第十話 田所夫妻
「ここ、多分学校に入る時にもう通った場所だろうが――受付兼、用務員室だ」
そう言いながら、野々宮が受付前を横切ろうとしたときだった。カウンターの奥から、ひょっこりと一人の男が顔をのぞかせた。
白いマスクに五分刈り、伸びた無精ひげ。どこか無愛想な風貌だが、目元は思いのほか優しい。深い皺に酷い目の下のクマ、肌の色も良くない。
「信作さん、お疲れ様です」
野々宮の声に、男がゆるく頷く。節子の夫、信作だった。
彼は少し身を起こしかけたが、すぐに腰に手を当てて動きを止めた。
「信作さん、こちら今回臨時教員として来た辻村先生です」
先生と紹介されることにはまだ慣れず、辻村は照れくさそうに頭を下げる。
「……また臨時教員か。さて、続くかな」
ぽつりとこぼれたその言葉には、幾度となく出入りしてきた臨時教員の記憶と、半ば諦めに近い感情がにじんでいた。節子も同じことを言っていた――この夫婦にとっては、もう慣れっこなのかもしれない。一気に辻村はテンションが下回る。
だが次の瞬間、信作の顔がぐっとゆがんだ。
「うっ……!」
低く押し殺した呻き声とともに、彼の体勢か崩れ、腰が砕けるようにくの字に折れた。
「信作さん!」
野々宮がすぐさま手を伸ばしたが、間に合わなかった。
「やば……ぎっくり……腰……だ……」
苦しげな息遣い。じわりと額に浮かぶ汗。辻村も慌てて駆け寄り、二人で支えながらカウンター裏から用務員室へと運び込んだ。
古びた木の扉を開けると、そこには畳の部屋が広がっていた。
ちゃぶ台とこたつ、壁には色褪せた予定表。冷蔵庫の低い音が、静かな空間にかすかに響いている。
「すまんのう……」
「また腰ですか。節子さん、呼びますね」
野々宮が壁の連絡用スマホでメッセージを送ると、「すぐ向かいます」と簡潔な返信が届いた。
畳に敷かれた布団へ信作を横たえ、備えつけの湿布を貼る。ようやく少しだけ、信作の表情が緩んだ。
「おっさんはいつも座ってるか寝てるかってとこか?」
辻村の軽口に、野々宮が目線で制止する。その視線を無視して、辻村は舌を出してごまかした。
「……そうじゃな。昔は器械体操もやってたんじゃがな……痛っ……ま、まぁ年には勝てん」
信作は苦笑混じりに自嘲した。
「信作さんは昔、体育教師としてここで働いてたんだよ」
「へぇ……あ、あの写真に写ってるの、もしかしておっ……じゃなくて信作さん? 全然違う」
辻村が目を留めたのは、棚に飾られた一枚の古びた写真。広い肩幅にがっしりした腕、まっすぐに立つ姿は今とはまるで別人だ。面影がない。
「そうじゃ……跡形もないだろ」
信作は痛みをこらえながらも、苦笑いを浮かべる。
隣にはもう一枚、制服姿の少女が写った写真が置かれていた。凛とした瞳、柔らかい髪。真っすぐな立ち姿には、まだどこか学生らしい未熟さも残る。
「……これは、お二方のお子さん?」
辻村の問いに、信作の口がゆっくり開いた。
「それは――」
だがその言葉を遮るように、野々宮が静かに言った。
「お前、勝手に人の家を詮索するな」
「いや、家って言ってもよ……」
言いかけて、辻村は言葉を飲み込んだ。
ここは職場であると同時に、彼ら夫婦の生活の場だ。ちゃぶ台の上には未整理の書類、古びたノートパソコン。床の隅には新聞紙に包まれた段ボール。片付いているとは言い難いが、確かに暮らしがここにあった。
(写真の子たちも、もうとっくに巣立ってるんだろうな)
そう思った矢先だった。
「あなた! どうしたの!」
玄関の戸が音を立てて開き、節子が飛び込んできた。その声は、これまで聞いたことがないほど大きく、そして真剣だった。
「そんな大きな声、出すな……」
信作が顔をしかめるが、節子の目は心配でいっぱいだった。
「あんた、こんなとこまで入ってもらって……。あとは私がやるから……すみません」
そう言って節子は深々と頭を下げ、辻村たちをやんわりと、だがきっぱりと部屋の外へ追い出した。
「あら、先ほどの……」
「はい」
廊下で再び顔を合わせた節子と辻村は、ほぼ同時に頭を下げた。
「名前は……なんだったかね、辻村……」
「琥太郎です。琥珀の“琥”に……」
「つじむら、こたろう。こうたろう、じゃなくてね?」
「はい、“こ・た・ろ・う”です」
節子は納得したようにうなずくと、手際よく受付の事務机に向かい、仮の通行証を作り始めた。
「正式なパスが出るまで、これ使ってください」
渡された仮パスには、ひらがなで「つじむらこたろう」と書かれていた。その下にバーコード。なんだか、幼稚園の名札のような可愛らしさがあった。
その隣で、野々宮が自分の正式パスを取り出して見せてきた。漢字とローマ字入りの立派なもの。角は丸くなり、透明カバーは傷だらけ――年季の入りっぷりをこれ見よがしに見せてくる。
(なに、ドヤ顔してんだよ……)
辻村は心の中で小さく舌打ちした。
用務員様から出た2人。
受付の奥から見える用務員室では、節子が信作の腰をさすっている。言葉は少ないが、所作ににじむ気遣いと、長年連れ添った夫婦のぬくもりがあった。
「そりゃ家に勝手に入られるのは嫌ですよね……もう10年以上、住み込みですから」
「ま、まぁな……悪いことしたな、俺」
廊下を抜け、今度は別の階段から二階へ向かう。
踊り場に差しかかったとき、辻村がふと足を止めた。
「……あそこ、バスケットコートになってんのか」
窓の外、中庭の一角。簡易なフェンスに囲まれたハーフサイズのコートに、二人の生徒の姿があった。
一人はスラックス姿でバスケに夢中。もう一人、スカートの女子生徒が、それをベンチに座って見守っている。
「……あ、葵さんと希菜子さん」
野々宮が窓を開けて、ひょいと身を乗り出し手を振ると、下の二人もすぐに気づき、手を振り返してくる。希菜子は屈託のない笑顔を浮かべていた。
野々宮も先ほどとは違って無邪気に手を振る。辻村は昔の野々宮の姿も重ね合わす。
(生徒には優しいのか……? てか危ないだろっ)
そのとき、辻村が思わず野々宮の肩を押さえた。
「おわっ……な、なんだよ……」
「危ないだろ、落ちるぞ」
「……だよな。ありがとう」
野々宮が少し照れたように礼を言う。
「てかさこんなとこにバスケットコートが……」
「昔はすごく汚くて草だらけのところだったけど生徒たちが去年の学祭で整備したんだ。……ちょっと待ってて、今そっち行くから!」
そして二人は、ゆるやかな階段を下り始めた。中庭のバスケットコートに辿り着くと、ボールのバウンド音が心地よく響いていた。




