美容室の同窓会 ある記憶の実験
ぜんぜん本編とは関係ない話です。
この話はフィクションです。
数年前にネットでみた「美容院に行ったら、元イジメっ子が見習いやっていたから、仕返しした」という話がもとになっています。
結果はかなり違っていますが、両者の視線を並列に置くことで、同じ出来事が、見る人によって全く違う物になるという、表現上の実験みたいなものです。
もう一つ、作者としての実験があります。
続きはお話が終わった後に……
■記憶の違和感
シャンプーから戻ってきたお客さんの髪をタオルで拭きながら、私はふと顔を上げた。
鏡越しに目が合ったその女性は、どこか見覚えのある顔立ちをしていた。
「長さはこれでよろしいですか?」
いつものプロの笑顔で確認する。
手にしたハサミの感触と、髪の匂い。
この日常のルーティンこそ、私にとっての安心だった。
でも、このお客さん見たことあると思うんだけど、どこで……。
うーん……あれ?
次の瞬間、全身に電流が走ったような感覚がした。
「もしかして……」
お客さんの顔が、さっきまでとは比べ物にならないほど硬くなっている。
その瞳は、何か予期せぬものを見たときのような、不自然に大きく見開かれた色をしていた。
「もしかして、美雪じゃない?」
口に出した瞬間、確信に変わった。
そうだ、中学の同級生だ。あの、いつも影が薄くて、何をやっても反応が面白かった子。
まさかこんなところで会うなんて。
東京のこのサロンで、田舎の中学の同級生に会うなんて、正直、ちょっとしたサプライズで面白かった。
「懐かしいね!まさか、ここで会うなんてね」
私はプロとしての笑顔を保ちながら、内心で興奮していた。
今や私は、都心で人気のスタイリスト。
あの子は、ただの客。
この状況が、私の中で妙な優越感をくすぐる。
「あのね、中学の時、あんた……」
そう言って笑いかけようとした、次の瞬間だった。
美雪の顔が、本当にパニックに陥った。
「あ、あの……すみません!」
その震えた声に、私も、後ろで掃除をしていたアシスタントのケンタも、驚いて動きが止まった。
「急に、ちょっと、気分が優れなくなってしまって……!カットはもう大丈夫です。このままで結構ですので、お、お会計をお願いします!」
見ると、ハサミを入れたばかりで、左サイドはガタガタだ。
絶対にこのまま帰っていい状態じゃない。
「え、美雪?でも、まだ全然途中だよ?ここ、ガタガタになって……」
「い、いいんです!大丈夫です!あとで自分で整えますので……すみません、急いでいるんです!」
彼女はもう、私と目を合わせようとしない。
半ば逃げるように椅子から立ち上がり、カットクロスを自分で引き剥がす。
その動作には、私から一刻も早く離れたいという、強い拒絶の意志が表れていた。
美雪は、私から逃げるようにしてレジに向かい、慌ただしく会計を済ませると、頭も後ろも振り返らずに、店の自動ドアから飛び出していった。
ケンタが怪訝そうな顔で聞いてくる。
「由美さん、知り合いなんですか?なんであんなに慌てて……」
「……ああ、うん。ただの中学の同級生だよ」
私はハサミを置き、冷めてしまった紅茶に手を伸ばした。
あのパニック状態は、一体何だったのだろう?
