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この手紙は誰のもの~記憶喪失令嬢と見知らぬ婚約者~

作者: 加納安

 ___


 ネゼ様


 雨が続きます。もう少ししたら、雨の季節も終わりそうです。

 窓の外に青と紫と桃色の花が咲いていて、とてもきれい。

 あなたのいる場所には、どんな花が咲いていますか。

 雨は降っていますか。


 ___



 ここは自然豊かな郊外の屋敷の一室で……私はどうやら、記憶をなくしているらしい。

 自分の名前、出自、いたはずの家族。その情報が私の中から消えている。

 朝起きて身支度をして食事をする。食事の作法や片付け方もわかる。だけどときどきわからない。

 この屋敷はどこにあるの。

 この人は誰だろう。

 私の世話をしてくれる女性はとてもやさしいけれど。私が、彼女のことを覚えてないから申し訳ない気持ちになる。彼女はこの屋敷で働くメイドのひとりだと言った。

 私が忘れてしまったことを、彼女はさみしいけれど仕方がない、とも言った。私のことを「お嬢様」と呼び、かいがいしく世話をしてくれる。


「私の名前をあなたは知っているの?」


 尋ねたら、彼女は「はい」とうなずいた。


「教えてくれる?」


 しかし彼女は、今度は「いいえ」と頭を横に振る。


「申し訳ございません、お嬢様。私からはお嬢様の記憶に関することを、伝えることができません。お嬢様に偏った記憶を植え付けてしまってはならないと……」


 彼女にそう命じているのは、雇い主――この屋敷の主人なのだろう。

 わがままを言って、彼女を困らせてはいけない。私はそれ以上問うことを諦める。


「わかりました。自分でがんばって思い出します」


 私の返事に、彼女は「はい」と、嬉しそうな表情を浮かべ、思い出したように言葉を足した。


「お嬢様に、お渡しする荷物を預かっております。あとでお持ちしますね」


 まるで、私が自分の名前を知りたがったら、そうするようにと、決められていたみたいなセリフだった。


 そしてその日の午後。私のもとにひとつの荷物が届けられる。

 革張りで私でも片手で持ち運べる大きさのトランクだった。見覚えは……あるような、ないような。


「こちらをお嬢様にお渡しするようにと」


 そう説明して、メイドは部屋を出ていく。かちゃんと静かに廊下側から、鍵がかけられる音がした。私はこの部屋から自由に外に出ることを許されていない。

 窓辺のカーテンを開くと、外の景色は見えるけれど……窓には格子がはめられていて、ここから外に出るのも無理そうだ。

 記憶がない状態では、外に出るほうが危険な気もする。私はまずは、自分の正体を思い出したかった。

 メイドが教えられないのなら、与えられた情報で考えるしかない。


 渡されたトランクの中はぎっしりと、書類で埋め尽くされていた。

 折りたたまれた紙をひとつ手に取り開いてみる。そこに書かれていたのは、……これは手紙?


 ___


 ネゼ様


 雨が続きます。もう少ししたら、雨の季節も終わりそうです。

 窓の外に青と紫と桃色の花が咲いていて、とてもきれい。

 あなたのいる場所には、どんな花が咲いていますか。

 雨は降っていますか。


 ___


 もうひとつ手に取って開けば、それもどうやら手紙。同じように「ネゼ様」と、宛名から始まっている。


「これが私の名前?」


 ひとりごちて、首を傾げる。

 それから、声に出してみる。


「ネゼ」


 とたんに、胸の内側がぶるりと震える気がした。私はこの名前を知っている……知っている!

