第二十一話 違和感からの予測
本当はご飯を食べたら帰った方がいい、と辻村は思っていた。このまま夜を過ごしたら自分がどうにかなりそうで、そうなったら乗り気でない野々宮には嫌がられるのではと思ったからだ。
だが――なぜか、野々宮が「泊まっていけばいい」と言った。
その口調があまりにも自然で、断る理由を探す前に、頷いてしまった。
二人は希菜子から借りた心中姫の台本を読んでいた。
すると辻村が感じた違和感を見つけたのだ。
「早速見つけた! タイトル表記が去年のはひらがな、3年前は漢字表記!」
「……だけど? それが?」
辻村はあっさり野々宮に返答されて首を傾げる。
「いや、ずっと漢字表記だったんだ。この演目。“心中姫”って。……去年、初めてひらがなになったんだ」
辻村はそれを聞いて何かが引っかかった。記憶のどこかに、同じ“ひらがな表記”を見た感触が残っている。
(あの、動画だ!!!)
あの動画である。
その中で、画面下に表示されていたテロップを思い出した。そしてスマホで表示させた。野々宮はいきなりAVを出されて若干引くが辻村が該当の場面で止めた。
《しんじゅうひめ》
「……これだ、“しんじゅうひめ”って、ひらがなでテロップ出てる」
「ほんとだ……」
「インタビューに答えているの、卒業生だったよな。だからタイトルなんて、普通は“心中姫”って漢字表記のしか知らないはず。わざわざ“しんじゅうひめ”なんて……」
「つまり……その動画を編集したやつが、ひらがなに変わったことを知っていた?」
辻村は頷いた。
「でなきゃ、そんな表記しない」
野々宮が低くつぶやく。
「去年担当の――門倉、ってことか」
辻村の喉が、ごくりと鳴った。
「タイトルをひらがなに変えたのも、門倉の提案なんだろ?」
「そうだな、重たい意味が嫌だと。それに過去のジンクスはあるにしても漢字で心中なんて縁起でもないって言ってた……ん?」
「ん、そうやって言ってたのか?」
「……うん」
薄暗い室内で、台本を手にしたまま、二人は目を合わせる。
「まさか友里恵先生の婚約者って……門倉?!」
野々宮は言葉を失い、数秒黙り込んだ。
「……いやいやいや、ないって。門倉なんて。年齢だって、15は離れてるんだぞ。友里恵先生の方が上で……」
「いや、今時“姉さん女房”も珍しくないだろ。それに……お前も言ってたじゃないか。“結ばれてはいけない相手でも、半年も一緒にいたら恋心が芽生えるかもしれない”って」
野々宮はぐっと口を閉ざす。
辻村は台本を見つめたまま、視線を落とした。
「なあ、思い出せることはあるか? 去年、門倉が突然いなくなったあと……友里恵先生の様子とか」
「……そういえば」
野々宮がぽつりとつぶやいた。
「去年の夏休み明け。門倉先生が“家庭の事情で休職する”って言ってから、友里恵先生……ちょっと情緒不安定っぽかった。ふと泣き出したかと思えば、急に明るくなったり。でもあの時期は門倉先生以外にも産休やら体調不良やらで何人か抜けて、教員たち、みんな疲れきってて……壊れかけてた。学祭どころじゃなかった」
「……それで気づけなかったんだな」
辻村の言葉に、野々宮はゆっくり頷く。
「でも……最終的には、生徒や保護者の協力もあって、なんとか学祭に向けて準備はできた。心中姫も、友里恵先生が中心になって……。今思えば、誰もが必死だった。もう立ち止まる余裕なんて、どこにもなかったんだ」
すると辻村はまだページをめくる。まだ何か気になるようだ。
「これって基本セリフを変えないって言っただろ?」
「うん。まぁ多少なりとは……」
「去年のやつ、ラストがなんか違う……」
と辻村が照らし合わせていると……野々宮はあくびをして少しだけ身体を揺らして頭を抑えた。どうやらもう眠そうである。
「……もう寝るか?」
「うん。まだ門倉が王子とは決まったわけじゃないが……」
そう言いながら、野々宮は手元のピルケースから、数も数えず器用に薬を取り出す。
水で飲み込む。慣れた手つきだった。
その仕草を、辻村は黙って見ていた。
「……昔はさ、あんなふうに膝突き合わせて座るだけで、目が合うだけで、すぐにキスしてたのにね」
「料理してる時も後ろから抱きついてきて……そのまま、パンツまで脱がされたな」
「……」
野々宮はそっと体を横たえ、辻村に背を向ける。その背中はどこか縮こまって見えた。
「……心と体が……拒絶反応するんだ」
「……野々宮」
「愛し合っても、結ばれないなら……しなければいいって。そう、自分に刻み込んだんだ。あの時から、ずっと」
静かに告げられたその言葉は、鋭利な刃のように辻村の胸に刺さった。
辻村はただ黙って、野々宮の背中を見つめた。自分には、そうした制約はなかった。
ただ、別れて以降、誰かと深く関わる気になれなかっただけだ。野々宮以外に、そういう相手はいなかった。
やがて、野々宮が手を伸ばして電気を消す。部屋がすとんと闇に包まれた。
深い呼吸の音が数回。けれどそのあとに、しゃくりあげるような小さな声が混じる。泣いているのだと、すぐにわかった。
辻村は聞こえないふりをして、背を向けて目を閉じた。眠くはない。でも、遮光カーテンのせいで月明かりも入らないこの暗闇では、目を開けていても仕方がない。
――あの時も、こんなふうに真っ暗な夜だった。
大学三年、就活の気配が忍び寄り始めた夏。ふたりの交際は、両家の親や親戚に知られてしまった。特に野々宮の家は、厳格で保守的だった。親は烈火のごとく怒り、ふたりの関係を引き裂いた。
数ヶ月後、ようやくふたりはこっそり再会できた。
そのとき、行き当たりばったりで見つけた寂れた旅館。埃っぽい畳の部屋で、何もかも投げ出すように抱き合った。
そして――互いの首に手を添えた。
同時に絞める。力が足りなかったら、すぐそばにカミソリもあった。
心中。誰にも祝福されないのなら、一緒に終わろうと。
あれは、本当に「死のう」とした夜だった。
けれど今、こうしてまた同じ空間で、暗闇の中、ふたりは生きている。
あの夜と違うのは、首に添えた手ではなく、背中を向けたまま、互いの声に耳を澄ませていることだった。




