第六話 赤色の秒針
暴徒の報せが途絶え、安堵の声をラジオが告げてから三日。その夜の禍野街は、不気味なほどの静けさに包まれていた。
月明かりが崩れかけた屋根を照らし、遠くで犬の遠吠えがかすかに響く。
霧原は使い古されたソファに横になりに横になり、浅い眠りに身を委ねていた。
だが――ふと、胸の奥がざわついた。
「……っ?」
目を開いた瞬間、全身の毛が逆立つ。
鼓動がやけに速い。耳の奥で、ざわざわとした響きが鳴り始める。
霧原は跳ね起き、荒い息を整えると、壁に手をついた。
――何か来る。
街全体に神気の波を起こし感覚を研ぎ澄ませる。 地面を震わせる無数の足音。押し寄せる熱気。怒りにも似たざわめきが、夜気を通して肌に伝わってくる。
数十……いや違う。もっと多い。百以上。
松明の光が点々と揺れ、やがて群れとなって街の外周へ迫ってくるのが分かった。
「……まずい」
霧原は外套を羽織り、夜の通路を駆けた。
向かう先はただ一人、禍野街のリーダー――五十嵐健二。
やがて、焚き火の残り火の傍らに座っていた大男の背中を見つける。五十嵐は振り返り、霧原の切迫した表情を見て立ち上がった。
「どうした」
「……来ます。数百規模の人間が、松明を掲げて。すぐそこまで……!」
「ほう……夜襲か。ずいぶんとご苦労なことだ」
五十嵐は大きく息を吐き、拳を軽く鳴らす。その横顔に迷いはなかった。
「街の連中を広場に集めろ。戦えそうな者は俺と一緒に来い。……ヨルたちにも声をかけろ」
「了解です」
霧原はうなずき、再び走り出した。
夜の静寂はすでに破られていた。遠くから、低い怒声が風に乗って響き始めていた。
霧原の知らせを受け、禍野街は瞬く間に騒然となった。混乱で飛び出す子供を母親が抱き寄せ、大人達も震えていた。
灯された松明が次々と広場を照らし、避難してきた人々の顔には不安の色が広がっていた。
「落ち着け! 全員、広場に集まれ!」
五十嵐の怒鳴り声が夜空に響く。その声に、ざわつく空気が少しだけ収まった。
リキ、ヨル、柚も駆けつける。
「五十嵐さん、何が――」
「敵だ。数百の人間がこの街に向かってる」
その一言で三人は息をのむ。
五十嵐は彼らの前に立ち、低く言った。
「お前たち三人は、子供や女たちを守れ。……いいな」
「……分かりました」
リキは自分たちが戦力になれないことを悔しく思った。ヨルも静かに視線を落とし、柚は肩を震わせながらも
「絶対、誰にも触れさせない」
と小さく言った。
五十嵐は霧原に目をやる。
「お前と俺で入り口に立つ。動ける大人たちも連れてこい」
「了解」
街の外から、さらに大きなざわめきが押し寄せてくる。怒号、足音、松明の赤。まるで津波のように、禍野街へと迫っていた。
五十嵐は禍野街の門を背に立ち、前に出てきた代表らしき男を睨み据えた。
「……で、わざわざ大勢で押しかけてきて、何の用だ」
代表の男は険しい目で五十嵐を見返す。
「知らないとでも思うなよ。お前らが反乱を企んでいることを俺たちは知っている。俺たち市民を皆殺しにしようとしているってな」
ざわめく群衆。その中で、五十嵐はわずかに笑った。
「反乱? 笑わせるな。俺たちは戦うためにここに集まったんじゃねえ。居場所を奪われた奴らが、ただ生き延びるために寄り添ってるだけだ」
五十嵐の声は揺るがず、広場に低く響いた。
代表の男は唇を歪め、吐き捨てる。
「五年子は昔から災いを呼ぶ。おまえらの言葉を誰が信じるってんだ」
五十嵐の眼光が鋭く光り、ひときわ強い怒気を帯びた。
「そういう奴らが外の世界に蔓延ってるから、俺たちはこんな場所で暮らすしかねえんだ。……言えよ。俺たちはいつおまえらに危害を加えた? 勝手に怖がって、勝手に追い立ててきただけだろうが」
群衆の中に、たしかに動揺が走った。ざわめきが広がり、押し寄せていた足並みがわずかに止まる。
五十嵐は一歩踏み出し、声を張り上げた。
「俺たちは敵じゃねえ!おまえらと同じように愛するもんを守り、生きたいだけだ!」
五十嵐の声が夜気に響き、沈黙が落ちる。
だが、その均衡は長くは続かなかった。
――ギャアァァッ!
