11 世界が滅びても、恋は始まる
窓は重たいカーテンにぴたりと覆われ、部屋の中は薄暗い。わずかに灯っているのは、パソコンのモニターから放たれる幽かな青い光だけで、それが颯真の顔を淡く染め上げていた。
彼は椅子に身を縮めるように座り、頭には黒い高級ヘッドフォン。耳元では、どこかで聞き覚えのある有名歌姫が歌うアニメの主題歌が流れている。白いシャツの裾は無造作にジーンズへ押し込まれ、机の上には分厚い設定資料集やフィギュアがいくつも散乱していた。
指先は休むことなくキーボードを叩き、画面には彼が没頭して書き進めているオリジナル小説の原稿が映し出されている。まるで、この世界には彼と、この仮想の光景しか存在しないかのようだった。
その頃、街の反対側ではニュースと警報が絶え間なく鳴り響いていた。蔓の怪物が市街地の中心部で暴れ回り、植物の傀儡たちが通りを蹂躙し、広範囲の街区を狂気と地獄へと叩き落としていたのだ。
幸いにも、この災厄はまだキャンパス周辺には及んでいなかったが、学生や教職員の大半はすでに指示に従って避難しており、構内は不気味なほど静まり返っていた。
――だが、颯真はそんな異変を知る由もない。
彼は相変わらず、自分だけの二次元世界にどっぷりと浸りきっていた。
「よし……これで完璧だ!」
どこかのアニメキャラを気取った口調で、彼は満足げに呟き、口元に得意げな笑みを浮かべる。
保存ボタンをクリックしようとした、その瞬間――頭の中に雷が落ちたような衝撃が走った。
(……今日は、論文の提出締切日じゃないか)
「やばっ!」
颯真は勢いよく身を起こし、周囲に散らばった資料を慌てて探し始める。だが途中で、ふと手が止まり、表情が凍りついた。
「……なんで、一枚足りないのだ?」
低く悪態をつきながら、彼は机の上や引き出しの中をせわしなく見渡した。ポケットの中では、懐中時計が小さく触れ合い、かすかな音を立てている。
急いで画面を切り替え、大学図書館のデータベースへアクセスしようとする。しかし表示されたのは、無機質な〈システムメンテナンス中〉の文字だけだった。
「……冗談だろ」
力が抜けたように椅子の背にもたれかかると、ヘッドフォンがずり落ちる。さっきまで高揚感に満ちていた歌声は、ただの虚ろな振動音へと変わっていた。
こんな肝心なタイミングでのシステム停止に、頭皮がじわりと痺れる。
部屋の外は、まるで死んだかのような静けさに包まれている。
かつて人で溢れていたキャンパスは、今では固く閉ざされた寮と、遠くから時折聞こえてくる警報音だけが残されていた。――もっとも、その事実に彼が気づくことはなかったが。
颯真はポケットから、ウロボロスの紋様が刻まれた懐中時計を取り出し、時間を確かめるように一瞥する。悔しそうに歯を食いしばり、深く息を吐くと、立ち上がって部屋中を再び探し始めた。
「まったく……世も末だな」
よく見ている古いアニメの登場人物になりきったように、ぼやきながら呟く。
机の上の設定資料集を一冊ずつめくっていくと、間には手描きのラフや古いメモが何枚も挟まっていたが、目当ての一枚は見当たらない。諦めずに机の下へしゃがみ込み、引き出しの奥へ手を伸ばす。指先に黄ばんだ原稿用紙の束が触れるが、それでも違っていた。
紙の匂いと、ヘッドフォンのイヤーパッドから漂うかすかなプラスチック臭が空気に混じる。パソコンの光が、額に滲んだ汗を照らし、淡い光の輪を描いていた。
まるで音のない戦場に放り込まれたかのように、彼は焦燥を抱えたまま捜索を続ける。
「……諦めるな。主人公は絶対に負けない」
拳を握りしめ、自分に言い聞かせるように呟くと、彼は再び本棚の隅々まで念入りに確認した。
懐中時計の中で時間は無情に刻まれ、分針はゆっくりと締め切りの瞬間へと迫っていく。
そしてついに、積み重なった古いノートの山の中から、折り目のついた一枚の紙を引き抜いたのだった。
「見つけた!」
彼は戦利品を高々と掲げ、疲労のにじむ中にも満足げな笑みを浮かべた。
だが、その資料を論文と一行ずつ照らし合わせていくにつれ、彼の表情は次第に硬直していった。肝心の後半部分は依然として欠けたままで、重要な情報も不完全だ。必要な内容を組み上げるには、まだ決定的に足りなかった。
彼は画面をじっと見つめ、数秒間沈黙したのち、力なく顔を揉みながら低く呟いた。
「やっぱり……運命の女神は、そう簡単には勇者に微笑んでくれないか」
人気のない不気味な学生寮と、モニターの隅で点滅する時刻表示にちらりと目をやると、彼はしぶしぶスマートフォンに手を伸ばした。学校図書館のデータベース画面をざっと確認するが、相変わらずメンテナンス中の表示が出ている。
「最悪だな……」
颯真は歯を食いしばり、やがて諦めたように小さく息を吐いて立ち上がった。
スマートフォンをポケットにしまい、ズボンの中の懐中時計が無事であることを確かめる。シャツの裾を軽く引き、ヘッドフォンを装着すると、低く独り言を漏らした。
「……どうやら、主人公の出番ってわけか」
そう言って深く息を吸い込み、椅子を押しのける。
現実から逃げ込むために頼っていた、この小さな居場所を後にする覚悟を、彼はついに決めた。




