前に出る。
「そんな……野々宮先生は悪くないです。今残っている先生たち、辻村先生だって、すごく頑張ってくれてるのに……」
頭を下げ続ける野々宮の姿に、葵も、辻村も、一瞬言葉を失っていた。
「……僕が、もっと早く踏み込んでいたら、こんなことにはならなかった。すまない……」
その言葉に、辻村が慌てて間に入った。
「こらこら、野々宮先生……今日は掃除の日だろ? 謝るのはこの間、理事長も校長も含めて皆で済ませたろ。ここは感謝されるターンだぞ」
冗談めかした声に、ほんの少し空気が和らぐ。
「……大丈夫です、先生」
希菜子が、そっと微笑みながら言った。
「野々宮先生だけが背負うことじゃないです。いろんなところに掛け合ってくれてるの、知ってます。……それに、隣の高校が学祭に招待してくれて。ね?」
希菜子が葵に視線を送ると、葵も頷いた。
「うん。希菜子のお母さんも手伝ってくれて。いまは、みんなで助け合って乗り越えるしかないよね」
辻村がそっと野々宮の肩に手を置く。
野々宮はゆっくり顔を上げる。目元は赤くなっていた。
「心中姫、形に残しておくことはできるんじゃないかって。“命の尊さを伝える展示”って名目でさ。緊急だったけど、あっちの先生が興味持ってくれたって」
「すごいね……!」
二人の声が少しだけ明るくなる。
そのとき。
「……あら、いたいた」
声の主に振り向いた二人の表情がぱっと変わった。
希菜子の母が、柔らかい笑みを浮かべてこちらへ歩いてくる。そして、その隣に立つ女性を見て、空気が少し変わった。
静かに近づいてきたのは――龍弥の母だった。




