第二十二話 2人だけの朝
翌朝、辻村は目を覚ました。
隣には、もう野々宮の姿はなかった。
いつ眠ったのか、記憶は曖昧だった。
深夜、暗闇の中で聞こえたすすり泣きの声と、ティッシュを引き抜くかすかな音。背中越しに感じた野々宮の気配に、目を開けることもできず、ただじっとしていた。
――背中をさすってやればよかった。
今さらになって、辻村はそう思う。
(昔から俺は、こういうところで気が利かない)
シャワーを浴びて部屋に戻ると、ちょうど台所にいた野々宮と目が合った。
「……おはよう」
「おはよう。ゴミ出してきた、さっき」
野々宮の目の縁が、ほんのり赤い。
だがそれ以上に、あまりにも平然と交わされたその挨拶が、妙に胸に引っかかった。
こうして朝を一緒に迎えるのは、十年ぶりだった。
壁の時計は、まだ朝の四時半を指している。
やけに早い朝。――いや、そもそも眠った記憶はほとんどない。
「眠れた?」
「んー、どうかな……」
振り返ると、昨夜脱いだスーツがきちんとハンガーに掛けられていた。
その几帳面さに、変わらない部分を見つけた気がして、思わず苦笑する。
「……タトゥーあると、長袖じゃなきゃダメなの、ちょっと不便だな」
「もう慣れたよ。消すのも……面倒くさいし」
「消すのって高いし、痛いらしいよな。まあ、痛い思いして彫ったのに、また痛い思いして消すって……割に合わないよな」
「……ん、まあ……そうですな」
「あの頃よりも増えてるし……」
辻村は笑いながら胸元の十字架のタトゥーを指差した。
「まぁ、いろいろありましてな。クリスチャンでもないのにな。厄介ごとに巻き込まれませんようにって……これもある意味ジンクス、かな」
ふぅん、と野々宮は台所へ戻る。
冷蔵庫を開ける音、包丁がまな板にあたる音。
その生活音が、少しずつ部屋を目覚めさせていく。
「……朝ご飯、パンじゃなくてご飯だけど、いい?」
その声に、辻村はふっと肩の力を抜いた。
「……ああ、いいよ。食べられるだけ、ありがたい」
昔のようでいて、もう昔ではない。
それでも、温かな匂いがじわじわと部屋に広がっていく。
朝食は、手際よく並べられていく。
ご飯、味噌汁、焼きしゃけ、昨晩の親子丼の残り、ヨーグルトにバナナ。
整った食卓を前に、辻村は思わず小さく息をついた。――安堵と、少しの戸惑いが入り混じった吐息だった。
――こんなしっかりした朝食、三十男の一人暮らしで毎朝出てくるもんじゃない。
だが、これが今の野々宮の日常なのだ。
時間は流れ、変わったのは自分だけじゃない。
辻村は黙って箸を取り、静かに食べ始めた。
行儀は悪いが、食べながら台本を開く。演出ノートに近く、セリフよりも舞台装置や照明、映像のタイミングなどが細かく書き込まれている。
ピンクのマーカーは、希菜子が演じた役のセリフ。野々宮が言っていた。
――彼女は友梨恵を祝うために、そのセリフにもお祝いの気持ちを込めていたと。
他の役たちの祝福のセリフ、踊り、歌。
だがそれらは、王子と姫の家族の修羅場によってかき消されていく。
そして、姫の言葉。
「『……誰も許してくれないなら……どこか私たちの知らないところに行きましょう……』」
辻村はその一節を、ぽつりと声に出す。
流しに立ったまま、野々宮が応じた。
「……お金がなくて、行き先がないんだ。姫も、王子も」
ト書きには《王子が財布を振る。小銭が数枚、鳴る》とある。
「……これから死ぬなら、借金してでもどっか行けばよかったんじゃねえの?」
辻村がぼやくように言うと、野々宮は一拍置いてから答えた。
「……バカ。それじゃ心中物語にならないだろ」
冷静に、淡々と。野々宮は洗い物を続ける。
「それに……逃げても、結局、捕まるよ。戸籍も、身元も、全部照らされる」
辻村はその言葉に、そっと目を伏せた。
――十年前も、そうだった。
二人で心中を図った夜。
生きて引き裂かれるくらいなら、死んで一緒にいたかった。
辻村は静かに台本を閉じ、口を開く。
「……この劇、何度も見てたんだろ? お前、何も思わなかったのか?」
台所の水音が止まり、野々宮の動きも止まった。
返ってきたのは、少しの沈黙のあと。
「ああ。何度も見たよ。まるであの時の僕らみたいだって、何度も思った。そのたびに……君を思い出した」
野々宮はそう言った。
「心中したあと、残された人たちの前に二匹の蝶が現れるんだ。つがいの。仲睦まじく、幸せそうに舞っている」
辻村は再び台本を開き、最後まで目を通し、ゆっくりと閉じた。
「……来世ではまた会えたんだって、皆がそう思って……歌って、踊って……幕が下りるのか」
野々宮も、静かに席についた。
辻村はぼそりと呟く。
「……これを書いた人も、結ばれない運命の中で……それでも祝福される結末が欲しかったんだろうか。死んでまで、さ」
その横顔に、野々宮の視線がじっと向けられる。
辻村は気づいているのかいないのか、目を伏せたまま続けた。
「……この劇、野々宮が高校に入る前からあったんだよな? じゃあ、お前が書いたわけじゃないよな……誰が、書いたんだ?」
問いというより、確信のない呟き。
「なんで僕が書くんだよ」
野々宮は笑うでもなく、ただ短く返した。突き放すような口調ではない。ただ真正面から否定した。
沈黙が流れた。
それでも辻村は、何かが溢れそうなまま、再び口を開いた。
「……俺たち、心中に失敗して、それぞれの道を歩いて……必死に生きて……」
言葉を探すように、間を取る。
「……で、劇の蝶みたいに、『来世でまた会えた』みたいに、奇跡みたいにこうして会えて……」
少し、声が掠れる。
「なのによ……なぁ……」
最後の言葉は、苦笑混じりだった。
野々宮は、何も言わなかった。
言葉を探しているのか、それとも、選ぶことすらためらっているのか。
ただその目だけが、じっと辻村を見ていた。
登校時間の始まりにしては、空はまだ鈍色だった。
昨晩のことが影を落としていたのか、それとも朝が早すぎるせいか。辻村と野々宮は並んで歩いてはいるものの、言葉は少なかった。
気まずさとまでは言わない。だが、昨夜の台本の一節や、今朝の思わず交わしてしまった問いかけが、どこか宙ぶらりんに残っている。
(朝からなにやってんだか……)
辻村はそう思いながら、いつもよりほんの少しだけ早歩きで歩いていた。
野々宮はと言えば、隣にいることを気にしている様子はない。時折ちらりと辻村の横顔を伺っては、何か言いかけて飲み込むように目線を外す。
それでも、確かに──歩幅は揃っていた。
そう思っていた矢先だった。
──ウー……ウー……ッ。
遠くから聞こえたサイレンに、ふたりの足が止まった。
見れば、正門前。
パトカーが数台、学校の校門の前にずらりと並んでいた。




