第十五話 失踪者
髪の長かった頃、野々宮はそれを辻村の大きな手で撫でられるのが好きだった。
少し癖のある毛先を指でとかれながら、「綺麗だな」と笑われる、そのひと言のために、手入れも欠かさなかった。
肩まで伸ばしたのは、あのときが最初で最後だった。
それが、就職活動の名のもとに、母親に付き添われて連れて行かれた近所の理髪店でバッサリと切られた——
鏡に映った短髪の自分を見た瞬間、野々宮は、気づけば涙をボロボロと流していた。
もう、彼とは一緒になれない。
彼の世界には、自分は踏み込めなかった。
自分が、あの世界に染まってしまったのがいけなかったのだ。
こんなふうに、傷つくくらいなら——こんなにも泣くくらいなら——
やっぱり、自分は“普通”に戻らなくてはいけないのだ、と。
(また、あの夢か)
野々宮はぼんやりと天井を見つめた。まだ午前2時すぎ。
先日、主治医と相談して精神科の薬を増やしたばかりだった。頓服の量も少し増えた。
あれを飲めば心が落ち着く。
“普通の教師”に、“普通の人間”に戻れる。
昨晩のことを思い出す。
久しぶりに——何年ぶりかに——辻村と共に昔のように笑い合えるんじゃないかと思った。
嬉しかった。
けれどそれは夢で終わった。
胸の奥がきしんだ。
しかしあんなふうに強く、冷たく突き放すことはなかったのでは……そう、後悔もしていた。
だが、今日からは教師として——同じ職場で、彼と並ぶ野々宮。
自分と別れてから同じゼミの仲間から風の噂で聞いたこと。辻村が反社と関わりがある、危ない世界に足を踏み入れたと。その男と、教師として肩を並べるとは……。
野々宮にとっては、まだ気持ちの整理がつかない。
でも眠れば、また夢の中で揺さぶられる。
それならば——
彼はベッドから抜け出して、シャワーを浴びることにした。
冷たい水が体を洗い流し、重たい感情の膜を少しだけ薄くしてくれる気がした。
そして彼は、今日の授業の準備に取りかかろうと机に向かった。
教師としての朝が、また始まるのだった。
いつも通りにスキンケア、ヘアスタイル、白のワイシャツにネクタイ。匂いのケアは昔から気を使っている。
塗るとほんのり桜色に発色するリップを塗り唇をパッと重ねた時、昨晩の辻村からのキスを思い出す。拭いはしたが。
校門に着くと希菜子と葵の2人がいた。
「おはよう」
「おはようございます、先生」
昨日のこともあり気にかけはしていたがあちらから野々宮に駆け寄ってきた。
(葵さんの志望してる大学に連絡を取らねば)
こなすタスクが多いため本人の顔を見て思い出したのは申し訳ないと思いつつも今日もスラックスを履く彼女はやはり今日も表情が良くない。
「先生、父も学祭の企画書を読んでやる気になってました」
「それはよかった。大将、気前がいい」
「学校のためならって……」
希菜子ははにかんだ。
「あと先生、どこかで時間ありますか?」
「ん……はい、昼の時間であれば」
「じゃあバスケコートに、昨日の……」
わかったと野々宮は頷くと
「昨日の辻村……先生と来てください、葵がまたバスケの相手して欲しいって……ねぇ」
希菜子が葵を見て言う。
「悔しいんで……勝ちます、今度は」
と、葵は先に行ってしまい希菜子が追いかけていった。相変わらず仲の良い2人だと思いながらすれ違う生徒に挨拶しながら歩くと用務員の節子がゴミを拾っていた。
彼女にも声をかけると急でびっくりしたかのようだった。
「すいませんね……夢中になるとつい」
「いつもお疲れ様です。信作さんは……具合は」
タオルで汗を拭いながら答えてくれた。
「もう癖になってしまってね……なんとか座れるから大丈夫よ」
「ならよかったです……」
「いつも気にかけてくれてありがとうね、野々宮先生」
野々宮は首を横に振る。昨日用務員室に入った際、部屋の中にあった子供の写真が気になったが……田所夫妻は野々宮が卒業後に用務員として住み込み始めた。
二人の年齢的に子供はもう大きいはずだろうと思ったが子供のことを聞いたことがなかった。
しばらくして振り返るとどこかで聞いたことのある声、そしてそれは辻村の声だった。そして後ろには数人の生徒が走ってついてくる。
「おっす、こいつら朝練怠けてたから俺が走るぞーって。たるそうだからよ」
とまた号令をかけてグラウンドに向かっていく部員たち。
「昨日飲んでたのによ、元気だな……相変わらず」
昔から辻村が酒に強いのは知っていた、反対に自分は弱かったと思い返す。
職員室に行くと高橋が血相を変えてやってきた。
「おはようございます!」
「おはよう、どうした?」
「玄関に警察の方が来てて……用務員さんいなくて僕が対応して……校長と教頭にも今から伝えてきます!」
「僕も行きます……」
そして校長室に向かい、高橋が事情を説明し、校長たちと共に玄関まで行く。
玄関には体格のいいスーツ姿の二人組。自分くらいの歳の男が軽く頭を下げた。
「どうも、おはようございます。朝からすいません……」
と笑顔を見せながらも、目の奥には職業的な冷たさがあった。
隣の若い男が名刺を差し出す。
「刑事課の相田です。こちらは同僚の志田です」
野々宮が慌てて頭を下げる。
「……三年学年主任の野々宮です。名刺は今、ちょっと……すみません」
「いえ、結構です。では入らせてもらいますね」
するとそこに高橋に呼ばれた汗だくのジャージ姿の辻村がやってきた。
朝練を終えたばかりのようで、タオルで首筋を拭っている。
「辻村先生は職員室で待ってろ」
と野々宮がそう指示した。
再び校長室に到着すると刑事は早速本題に入った。
「……で、ですね。お伺いしたのは――昨年の夏に休職された門倉誠吾先生の件です」
野々宮の顔が一瞬だけ強張る。
「体調不良ということで教職を離れた門倉先生ですが、その後――例の心中事件後に連絡が完全に途絶えています。ご家族からは、すでに捜索願も出されています」
校長が静かにうなずく。
「……こちらの学校で使用されていました制服の一部が、外部の闇市場に流れていましてその流通経路を調べていたところ……」
刑事は一枚の紙を取り出し、テーブルに差し出す。
そこには複数の名前が並ぶリストがあり、マーカーで囲われた“門倉誠吾”の名前が浮かび上がっていた。
「昨年の失踪直前ですかねー掘り出したら出てきました」
校長と教頭がリストを覗き込み、思わず唾を飲む。
「……ほ、ほんとだ……IPアドレスもうちのものだ」
刑事は静かに続ける。
「……単なる物の横流しというレベルではありません。門倉本人が関与したとされる事案には、借金を負った女性を脅してその制服を着用させ……いわゆるAV撮影に巻き込むなどの強要・暴行の疑いもあります。彼が前の会社にいた頃から長年やっていたと思われ……」
野々宮は言葉を詰まらせた。校長と教頭たちは門倉の前の仕事はなんだったか確認しあっていたがわからないようだ。
「本日はその関連物、資料が学校内に残されていないか確認させていただきたく、令状を持参しています。ご協力をお願いします」
室内に、重い沈黙。
「今流通されているいかがわしい動画のなかにここの学校の場所と思われる動画……いわゆる盗撮映像も見受けられています。他の学校のもあるようですが……」
それを聞いた一同は盗撮という言葉に固まる。
野々宮は部下である門倉が犯罪に関わっていたことにショックを受けた。