突如として、群衆の奥から耳を突く悲鳴が上がった。人々の視線が一斉に向かい、そこには地面に倒れ込み、血を流して痙攣する男の姿があった。
「な、なんだ!?」「誰がやった!?」
「五年子だ! 近くにいたあいつだ!」
混乱の只中、群衆の影に紛れた一人が口元を押さえ、肩を震わせていた。
――ふふ、と短い笑い。
暗がりで、その目だけが妖しく光り、ほんの一瞬だけニヤリと口角を吊り上げる。
彼の手元で、倒れた男の周囲に仕掛けられた細工がひそかに作動する。黒陽会の手下たちは群衆に紛れながら、計画通りに状況を操っていた。
人々の恐怖は怒りに変わり、声は瞬く間に膨れ上がった。
—禍野街の中。
悲鳴を耳にしたリキとヨルは、互いに顔を見合わせる。
「……今の声……!」
「外だ、行くぞ!」
彼らは子供たちを守っていた柚に素早く指示を出す。
「柚、こっちは頼む!絶対に子供たちから離れるな!」
「……わかってる。気をつけて!」
リキとヨルは駆け出した。胸を焼くような不安を抱えながら、門へと向かう。
「やっぱり怪物だ!」「どうせお前には居場所なんてねえ!」「人間じゃねえんだよ!」
怒号が夜を裂いて降り注ぐ。向けられた視線は針のおじさんのもとだった。呼吸が荒くなり、視界が揺れる。耳の奥で、過去の声が蘇った。
――あの日も、同じだった。
ただ子供を守ったはずなのに、『五年子に襲われた』と叫ばれ、石と怒号が降り注いだ。恐怖と憎悪に染まった視線が、自分だけを突き刺していた。
そして今も――。
「……やめろ」
針のおじさんは小さくつぶやいた。目の前の群衆と、あの時の人垣が重なって見える。
「お前らなんて、守るものもないんだろ!」
誰かが吐き捨てる。胸の奥が焼けるように痛んだ。
「……いる」
低くかすれた声で、彼は言い返す。
「俺には、家族が……」
すぐに嘲りが返る。
「はっ、家族?おまえと結婚した女も頭イカれてるな」「子供だって恥さらしだろ!」
その言葉が、最後の楔を打ち砕いた。
視界が真っ赤に染まる。
――女房の笑顔、眠る娘の小さな手……
過去の穏やかな日々が、一瞬脳裏をよぎった。
過去と現在の怒号が重なり合い、鼓膜を破る。
「黙れえええええッ!!」
肉を裂き、無数の針が全身から噴き出した。
――その瞬間。
門へと駆け込んだリキ達は広場に散乱する光景を目にした。
リキの目には、仲良く飯を食ったおじさんが今、怪物のように見えていた。
「おじさんッ! やめてくれ!」
叫ぶ声も届かない。針は容赦なく放たれる。
その横で、ヨルが瞬間的に踏み出した。目を細め、息を吐く。
「……間に合え」
自分の速度を上げ、少しでも近づく。
時間を歪める膜が空気を押し潰し、宙に舞った無数の針は、打ち上がった花火のようにゆっくりと落ちていく。
金属の光が、空中に漂っているかのようだ。
人々の悲鳴が途切れ、静寂が押し寄せた。
――止めた。ヨルのこめかみから汗が滴る。
(よかった……誰も傷ついてない……)
リキは胸の奥で力が抜け、思わず息をついた。
だが。
一筋の針だけが、膜の範囲の外にあった。
止まらない。遅れない。
「……っ」
ヨルの瞳孔が開く。
次の瞬間、悲鳴が走った。
一本の針が人の胸に突き立ち、赤が闇に散る。
リキは息を飲み、震える声で叫ぶ。
「……なんで……どうしてだよ、おじさん……!」
地面に突き刺さった無数の針。その中心に立つ男は、ぼんやりと両手を広げたまま、肩で荒く息をしていた。彼の視線は焦点を結ばず、ただ夜の闇に漂っているようだった。
「……俺は」
かすれる声が夜風に溶けていく。
リキは駆け寄ろうとしたが、周囲のざわめきに足が止まる。
「見ろよ……やっぱり五年子は人を殺すんだ!」「怪物だ! 化け物だ!」
怒号が重なり、石が地面を跳ねる音が響いた。
「違うんだ……! おじさんは……!」
リキの声は、群衆の叫びにかき消される。
その横でヨルは冷たい汗を流しながら、針の軌跡を凝視していた。
彼が時間を引き延ばした針の群れはすでに砂のように地に落ちている。だが、一本だけ――わずかに範囲を外れたそれが、鮮血をまとっていた。
「……一本、止められなかった……」
自責の囁きは誰にも届かない。
針のおじさんは膝をつき、握った両手を額に押し当てた。
「……なんで、俺ばっかり……」
その背に投げかけられるのは罵倒と憎悪ばかり。
リキは声を張り上げる。
「やめろ! おじさんは違う! 信じてくれ!」 だが、誰一人耳を貸さなかった。
禍野街の門の内外で、人々の怒声が渦を巻き、怒りと恐怖が火花を散らす。ざわめきは次第に暴風のように膨れ上がり
――。
誰かが叫んだ。
「もう殺せ! あいつらを皆殺しにしろ!」
その一言が火種となり、群衆が一斉に動き出す。
「ふ……ふふ、計画通り」
黒陽会の手下が密かに笑う。
怯える声、怒る声、泣き叫ぶ声が入り混じり、夜の街は一瞬にして修羅場と化した。
「やめろおおおおおおッ!」
リキは絶望の底で、ただ叫ぶしかなかった。
――こうして、禍野街の静寂は崩れ去り、本格的な戦争の幕が上がろうとしていた。
六話ありがとうございました。碧甫です。
いよいよ、禍野街戦に突入してしまいます。
今後のリキ達に注目です。それではまた次回




