第十四話 あのころ
ネオンが瞬く。
たくさんの若者、大きな音、光、ざわめき、タバコの煙、アルコールの匂い。
多国籍の顔ぶれが入り混じる熱気の中、若き辻村と野々宮は、笑い合っていた。
人混みの中でも平気で抱き合い、野々宮が耳元にささやいた合図で、ふたりは外に出た。
何もかもが自由で、何もかもが手に入ると信じていたあの頃。
――単位さえ取れれば、あとは全部、娯楽だった。
ナイトクラブでは、互いに別の男の腕に抱かれながら、酒を浴びるように飲み干した。
意味のない夜も、酔いの果てのキスも、朝焼けの放心も――
すべてが、無敵の青春だった。
長旅では無いが旅行もたくさんした。思い出もたくさん作った。授業も合間の休み時間もバイトも何もかも楽しかった。二人一緒だから。
何度も、何度も、愛し合った。何度も抱き合った。
「このまま、ずっと一緒にいよう」
何度もそう誓い合った。
永遠に――
誰に反対されても、この愛だけは裏切らないと、信じていた。
しかしそう簡単にはいかなかった。
「結ばれないなら、一緒に死のう……琥太郎」
「ああ、陸……君と死ねるなら……幸せだ」
そう囁いて、互いの首に手をかけた夜も、あった。
野々宮の頬を伝った涙が、一粒……
静かにシーツに落ちた。
「琥太郎……」
強く手を握られたところで辻村はハッとした。時は少ししか経っていなかった。野々宮の手と笑みで過去のことを一瞬にして思い出した。
野々宮は目線をずらして言う。互いに下の名前で呼び合うのもかなりぶりである。今はそうしようと辻村は考えた。
「陸……お、おう。陸ぅー。懐かしいなぁ。さぁ行こう行こう」
辻村はふっと笑って、野々宮の背を押すように先に中へ入れた。
さらに後ろから押し込められるようにクラブへ足を踏み入れた二人は、開店したばかりとは思えぬ音のけたたましさと、人の多さに一瞬たじろぐ。
だがすぐに、野々宮がフロアの隅にあるスタンディングテーブルを見つけ、そこを定位置とする。
辻村はDJの前で跳ねるように騒ぎ立てる若者たちの群れを指さした。
「……あそこ、行ってみるか?」
だが野々宮は一瞥をくれるだけで、首を横に振ると、すぐにカウンターに向かった。
「ノリ悪ぃな……」
辻村は肩をすくめ、もう一本タバコに火をつける。
口では誘っておきながら、自分も正直、あの人混みに飛び込むにはもう無理がある。
それとも――相当ハイにならなきゃ無理だ。
立ちのぼる煙越しに、クラブの光と熱気をぼんやり見つめる。
「お待たせ。お前の一杯はレモンサワー、だったよな」
戻ってきた野々宮が差し出したのはグラスに入ったレモンサワー。
自分のグラスには――ノンアルの印がついている。
「ノンアルかよ。楽しむ気ないのか?」
「……しばらく酒はやめてる。いや、飲めない。
シラフでいたいだけだ」
グラスを軽く合わせて、乾杯した。
野々宮はまたタバコをくわえ、ゆっくりと煙を吐いた。
壁にもたれ、目を細めてぼんやりしているようで――その視線は意外にあちこちへ動いていた。どこかに生徒が紛れていないか、警戒しているのだろう。
「ただでさえ学校は事件でざわついてるのに、こんな場所で何かあれば終わりだ。
……でも、多少の遊びはな。酒とタバコがなけりゃ、いいとは思う」
「見つけたら、見逃すのか?」
辻村が問うと、野々宮は視線を別の方にそらす。
「あそこのゼブラ柄のシャツの男、警察だ。
見逃したらそれはそれで僕の責任になる。
……まぁ、“気づきませんでした”って顔はできるけど、あちこちに私服が紛れてるよ。事件や事故は、未然に防げるようになってる」
「って、警察の連中も“パトロール”なんて言いながら、飲んでたりするじゃん」
辻村はふいに、服の襟で口元を隠すような仕草をした。
「警察」のワードが引っかかったようだ。
「……かもな。
昔、声かけた男が警察でさ。体つきが良くて。結局はストレス発散の相手にされて……」
野々宮が淡々と口にするその言葉に、辻村は一瞬ぎょっとする。
変わらないな――この奔放さは、昔のままだ。
「……お前、まだそういうことを……」
「今はしない、というか……んー、こういう騒がしいところで過ごして人間観察するのが好きなだけになっちまった」
