第十八話 不明
時は遡り──リキ達の個人戦が行われる前日。
——黒陽会の本拠地
豪奢な和殿の奥、白檀の香が満ちる広間に、
一人の老人と二人の男が卓を囲んでいた。
「昨夜、政府に潜入中の者から報せがありました。近頃、また学校に戻れると。」
細身の男――和泉死陵がそう告げると、
老人はしわがれた声で応じた。
「そうか……これでまた、始められる。」
いかつい体格の男――八雲雷神が低く問う。
「党首様、やはり狙いは……ヨル、すか?」
すぐさま和泉が口を挟む。
「雷神、口の利き方に気をつけろ。」
老人は、指先で卓を軽く叩きながら言った。
「黒陽の血を外へ出すわけにはいかぬ。
……もちろん、ヨルは殺してでも、消さなければならない。」
「だが――聞くところによると、“あの”能力を持つ者がいるらしいな。」
和泉がうなずく。
「左様でございます。
禍野街で捕らえた潮見 柚と同等の、
極めて貴重な“あの能力”を有する者が、政府側にいるとか。」
老人がくぐもった笑い声を洩らす。
「ふん……久方ぶりだな、“あの能力”と相まみえるのは。」
雷神が眉をひそめ、低く唸る。
「にしても、柚ひとり捕らえるのに、駒を二つも失うとはな。」
和泉が鼻で笑った。
「何を言う。あの程度で倒れるなら――駒ですらない。」
雷神が肩を竦める。
「それもそうだが、
七禊祓頭衆にも穴が空き始めてる。
“数珠”に“影”……
ついこの間、月影狼牙の穴を埋めたばかりだっていうのに。」
和泉が冷ややかに言い放つ。
「月影はお前が殺したんだろう。…私の力でまだ利用できたものを。」
雷神はしばらく考え込み、頭をかく。
「……あぁ、そうだったな。手応えがなさすぎて、忘れちまってた」
老人は静かに目を閉じる。
「……ならば、“操”をそこに入れるか?」
即座に、和泉が声を荒げた。
「ご冗談を。党首の血筋が、あのような下賤な連中と並ぶなど――ありえません。」
「ふん……それもそうか。」
老人はわずかに笑みを浮かべ、立ち上がる。
「無理に穴を塞ぐ必要もあるまい。
時が来れば、相応しい者が現れる。
――黒陽会は、もはやこの国で収まる組織ではないのだからな。」
そして──現在。
零特専校の校庭では、最後の試合が始まろうとしていた。
対峙するのは、ヨルと奪宰取矢。
二人の間に、張りつめた空気が漂う。
風が止み、周囲のざわめきさえ凍りついた。
補佐の田中は思わず背筋を正し、息を呑む。
「そ、それでは──よーい、始め!」
合図と同時に、取矢が一気に間合いを詰めた。
地面を蹴る音が爆ぜ、砂塵が舞う。
ヨルも即座に反応する。
神気を流し、周囲の時間を緩めた。
次の瞬間、取矢の右拳が唸りを上げて突き出される。
だが──拳の軌道が鈍る。
空気が粘ついたように、動きが緩慢になった。
ヨルは冷静に身を捻り、拳を紙一重でかわす。
だが──
ドンッ。
突然、ヨルの左脇腹に衝撃が走った。
取矢の蹴りが、正確にめり込む。
不意のカウンターに、ヨルは反応できなかった。理解が追いつかない。
右の拳しか、向かっていなかったはずだ。
──見えていた。確かに、見えていたはず。
時間を歪め、全ての動きを認識していた。
なのに、取矢の蹴りはそれまで存在していなかったかのように、突然現れた。
「……な、に……?」
ヨルは息を詰まらせ、そのまま左へと大きく崩れ落ちる。
取矢はそのまま、勢いを殺さずヨルに突っ込んでくる。
ヨルは咄嗟に立ち上がり、己の時間を加速させた。
滑るように間合いをずらし、取矢の突進を紙一重でかわす。
「逃げるな、クソが」
荒い息とともに吐かれたその声に、ヨルの動きが一瞬止まる。
──聞き覚えがあった。
胸の奥がざらりと逆立つ。
あの時も……
ヨルが零特専校に来た初日。教室で待っていると、扉が静かに開いた。
入ってきたのは、全身に無数の傷跡を刻んだ男。
その眼には光がなく、近づきがたい空気をまとっていた。
男は無言のまま席に着く。
気まずい沈黙が流れる中、ヨルは意を決して口を開いた。
「名前は?」
男は一瞬こちらを見て、低く呟いた。
「……奪宰、取矢」
「取矢か。俺は月影ヨル。よろしくな」
