第二十八話 友里恵
「なんてことを……!!」
野々宮が怒声を上げた。声を荒げるのは、彼にしては珍しいことだった。
藤守の目が細められ、ゆるく口角が上がる。
「おお、怒るとそんな顔するんですね……いつもはメソメソ泣いてばかりだったのに」
それを遮るように、辻村が野々宮の前に立ち、鋭く睨みつけた。
「おやおや……君までそんな顔するなんて。余計なことしないでくださいよ。せっかく、何事もなかったことにできそうだったのに」
藤守のその言葉に、空気が一瞬凍った。
「……友里恵先生と一ノ瀬くんを落としたのは……。心中に見せかけたのは……お前なのか、藤守」
野々宮の声は震えていた。怒りか、恐怖か、もしくはその両方か。
「ノーノー。殺してなんかいないよ。やだなあ、また憶測か。君の妄想、怖いねえ」
薄ら笑いを浮かべる藤守に、辻村が一歩前に出る。
「……でも、巻き込まれたんだろ。一ノ瀬くんは」
すると藤守は、面倒くさそうに鼻で笑った。
「アイツもアイツでさ、友里恵先生との“演技”を続けるうちに本気になっちゃったみたいでね。金魚のフンみたいにベッタリくっついて、正直うざかったんだよ」
「……生徒をそんなふうに呼ぶのか。教師のくせに、最低だな」
辻村の目が冷ややかになる。
だが藤守は、まったく悪びれた様子を見せない。
「門倉くんのことだってそう。アイツが失踪したのも、別に俺がどうこうしたわけじゃない。しつこかったんだよ、“俺は関係ない”とか言い張ってたけど、アイツの作った映像とか流通経路とか、こっちは全部知ってるからさ」
「……それを、友里恵先生に見せたのか?」
辻村の問いに、藤守は「当然でしょ?」とでも言うように肩をすくめた。
「言葉だけじゃ納得しないでしょ? あんな台本の中のセリフの変化は君たちが気づいただろうけど伝わらないでしょ? ちゃんとした証拠、見せなきゃさ」
「……てめぇ……」
その瞬間、野々宮が藤守に飛びかかり、胸ぐらをつかんだ。
「野々宮! やめろ!」
辻村がすかさず間に入り、野々宮を引き剥がす。
「なにこれ、暴力? 怖いなぁ。まさか君、友里恵先生に惚れてたわけ?」
「違う……」
野々宮は息を切らしながら叫ぶ。
「違う……でも……部下が、二人も!!」
野々宮の声が、怒りと悔しさに裂けるように響いた。
「門倉先生は、自分でなんとかしようとしてた……最後まで……なのに、あんたが……勝手に……!」
震える拳。今にも叩きつけそうな手を、彼は必死に堪えていた。身体ごと怒りと無力感に締めつけられている。
辻村は無言でそっと野々宮の肩に手を置いた。押さえつけるのではない、支えるように。
「……それ以前に……門倉先生になりすまして、俺たちと連絡を取ってたのは……あんたか?」
その言葉に、藤守の口元が歪んだ。笑いをこらえきれないように、肩を震わせて――
「はははっ……そうだよ、そうそう。声が出ないから電話できない、って設定にしてさ。メールだけのやり取りを“許可”する上司……マジでウケたわ。ちょろすぎて引いた」
ついに、藤守は認めた。
「門倉のマンションに出入りしてたのも、お前だな。防犯カメラに映ってた顔、バレてる」
辻村の言葉に、藤守はわざとらしく目を見開いてから、肩をすくめた。
「……んー、あー、やっぱバレた? だよねえ。でも悪いのは野々宮先生だよ。結局、一度も直接会おうとしなかったでしょ?」
ふっと、冷笑を向ける。
「もし門倉が“偽物”だって気づいてれば……友里恵先生も、一ノ瀬くんも……死なずに済んだかもねぇ」
その瞬間、野々宮の全身から力が抜けた。ぐらりと身体を揺らし、膝から崩れ落ちる。
「……あ……あぁ……っ」
我慢していたものが、決壊した。声にならない嗚咽が喉を震わせ、涙が止めどなく流れ落ちる。
叫びながら、辻村はその身体を必死に支え続けた。