 どうして忘れていたんだろう。私は知っている。


「ネゼ」


 もう一度声に出したら、知らず知らずに涙がこぼれた。私はこの名前を知っている。

 ああ、やはり、これが私の名前なんだろう。

 だって、この手紙にも。この手紙にも。これにも、これにも、これにだって。

 トランクの中に詰められていた書類はすべて、手紙で。そのすべてが、同じように「ネゼ様」と、名前を呼んで、始まっていた。


 これは私に記憶があったときに、私に宛てられた手紙なのだろう。

 こんなにたくさん。私に手紙を書いてくれる人がいたんだ。


 私はなくしたものを取り戻したような嬉しさと、興奮で。トランクの中の手紙をひとつひとつ、読んでみた。私の忘れてしまったものが、ここには書かれているはずだ。


 そして私は知るのだ。

 私はこんなにも愛されていたのかと。


 どの手紙の文章も穏やかだった。他愛もない天気の話、窓の外の様子。食べておいしかったもの。それから、私の健康を祈っている。私の幸せを祈っている。ずっと元気でいてとそればかり。


 私はどうやらこの手紙をくれた人に、心配ばかりかけている。


 穏やかな言葉の羅列は、今の私を癒す言葉の羅列でもあった。

 読めば読むほど、私はこの手紙をくれた人を好きになった。


 だけど。読み続けているうちに、残念なことに気づく。

 どの手紙にも、「誰から」送られたものかが書かれていない。手紙の末尾に添えられるのは、送り主の名前のはず。だけどそこは決まって空欄だった。

 便箋はきれいな形のままだったから、その部分をわざと切り刻んだり、消してしまったりしたわけではなさそうだった。そもそも書かれていないのだ。


 そして、もうひとつ残念なこと。


 ___


 ネゼ様


 今日は夕焼け空が不思議な色でした。何色とお伝えすればいいでしょうか。

 太陽のまわりは■赤くて次が橙、■黄色、そこから青と■紺色になって。

 =一=緒=に=見=た=か=っ=た=

 あなたのいるところからは、どんな夕陽が見えますか?


 ___


 手紙にはところどころ、誤りを正すように、インクで塗りつぶされた文字があった。この文章はいらないと思ったのか、斜線で消された部分もある。目を凝らせば見えてしまう。消された文章が。

 書き損じたものをそのまま送ったのだろうか。書き直せないぐらい忙しい人? だけどあまりにも訂正の多いものをそのまま送り付けるのは失礼なのでは?

 ああ、だけど。

 こういうものを見せても、失礼に当たらない関係の人だったのかもしれない。

 ネゼ、つまり私と。この手紙の送り主とは。

 そんなにも親しく、私のことを大切に思ってくれていた人を、私は忘れてしまったのか。なんだかとても悲しくて、悔しい。


 私はなぜ記憶をなくしてしまったんだろう。その原因もいつかはわかってしまうんだろうか。

 知りたいような、知りたくないような。


 私はこの手紙を書いたあなたに尋ねたい。

 私に記憶を取り戻してほしい? 私は記憶を取り戻すべき?

 そして私はあなたのやさしい手紙に、どんな返事を書いていたのだろう。それも思い出せなくて悲しくなる。


 私はこの手紙を書いてくれた人に、会いたいと思った。


 *


 翌朝、部屋を訪れ朝食の準備をするメイドに、私は尋ねた。


「あなたはこのトランクの中の手紙を、見たの?」


 メイドに尋ねると、彼女ははっとしたように目を開き、それから「いいえ」と答えた。


「トランクの中にはお嬢様の大切なものが入っているから、開けてはいけないと言われていたので。……お手紙だったのですね」


「そう。手紙」


 私がもらった手紙。手紙は私書、読んでいいのは宛名の人だけ。だから私だけ。


「ならばやはり、私などが見てはいけませんね。お嬢様の大切なものですから」


 誰かからの愛のこもった言葉を、他人に見せるのは、書いてくれた人にも失礼なこと。してはいけないこと。トランクの中身を見ずにいてくれたメイドの誠実さに、私は感謝する。

 すると、彼女はおそるおそるといったふうに、私に尋ねた。


「今日の午後、ご主人様がお嬢様に会いたいとのことです。準備してもよろしいでしょうか?」


 この屋敷の主人。私をここに閉じ込めている人……そう考えると少し怖い気もする。けれど、断るという選択肢は、私には思いつかなかった。


「もちろん。よろしくお願いします」


「はい!」


 彼女は私の返事に安堵し、元気な声を上げた。


 食事を終えて、準備にとりかかる。これまで着ていたワンピースよりも、装飾の多い上等なものに着替えさせられた。

 メイドは私の髪を結い、薄く化粧を施した。鏡を見せて、「いかがですか?」なんて尋ねられたけれど。私は自分の顔を見ても、私だというはっきりとした確証が持てない。ただ、いつもの私よりは血色がいいかもしれない。メイドは確実にいつもより機嫌がいい。

