第九話 片腕の男
夜空を裂く轟音。
霧原は、影の男を撃退した直後、その光景を見ていた。立ち上がろうとしたが、傷の痛みで視界が歪む。 もう一歩も動けない――そう悟った瞬間、彼の体は崩れ落ち、そのまま意識を手放した。
視線が途絶えた先。数珠使いと五十嵐の戦いは、なおも続いていた。
瓦礫の地に血が滴り落ちる。
五十嵐の右腕はすでに無く、肩口からは布が裂け、赤黒い血が伝っていた。片腕で構えるその姿は、誰の目にも瀕死に映った。
しかし、動揺しているのは数珠の男の方だった。
「……馬鹿な。自分で……切っただと?」
「おうよ。てめぇの数珠がどうにも外れねえからな。腕ごと持っていった方が早え」
五十嵐は豪快に笑う。その異常な決断力と狂気に、数珠の男の背筋を冷たいものが走った。
「腕一本ぐらい、お前にくれてやる。だかそれ相応の対価を支払ってもらうぜ」
五十嵐の左足が地を叩き、地鳴りのような衝撃が走る。
次の瞬間、片腕とは思えぬ勢いで肉体が突進する。「こいつ……片腕になってなお速い!?」
敵は即座に数珠の盾を形成し、迎え撃つ。
数珠の男は余裕の笑みを浮かべた。
「そんな体では今度は弾くことも不可能だ」
幾重にも巻かれた数珠が鉄壁の防壁を築く。
五十嵐の拳が数珠にあたるが、数珠はわずかに揺れただけで崩れもしなかった。
「今度こそ終わりだ」
数珠の男は五十嵐の腕を掴み、地面に叩きつけた。
だが、
盾を叩いたのは五十嵐の拳……ではなかった。
「な、に……!?」
視線を落とすと、そこにぶつかっていたのは血に濡れた“右腕”。
切断されたはずの五十嵐自身の腕が、投げ込まれていたのだ。
「まさか――囮っ……!」
その言葉が終わるより早く、男の横に影が迫る。
「甘ぇよ」
五十嵐本人の拳が、数珠の死角から突き抜けた。
ドゴォッッ!!
全身の体重を乗せた一撃が、男の顎を砕き、壁ごと吹き飛ばす。
血と数珠が飛び散る中、五十嵐は静かに肩を上下させた。
「片腕だろうが……勝てりゃいいんだ」
五十嵐はそういうとその場に倒れた。
片腕をなくし、全身に痛みを伴い動くことができなかった。
遠くではまだリキとヨルの声がする。
「くそっ、お前らすまねぇ」
意識はあるが体が動かない。五十嵐はただリキ達の様子を見ることしかできなかった。
五十嵐の視線の先。瓦礫の向こう。
リキとヨルは、全身泥に覆われた男と対峙していた。
「行くぞ、ヨル!」
リキが拳を振り抜く。地面を割り、轟音と共に衝撃波が走る。
だが――泥の男の身体は、どろりと液状に変わり、拳は空を切った。
「無駄だ。私に打撃は届かん」
低い声と共に、泥の腕が鞭のようにしなり、リキの肩を叩きつけた。
「ぐっ……!」
火傷のような痛み。酸の混じった泥で肩口から煙が上がる。
「リキ!」
ヨルが叫び、周囲の空気が歪む。時間の流れが一瞬だけ遅くなり、迫る泥の飛沫が空中で停滞する。「……今だ!」
ヨルの歪曲に合わせ、リキがもう一撃を叩き込む――が、やはり泥は形を崩して逃げた。
泥の男は嗤う。
「いくら攻撃しても無駄だ。泥は形を持たず、酸は肉を蝕む」
次の瞬間、足元の地面が沼のように溶け出し、リキの膝までを呑み込んだ。
「なっ……!?」
酸性の泥が肉を焼き、焦げた臭いが立ち上る。
「ぐああっ!」
必死に足を引き抜いたリキの脛は赤黒く爛れていた。
「チッ……!」
ヨルは歯を食いしばり、相手の動きを遅らせようと時空を歪める。
だが、敵の全身は泥。形を保たないそれは、ヨルの感覚をすり抜け、時間の枠からも逃れる。
「ヨル! 下がれ!」
リキが前に出る。だが、拳を繰り出す度に泥が溶け、逆に酸のしぶきが皮膚を焼いていく。
肩、腕、胸――赤い傷がじりじりと広がった。
「くそっ……攻撃が当たらねぇ!」
「……っ、リキ、このままじゃ……」
ヨルの息も荒くなる。酸に焼かれた袖口から血が滲んでいた。
泥の男は悠然と歩を進める。
「その程度か。所詮は未熟な子供。突っ込んでくるガキは殺すか」
そういうと巨大な泥の波が形を成し、リキを飲み込もうと押し寄せる。
夜も明け微かな光の星達がリキを静かに見守る。
リキは渾身の力で抗い、ヨルも声を張り上た。
――しかし津波のような泥は止まらず、押し潰されそうになる。
その時だった。
――ゴオオオッ!