ヨルが笑みを浮かべ、距離を詰めようとしたその瞬間、
取矢の肩がかすかに震えた。
「ど、どうした? 大丈夫か?」
心配して近寄ったヨルの手を、取矢は勢いよくはたき落とす。
「お前……今、なんて言った?」
睨み上げるその瞳には、怒りと怯えが入り混じっていた。
「え、なにが?」
「名前だ。」
「……月影」
その瞬間、取矢の表情が変わった。
椅子が音を立てて倒れ、彼の拳がヨルの顔面を襲う。
咄嗟に身を引き、後方へ跳ぶヨル。
「逃げるな、クソが!」
取矢はヨルに向けて机や椅子次々と飛ばす。
ヨルは時間を緩め、迫る物体をすべて避け、構えを取った。
(……こいつ、何者だ)
黒板の上のチョークを掴み、時間操作で弾丸のように加速させる。
白い線が空を裂き、取矢の肩に直撃。だが、男は止まらない。
ヨルは隅へと追い込まれ、もう逃げ場がなかった。
取矢が右肩を大きく引き、拳を振りかぶる。
その瞬間、ヨルはわずかに開いた取矢の左側へと身を滑らせた。
しかし——次に見た光景に、息が詰まる。
自分の腕の上に、いつの間にか取矢の足が乗っていたのだ。
さっきまで右で大振りしていたはずの取矢の位置からではありえない角度から迫ってきていた。
まるで、そこに不意に現れたように。
(なに……どういうことだ……!?)
ヨルの混乱をよそに、取矢はそのまま押し倒し、馬乗りになった。
両腕を両足で押さえつけ、完全に動きを封じる。
そして、拳を構えた。
それは迷いのない、殺意を帯びた一撃だった。
ヨルは能力を発動し、拳の速度を緩める。
だが、両腕を固定された状態では逃げられない。
拳がゆっくりと視界に迫り、空気が歪む。
風圧が先に頬を叩いた。
そこには通常なら感じるはずのない重みがあった。
(風圧でこれなら、直撃は……まずい!)
必死に足をばたつかせ、取矢の背中を蹴る。
しかし岩のように動かない。
絶体絶命。
拳が顔面に届く、その瞬間——
ピタリ、と取矢の動きが止まった。
静寂。
時間が止まったのではない。取矢自身の意思が、まるで途切れたようだった。
ヨルはおそるおそる目を開ける。
取矢の背後に、長身の男の影が立っていた。
「……大丈夫か?」
低い声が落ちる。振り向くと、そこにいたのは蓮だった。
ヨルは息を吐き、全身の力を抜いた。
その後、取矢は蓮に連れて行かれ、停学となった。
そして現在。
一度、命を懸けて戦った相手だからこそ、ヨルには分かっていた。
(こいつには……逃げることしかできない)
それは恐怖でもあり、本能的な直感でもあった。
一度拳を交えたというのに、取矢の能力は何ひとつとして理解できなかった。
不意に現れる攻撃も、常人離れした拳の重みも、攻撃しても顔色ひとつ変えない恐ろしさも、
ヨルは不気味に思えた。
だが、逃げるだけではどうしようもない。
とにかく、相手より先に攻撃するしかない。
ヨルは神気を脚に込め、一気に取矢へと駆けだした。
自らの時間を加速し、反応する隙も与えず連続で拳を叩き込む。
三発、四発──確かに当たった。
だが、取矢は顔色ひとつ変えない。
その無反応に焦りを覚えたヨルは、もう一度拳を振り抜いた。
次の瞬間、衝撃。
まるで石像を殴ったかのように、ヨルの拳は逆に弾き返された。
加速していた分、反動は凄まじい。
身体が宙を舞い、地面に叩きつけられる。
視界が揺らぎ、息が詰まった。
(なんなんだ、こいつは)
理解の及ばない出来事の連続に、ヨルの思考はすでに限界を迎えていた。
息が荒れ、鼓動だけが耳の奥で鳴り響く。
一方で、取矢の瞳には、変わることのない執念が宿っていた。
そこにあるのは、確かな殺意。
それは、ただヨルを殺すためだけに燃え続ける、狂気の炎のようだった。
奪宰取矢の能力
《────────(────)》
《通常時》
———————————————不明。
十八話ありがとうございます。碧甫です。
ついに、狼牙を殺した本人が登場しました。今後、ヨルの因縁の相手になるので期待してください。
そして今回は謎が多い話となりました。
取矢は何者なのか?はたまた政府にいる黒陽会のスパイとは? それではまた次回




