15 君に覚えられていた、それだけで世界はまだ優しかった
颯真は片眉を上げ、数秒間じっと彼女を見つめる。そして、何かを思い出したように指先を軽く弾いた。
「ああ……君か」
ようやく合点がいったというふうに、彼は口角をわずかに上げた。
「セレステ・フォン・ヴァイツゼッカー。二十一歳。某西側大国出身で、父親はその国の外務大臣。明るくて活発、うちの学科じゃ文句なしの看板娘。成績は常にトップ5、テニス部のエースで、ファンも山ほどいる。授業じゃいつも最前列のど真ん中、ノートを取るのも誰より速い――違うか?」
セレステは一瞬きょとんとし、次の瞬間、頬がほんのりと赤く染まった。視線はわずかに泳いだものの、その奥には抑えきれない喜びが滲んでいる。
彼女はずっと前から颯真に想いを寄せていた。授業中、何気ないふりを装いながら、いつも後方の窓際に座る彼へと視線を向けていたのだ。どこか気だるげな雰囲気を纏いながらも、成績は常にトップクラス。教授の問いにも、予想の斜め上をいく答えをさらりと返す――そんな颯真を、彼女は密かに観察し続けてきた。
だからこそ、彼が自分のことをここまで鮮明に覚えていたという事実は、まったくの予想外だった。
「……ええ、そうです」
セレステは服の裾をぎゅっとつまみ、ゆっくりと顔を上げる。頬はまだ赤く、瞳の奥には小さな驚きと喜びが、隠しきれずに揺れていた。
「まさか、私のことを覚えていてくれるなんて……それも、そんなに詳しく」
颯真はくすりと笑い、肩をすくめて軽い調子で言った。
「そりゃ覚えているさ。だってクラスでも“ヒロイン枠”みたいな存在だろ? あれだけ目立っていたら、忘れるほうが無理だって」
さらに、どこかACG風の口調で、わざとらしく付け加える。
「それにさ、“イベントフラグを立てるキャラには必ず特別な意味がある”っていうのは基本設定だろ? ……となると、次は恋愛ルート突入かな?」
その言葉に、セレステは思わず「ふふっ」と吹き出した。張りつめていた空気が、ほんの少しだけ和らいでいく。
颯真は目を細め、首をわずかに傾ける。冗談めいた口調ではあるが、その視線には、どこか探るような色が含まれていた。
「でもさ、正直に言っていい? なんで図書館にいたのだ? しかも、ずっと後をついてきていただろ。てっきり最終戦前の隠しボスでも待ち構えているのかと思ったのだけど」
セレステは少し気まずそうに視線を落とし、服の裾をいじりながら、ためらいがちに口を開いた。
「わ、私も……資料を確認しに来ていたのです。学校から緊急避難の指示が出ていたので、メモだけ取り終えたらすぐ帰るつもりだったのですけど……まさか、あなたに会うとは思わなくて」
颯真は眉を上げた。
「避難指示? 何それ。ここに来るまで、ほとんど何も聞こえなかったけど」
セレステは一歩だけ距離を詰め、声を落として真剣な表情で続ける。
「校内放送が何度も流れていて、学校全体が緊急事態だって。市の中心部で大きな事故が起きたそうです。詳しい内容は伏せられていましたけど、今のところキャンパスへの直接的な影響はないみたいです。ただ、全学生と教職員は避難集合場所へ向かうように、って……」
彼女は薄暗い照明と、途切れ途切れに流れる放送へと視線を向け、唇を噛んだ。
「でも、通信は不安定で、指揮系統も混乱していて……状況がどんどんおかしくなっています」
そう言うと、セレステはそっと颯真の腕に手を絡め、わずかに身を寄せた。髪が彼の肩に触れ、柔らかな感触がはっきりと伝わる。
彼の腕に軽く頭を預け、震えを含んだ声で続けた。
「実は……メモを書き終えて帰ろうとした時、図書館に誰もいなくて。受付も空っぽで、照明もちらついていて……すごく不気味だったのです。怖くなって、すぐに帰ろうと思ったのですけど……その時、あなたが入ってくるのが見えて」
小さく、どこか自嘲するように笑った。
「本当は、すぐに声をかけたかったの。でも、何かおかしい気がして……偶然なのか、それとも見間違いなのか確かめたくて、少しだけ様子を見ることにしたのです」
颯真は片眉を上げ、鼻で軽く笑った。
「なるほどね。つまり俺は、移動式の安全装置扱いってわけか」
文句を言うような口ぶりだったが、腕を引くことはせず、むしろ彼女がしがみつくのを黙って受け入れていた。
セレステは顔を上げ、問いかける。
「じゃあ、あなたは? どうしてここに? 避難指示は聞いていなかったのですか?」
颯真は大きく肩をすくめ、ため息交じりに答えた。
「今日が論文の提出締め切りだったの、すっかり忘れていてさ。思い出した時には、まだ資料が数ページ足りなかった。で、オンラインのデータベースは全部落ちていて、原本があるのは図書館だけだったのだ」
そして、どこか芝居がかった口調で締めくくる。
「――世界の平和と、俺の論文のために。ここは勇者として戦場に向かうしかないだろ?」
その言葉を聞き、セレステは思わず目を見開いた。
「避難指示、確認してなかったの?」
「スマホはマナーモードだし、イヤホンは首にかけっぱなし。あのノイズ混じりの女の人のアナウンスなんて、誰がまともに聞き取れるのだよ」
颯真はどこか呑気に笑った。
「ほんとに……バカね」
セレステは呆れたようにため息をつく。颯真は相変わらず軽薄で掴みどころのない態度だったが、それでも彼は――彼女が好きになった、あの頃のままの颯真だった。