突如、空から烈風が降り注ぎ、泥の津波を真横から吹き飛ばした。
泥が裂け、飛沫が四散し、地面が削り取られる。
「な……!?」
泥の男が目を見開く。
風煙の中、凛とした声が響いた。
「もう終わりだ。これ以上は――やらせない」
上空から一人の女がゆっくりと降り立った。長い黒髪を風に靡かせ、冷ややかな瞳で戦場を見渡す。
— —零部隊副隊長・朝霧風吹。
彼女の指先がかすかに動くと、周囲の空気が圧縮され、轟音と共に爆ぜた。
リキとヨルはその場に押し倒され、泥の男も同時に遠くに叩きつけられる。
リキは呻きながら顔を上げた。
「……誰、だ……?」
風吹の瞳は冷たく、それでいてどこか痛みを帯びていた。
「あなたたちを……止めるために来た」
ドドドドド……!
夜空を震わせ、数機の軍用ヘリが禍野街上空に到着する。
先頭の機体から黒い影が次々とロープを伝い降下した。その中で、一際落ち着いた声が無線を通じて響く。
――零部隊隊長・望月感司。
「こちら零部隊。禍野街外周に五年子や市民を多数確認。内部には瀕死の一般市民、その周囲を複数の五年子が囲んでいる。外の五年子達は俺たちが制圧する。一、二部隊は外にいる市民を、三部隊は街中の確保に回れ」
『――了解』
無線越しに応答する声が重なり、状況が一気に動き出す。
リキは、何が起きているのか理解できない。ただ圧倒的な軍の力と気配に、身動きひとつ取れずにいた。
「私は五年子対策本部――零部隊副隊長、朝霧風吹。五年子を保護しに来たの」
瓦礫の上に降り立った女は、感情を抑えた淡々とした口調で名乗った。
「怪我は? 今戦っていた相手は誰?」
鋭い問いに、ヨルが短く答える。
「あいつは……黒陽会の手下だ。俺を捕まえに来た」
二人はふと周囲を見回した。
瓦礫の隙間に横たわる霧原の姿。そしてその奥に――片腕を失いながらも立ち尽くす五十嵐の影を見て、息を呑む。
リキもヨルも考えることは同じだった。
すぐに霧原の元へ駆け出し、風吹もその後を追った。
三人は瓦礫を飛び越え、血と煙が混じる夜気を切り裂く。
すでに零部隊の隊員たちが霧原の周囲に集まり、応急処置を施していた。
「意識はない。脈はあるが浅い、呼吸も不安定だ」 隊員の声は冷静だが、その手の動きは迷いなく的確だ。霧原の額に布が当てられ、指先から淡い光のような波が走る。
リキは膝をつき、霧原の顔を覗き込む。口角に血を滲ませ、半ば閉じたまぶたは動かない。
胸の奥で焦燥が跳ねた。
「五十嵐さんは?」
ヨルの低い声に導かれるように、二人はさらに奥へ進む。
そこに立つのは、片腕を失いながらもなお背筋を伸ばした五十嵐だった。裂けた布から血が滴り落ち、断面が露わになっている。それでも表情には豪快さが残り、しかしその奥に深い翳りが差していた。
五十嵐は彼らを見つけ、ゆっくりと片方の拳を下ろした。
「……悪ィな。俺がもっと早く片付けてりゃ、てめぇらをこんな目に遭わせなかった」
謝罪の言葉に、リキの胸がざわつく。怒りでも責任感でもない――ただ、戸惑いを混ぜた感情だった。彼の瞳の奥にある真剣さと痛みを見てしまったから。
「俺が弱かったせいで……お前らを危険に晒した。すまねぇ」
「……しかし相変わらず無茶をしますね、五十嵐隊長」
傍らで肩を支えていた望月が苦く言う。
「隊長って呼ぶな。俺はもう政府の犬じゃねぇ」
リキとヨルはきょとんと顔を見合わせる。
その様子を見て、望月が説明を付け加えた。
「お前らは知らねぇだろうが……五十嵐さんは元々零部隊のリーダーだったんだ。能力なんざ持たねぇくせに、五年子と渡り合って勝ち続けた化け物だよ」
「能力なしで……?」
リキの声が震える。
五十嵐は苦笑し、片腕を押さえながら肩を揺らした。
「そうそう。“人類最強”なんて二つ名まで付けられてな。俺からすりゃ迷惑だったがよ」
望月は続ける。
「当時、政府は五年子を制御できなかった。だが五十嵐さんが前線に立ち、何度も脅威を退けた。……今の零部隊が存在できるのは、そのおかげだ」
ヨルは五十嵐を見つめた。初めて会ったときの豪快な印象が、過去を背負う重さと混じり、まったく違う色を帯びていく。
「引退後は消息不明だったが……まさかこんな場所で出会うとは」
望月がつぶやく。
五十嵐は一瞬黙り込み、吐き出すように言った。
「俺は政府が嫌いだ。だから一人で五年子を守るためにやってきた……だが、ここまでだな」
血と涙で滲むその顔を、リキとヨルははっきりと見た。
その時、望月の無線が鳴る。
『こちら第三部隊。禍野街内部にいた市民一名と、大人の五年子五名を確保しました』
「了解」
望月が応じ、無線を切ろうとしたその瞬間—
「待って! 柚は? 女の子と、子供たちは?」
リキが声を張り上げる。
望月が問い返す。
「……確認できるか?」
無線の向こうから返答があった。
『内部は隈なく探しましたが、子供や女性の姿はありません。確認できたのは先ほどの人数だけです』
「ふざけんな……子供たちもいるはずだろ、もう一度探せ!」
五十嵐の声が荒れる。
消えた柚と子供たち。
街全体に、冷たい動揺が広がった。
九話ありがとうございます。碧甫です。
五十嵐の過去や零部隊の登場などありましたが、柚達は大丈夫なのか。それではまた次回