藤守は、じっと見つめ合う二人の視線に、奇妙な不安を覚えた。
(……なんだ? こいつら、ただの同僚じゃないな)
野々宮の揺れる瞳、辻村の静かな眼差し——それは、何かを共有してきた者同士のものだった。仕事の相棒というには、あまりにも近く、あまりにも痛みに満ちている。
(まさか……いや、そんなこと……)
一瞬浮かんだ考えを自分で打ち消すも、藤守の胸には、微かな焦りが灯っていた。
その様子を、藤守はソファにもたれかかりながら、冷ややかに見下ろした。唇の端を吊り上げ、嫌らしい笑みを浮かべる。
「やっぱりさ……あんたら、普通の“同僚”じゃなかったんだなぁ」
にやり、と笑う。
「……2人の関係、バラしてから自首する。これで完全に終わりだな、この学校。犯罪者に、変態に、同性愛者……マジで地獄だよ。あーあ、あの学校も終わりだ!」
その瞬間、辻村の表情が変わった。
野々宮の肩から手を放し、一歩、藤守に近づく。そして——
「同性愛がどうしたッ!!?」
怒声が響き、空気が震えた。
「そうだよ、俺らはズブズブに愛し合ってたよ。それがなんだ? 誰にも恥じることなんかない!」
辻村は、鋭い目つきで藤守を睨みつけながら、拳を強く握った。
「俺たちがどんな思いでここまで来たか、お前にわかるか? 俺らだけじゃない……友里恵先生も、一ノ瀬くんも、門倉も、そして真面目に生徒と向き合ってた教師たちも、お前の歪んだ欲望の犠牲者なんだよ!」
怒りのあまり、辻村は藤守の胸ぐらを掴み、ソファに押し倒す。藤守は目を見開いた。
「黙って……好き放題やって……人の人生、何だと思ってんだ!」
野々宮は黙って、それを見つめていた。ただ、辻村の背中にそっと視線を送る。その表情は、どこか誇らしげだった。
やがて辻村は、はっと息を整えると、ゆっくりと手を放した。
藤守はソファに崩れ、薄く笑いながら呟いた。
「……やべぇ、掘られるかと思った」
辻村はふっと鼻で笑った。
「アホか。俺はそっちじゃねえよ」
そしてすぐに真顔に戻る。
「……自首しろ。今ならまだ、ほんの少しでも人間らしい選択ができる」
その言葉に、藤守は何かが切れたように力を抜いた。まるで魂が抜けたかのようにうなだれ、ぽつりと呟く。
「わかったよ……警察に話す。どうせ俺は生きるつもりはせず……死のうと思ってたんだよ」
「死ぬって……?」
藤守の目線はどこか遠くに行っていた。
「……ここまで生きてきたのも奇跡だよ。まあ死ぬ理由は部下数人亡くなって教員不足になって過労でおかしくなって死んだ、てことでね……」
藤守の表情は曇っていた。
「でも一つ、だけな……門倉を殺したのは……まぁ、事実だけどさ。一度離れて戻ったとき……あいつの死体が消えてたんだ」
ふたりは息を呑んだ。
「……見つかるまで、ずっと思ってた。生きてるんじゃないかって。戻ってきて、俺を殺しにくるんじゃないかって……」
座り込んだ藤守の肩が、小さく震えていた。
その傍らで、野々宮は立ち上がり、辻村にそっと抱きついた。胸に顔を埋め、浅く乱れた呼吸を整える。
辻村は、その身体をしっかりと抱きとめた。
「……結ばれないくせに……そんなに想って、バカみたいじゃん」
と、藤守が投げかけた。揶揄するような口調——けれど、その目には涙が浮かんでいた。
「……そう思ってたよ、昔は」
野々宮が、辻村の胸の中から顔を上げて、藤守に向き直る。
「でも今は……そうでもない」
そう言って、さらに強く、辻村の身体にしがみついた。
「バカじゃねぇの……男女の仲でさえももろいっつーのによ」
藤守は、ふっと鼻で笑った。そして、頬を伝う涙を拭おうともせず、ただ、黙ってソファにうずくまった。
——そのとき、外からパトカーのサイレンが近づいてくる音がした。
「呼んだんか」
「一応な……」
辻村がそういうと藤守は膝から崩れ落ちてうずくまった。




