16 世界が閉ざされる夜に、君と
彼女はそっと息を吸い込み、表情を引き締める。
「学校はすでに緊急事態に入っているわ。周囲の学生や教職員の大半は避難を完了している。……今もキャンパスに残っているのは、私たちみたいなごく少数だけ。私たちも、早く向かうべきよ」
颯真は首を傾け、頑なで真剣な表情を崩さない少女の横顔を見つめた。
この異様で静まり返った世界の中で、同じように簡単には退かない誰かが隣にいる――それも、悪くない。
彼は一歩前へ出てから振り返り、わざとらしいほど優雅に微笑むと、紳士然と一礼し、右手を差し出して言った。
「Sehr wohl, Fräulein Celeste(承知しました、セレステお嬢さん)」
セレステは一瞬きょとんとした表情を見せ、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。
貴族の令嬢のように軽やかに屈膝礼をし、薄暗い照明の下で青灰色の瞳を穏やかに輝かせながら、静かに応じた。
「Es ist mir eine Ehre, Herr Kujou(光栄ですわ、九条様)」
二人は顔を見合わせて微笑み、肩を並べて、薄暗い図書館の奥へと歩みを進めた。
照明は相変わらず不安定に明滅していたが、先ほどまで漂っていた冷え切った孤独感は、短いやり取りと小さな笑いによって、わずかに和らいだように感じられた。
廊下の先では放送が途切れ途切れに流れ続け、ときおり遠方から、正体の知れない低い異音がかすかに響いてくる。
交錯する書架の間を進む二人の姿は、この異様な空間の中で、ひときわ生き生きとして、どこか温かく見えた。
だが、その和やかな空気が消えきらぬうちに――
耳を裂くような雑音が突如として割り込み、断続的だった放送を押しのけた。
同時に、図書館内のスピーカーから激しいノイズが走り、続いて鋭く不快な警報音が、静寂を容赦なく切り裂いた。
広大で無人のホールに、けたたましい警報音が反響した。
「ウ――ウ――ウ――!」
セレステはびくりと肩を震わせ、颯真の腕に絡めていた手に思わず力を込める。
青灰色の瞳を大きく見開き、頭上のスピーカーを凝視した。
颯真は眉をひそめ、周囲を見回す。蛍光灯は黄ばんだ光を放ちながら、激しく明滅していた。
明るくなったかと思えば、次の瞬間には闇に沈む。
やがて放送が再開された。
だが、それは先ほどの女性の声ではない。ノイズに遮られ、途切れ途切れに響く、硬く切迫した男の声だった。
「キャンパス……全面封鎖……外部との通信……すべて遮断……ネットワーク……断線……電力供給……断続的に停止……残留中の教職員および学生は……直ちに体育場内の臨時避難所へ……繰り返す……体育場内の臨時避難所へ……ジジッ……緊急事態……発効……ジジ……」
音声は唐突に途切れ、警報音だけが空間に鳴り響き続けた。
颯真は、まるでこうなることを最初から予期していたかのように、静かに息をつく。
無意識のうちに、腰元に下げた懐中時計の鎖を指先で弄んでいた。
セレステは彼を見つめたまま、かすれた声で呟く。
「颯真……今回は……本当に、ただ事じゃないわね」
颯真の唇がわずかに歪んだ。だが、先ほどまでの気だるげな表情は消えている。
彼は落ち着いた口調で答えた。
「まあ……ラジオの声の調子からして、前の授業でレポート未提出が教授にバレた時より、何倍も切羽詰まっているみたいだ。今回はさすがに、冗談じゃなさそうだな」
次の瞬間、照明が一斉に落ち、闇が訪れた。遠くの窓の向こう、くすんだ黄昏色の空から差し込む、かすかな光だけが残される。
セレステは反射的に彼へと身を寄せた。何もない空間に、二人の心臓の鼓動だけがはっきりと響き渡る。
しばし、視線が交わった。
そのとき、颯真の唇に穏やかな笑みが浮かんだ。
「行こう。FLAGも立ったことだし、主人公は困難に立ち向かわないとな」
そう言って彼は手を伸ばし、セレステの額を軽く指でつつく。口調は相変わらず、アニメやゲームでよく聞くような、冗談めいた軽さを帯びていた。
「心配するな。俺、主人公補正持ちだから」
セレステは一瞬言葉を失ったが、やがて涙をにじませながら、くすりと笑みをこぼした。暗闇の中で、その瞳は潤んだ光を宿している。
「じゃあ……一緒に?」
颯真は迷うことなく頷いた。
「ああ。一緒だ」
二人は肩を並べ、出口へと続く長い廊下へ歩み出した。足音が、広い空間に反響する。
周囲ではときおり、回路がショートするようなパチパチという音が響き、本棚から本が数冊、音もなく床へと落ちることもあった。あるいは、どこか見えない隅から、低く不穏な物音が伝わってくる。
ふとセレステは足を止め、背後の暗い書架を振り返って、低い声で問いかけた。
「ねえ……外では、一体何が起きているの?」
颯真はすぐには答えず、真っ暗な天井を見上げてから、気のないようでいて、どこか真剣な声で言った。
「さあな。でも、何にせよ……早くスタジアムに避難したほうがいい」
セレステは思わず小さく笑みをこぼし、そっと彼の腕に手を絡めた。その温もりに縋るようにして、胸の奥に巣食う恐怖を押し殺す。
やがて二人の姿は廊下の奥へと溶け込み、あとに残されたのは、幾度となく反響する耳障りな警報音だけだった。
それはまるで、静かに、しかし確実に迫り来る未知の危機を告げているかのようで――。
はい、というわけで今回の章はここまで!ぜひ次の章をお楽しみに!