私はプロとして、ただ彼女の髪を切ろうとしただけなのに。
「まさか、まだ根に持ってるわけ?」
そんなはずはない。
もう二十年以上も前の、子供のじゃれ合いのようなものだ。
私はただ、少しからかったり、無視したりしただけ。
大したことじゃない。
──そう頭の中で整理しようとするのに、手に残った美雪の髪の感触が、なぜか冷たく重い違和感となって、私の指先にまとわりついて離れなかった。
■凍てついた再会
シャンプー台から席に戻り、鏡を見た瞬間に、体中の血の気が引いた。
「長さはこれでよろしいですか?」
そう言って、ハサミを持つ手が私の髪に触れる。
その声。その顔つき。
数十年ぶりに聞いたはずなのに、脳の奥底に張り付いていた、錆びた記憶の蓋が、一瞬にして吹き飛んだ。
「……由美?」
心臓が喉の奥で跳ねた。
信じられない、理解したくない。
ここは、癒やしと変身の場所、明るい音楽と優しい香りに満ちた美容室のはずだ。
なぜ、この光の中で、過去の暗闇の象徴が、白いコームと鋭いハサミを持って立っているのか。
「あれ、もしかして……」
彼女—由美—も私の顔を見て、一瞬、目を見開いた。
その顔には、驚きと、どこか楽しげな悪意が混ざったような、私だけが知る表情が浮かんだ。
「もしかして、美雪じゃない?」
鏡の中の由美が、あの頃と同じ、人を値踏みするような視線で私を見つめている。
私の耳の奥で、数々のひどい言葉が蘇る。
体育館裏の冷たい空気、ロッカーに貼り付けられた汚い落書き。
手の中に握っていたはずのスマートフォンが、冷たい汗で滑り落ちそうになった。
彼女は、今、私の髪を握っている。
私の頭皮に、彼女の指の圧力が伝わる。
逃げ場がない。
この場所で、私は彼女の支配下にいる。
彼女の持っているハサミがまるでナイフのように思えてくる。
「懐かしいね!まさか、ここで会うなんてね」
由美はプロの笑顔に戻ろうとするが、その目が笑っていないことを、私は知っていた。
「あのね、中学の時、あんた……」
それ以上聞く必要はなかった。
次の言葉が、どれほど軽薄な「昔のこと」として片付けられるか、想像できた。
私の呼吸は浅くなり、胸がひどく締め付けられ、体全体が冷たい石のように固まっていく。
椅子から立ち上がらなければ。
ここから、今すぐ。
「あ、あの……すみません!」
声が震えた。
由美と、アシスタントらしき男性が驚いた顔でこちらを見た。
「急に、ちょっと、気分が優れなくなってしまって……!カットはもう大丈夫です。このままで結構ですので、お、お会計をお願いします!」
ハサミが私の顔の横で止まっている。
由美の顔から笑顔が消え、眉間に皺が寄った。
「え、美雪?でも、まだ全然途中だよ?ここ、ガタガタになって……」
「い、いいんです!大丈夫です!あとで自分で整えますので……すみません、急いでいるんです!」
私はほぼ叫ぶように言葉を絞り出し、体勢を崩しながら椅子から立ち上がった。
カットクロスを乱暴に払い、そのままフラフラとレジに向かう。
一秒でも早く、酸素のある空間に出なければ。
レジ係の若い女性は、私のただならぬ様子に戸惑いながらも、素早く料金を計算した。
お金を差し出し、お釣りも受け取らず、私はバッグを抱きしめるようにして、店の自動ドアへ向かって走った。
外の、冷たい冬の空気。
その空気を胸いっぱいに吸い込んだ瞬間、私はようやく、自分が助かったと安堵した。
振り返ることもなく、私は、いびつなままの髪と、過去の恐怖を再び体内に抱え込みながら、人混みの中へと消えていった。
──この記憶のズレに、あなた自身はどう向き合うでしょうか。
この物語に描かれたのは、「加害者の忘却」と「被害者のトラウマ」という、すれ違ったままの現実です。
ネットで見た“スカッと”する復讐劇とは違い、ここには救いがありません。
しかし、フィクションの中では、結末を変える自由があります。
では、この“記憶のズレ”をどの方向へ導くのが正しいのでしょうか?
過去を清算する物語
いわゆる王道の展開です。
お互いが歩み寄るには?
その試みは成功するのか?
因果応報の物語
これも王道の展開でしょう。
美雪が手を下さずとも、バチが当たるというやつです。
一番スカッとするかと思います。
コメディタッチの物語
物語としては挑戦的な展開です。
発想の転換が必要です。
たとえばガタガタの髪の美雪が、別の奇跡的な出会いを果たすなど。
悲劇を避ける物語
現実的にはこうなるかと思います。
干渉しないことは幸福か?
その幸福とはどんな形か?
悲劇を深める物語
さらなる悲劇を生む不穏な可能性です。
物語の山場が増えます。
ただ、救いが無いのが問題になります。
これは“作者としての実験”です。
あなた自身の感性で、この世界の可能性を広げてみてください。
私自身が経験してきた道、そして私にとってプラスになった道ですから。
別に発表したりする必要はありません。
可能性を考えるだけなら、いくら、やってもいいんです。
なにせ、フィクションですから。