音楽が変わりクラブ内はさらに盛り上がる。
チラッと野々宮が辻村を見る。
「心配かい? 元彼だからって」
実は2人、昔付き合っていた。
大学生時代に。
別れて連絡を取り合わなかった。
1人は高校教師に、もう1人は裏の社会に。
「こんな趣味……教師としてはどうかと……」
と言いかけた時に辻村が急に野々宮に壁ドンをした。
「……やっぱり、まだ思ってくれてたんだ……琥太郎……」
野々宮は顔を赤らめた。
じっと見つめるが、辻村の顔はものすごい形相をしていた。そして耳元で
「……俺の後ろの奥にいるアロハシャツの男……見えるか?」
そう囁く。色がチカチカする中、野々宮は外国系のアロハシャツの男を見た。
「……アロハ……ああ、うん、誰か金髪の男といる……どしたんだ……」
辻村は目を細めて言った。
「アイツ……売人だ。ずっと追ってた。だが今回は“捕まえる”んじゃなくて、“引き渡せ”って指示が出てる。警察じゃなくて……裏の方へ、な」
野々宮は言葉を失ったまま、辻村の目を見返す。
「……そのために僕をここに?」
「ここはヤツがよく出入りするところでな……男しか相手にしない。特にお前みたいな猫っぽい顔は、あいつの好みだ」
しばし沈黙になる。
音楽がガンガンと鳴っているのに、2人の間には異様な静寂が流れていた。
「僕を……餌にするつもりだったのか? だからこの店を選んだ……?」
野々宮の声は低く、震えていた。
「ちがう。信頼してるから——」
「信頼?」
野々宮は薄く笑った。それは、皮肉にも似た笑みだった。
「あんな酷い別れ方しておいて……何年も音沙汰なくて、いきなり連絡よこして、飲みに誘って、信頼してる……? 僕を利用するくせに、よく言えるよ」
辻村は言葉を失い、拳を握りしめる。
野々宮の頬は赤く染まっていた。それは怒りのせいか、羞恥のせいか。
「……僕は、まだお前に未練があったんだ。教師やって、真面目に生きてるフリして……それでも、たまに思い出してた。あの夜のことも、交わした言葉も……」
「陸——」
「やめろ」
突き放すように言った瞬間、辻村が一歩踏み込んだ。
そして、野々宮の腕を掴み、ぐっと引き寄せる。
「っ……!」
顔が近づく。熱い息がかかる距離。
あの頃と同じ匂いが、ふっと鼻をかすめた。
「……違うんだ。本当に、利用したかったわけじゃない」
「……そんなの、信じられるわけ——」
その言葉の終わりを、辻村が唇で塞いだ。
一瞬、野々宮の体が硬直したが、すぐに力が抜けた。
音楽、ネオン、ざわめきの中で、そこだけ時が止まったようだった。
だが——
「……っ!」
野々宮はすぐに身を引き、口元を袖で拭う。
「ふざけるなよ……僕は、もうあの頃のままじゃない」
そう言い捨て、背を向ける。
足はすぐに動かない。だが気持ちは、すでに辻村から離れかけていた。
その時だった——
ざわめきが広がり、辻村が低く「クソッ」と唸る。
例のアロハシャツの男が、私服警官に押さえつけられていた。
「麻薬取引の現行犯で逮捕する!」
野々宮と辻村の口論の最中、男は取引を行っていたようだ。警察にマークされていたらしく、あっけなく御用となった。
「……行くぞ。巻き込まれる」
野々宮が短く言い、足早にその場を離れる。
辻村も唇を噛み、後を追う。
店を出ると、夜の街にパトカーのサイレンが響いていた。
人々の足が止まり、野次馬が集まり始める。
だが2人は、光のない裏通りへと歩いて行った。
「……すまん。でも、久しぶりに飲みたいと思った。お前が心配だったんだ……ずっと」
辻村は早口で弁明する。
だが、野々宮は振り返らなかった。
ロッカーで荷物を取り出すと、やっと辻村の方を見た。
「……では、ここまで。教職に就く以上、他の仕事……こういうことはやめておいた方がいいんじゃ? 明日からは、教員として接します。《《辻村先生》》」
その言葉だけを残し、野々宮は去って行った。
辻村はその背中を見送ったまま、しばらく動けなかった。
「……参ったな……」
ぽつりと漏らした言葉に、悔しさと寂しさが滲んでいた。
任務の失敗も痛い。だがそれよりも……。