 私に主人を会わせるのが嬉しいみたいだ。


「ご主人様の名前を、教えてもらってもいい?」


 私はメイドに尋ねてみた。鏡越しに彼女が眉を寄せる。その表情が、すでに答えを示していた。


「……申し訳ございません。私からはお伝えすることができません」


 でしょうね、と、予測はしていた。きっとこれも、私自身ががんばって、思い出すべきことなのだろう。

 記憶の揺らぐ私をここに閉じ込めているのが誰なのか……心当たりすら思い出せないのだけれど。


 *


 準備ができた部屋にノックの音が響いた。私はソファーのそばに立ち、きゅっと両手を握る。


「ご主人様がいらっしゃいました」


 メイドが扉を開き、男がひとり、入ってくる。私はその人を見据えた。

 灰色の髪に瞳。きっちりとした服装で、背筋が伸びて姿勢が良くて背が高い。表情はどことなく硬い。年齢は私よりいくつか歳上ぐらいだろうか。


「こんにちは」


 落ち着いた艶のある良い声……だけど、聞き覚えのない声だった。

 姿を見ても、声を聴いても、何も思い出すことはない。私の頭の中で私が告げる。私はこの人のことを、知らないのだ。


 彼は私に礼儀正しく挨拶をして、それからじっとこちらを見た。私は気まずくなって少し目をそらす。失礼かもしれないが、あまりにも真剣に見つめられて恥ずかしかった。


「こんにちは」


 私は挨拶の言葉を返す。すると、ふっと一息笑う吐息が聞こえて、それから彼が言う。


「彼女とふたりで話がしたい」


 それは私にではなく、メイドと、背後に従えた従者への命令だった。主人の命令に、メイドたちは静かに部屋を出ていく。扉が閉まったが、鍵をかける音はしなかった。鍵をしなくてもこの人が、私を逃がすことなどあり得ない、という意味のようにも思えた。


 ふたりきりになった部屋で、彼は私にソファーに座るように示す。そして彼自身もテーブルを挟んだ席に腰を下ろした。


「体調はいかがですか?」


 問われて、私はソファーの上で少し背を伸ばす。


「特に異常はありません。記憶を失っているだけです」


 彼はすべてを知っているはずだ。メイドたちが報告していないわけがない。素直に今の状態を伝えたら、彼は少し目を伏せた。


「へランド嬢が記憶を失っている、と聞いたときには。俺はとても慌てたのですが。ご本人は意外と落ち着いている」


 私ははっと息をのむ。

 さらりと彼は、私の名前を言わなかったか? へランド……は、姓のようだ。では手紙にあった宛名のネゼが名だから……私の名前はネゼ・へランド。

 だけど、つなげて考えてみたところで、しっくりこない。私はこの名前を知らない。

 考える私の前に、彼は上着のポケットから取り出した封筒を見せた。


「この手紙に見覚えは?」


 問われて、私は封筒に触れる。封筒に書かれた宛名は――ネゼ様へ――。


 私の名前?

 私は自分の胸がそわそわと踊っているのに気づいた。封筒の封は開かれていた。

 なぜこの人が、私宛の手紙を持っているの?


「中を見てもいいですか?」


「どうぞ」


 彼の許可に、私は封筒から便箋を取り出す。震えた指で、きっちりとたたまれた便箋を開く。私はその便箋の柄に見覚えがあった。昨日トランクの中にあった手紙にも、同じ便箋が使われていた。


 ___


 ネゼ様


 今日は夕焼け空が不思議な色でした。何色とお伝えすればいいでしょうか。

 太陽のまわりは赤くて次が橙、黄色、そこから青と紺色になって。

 あなたのいるところからは、どんな夕陽が見えますか?


 ___


 ネゼ様、と。私の名前から始まる手紙の内容にも、覚えがある。……ああ、だけど、違うところもいくつか。

 トランクの中にあった便箋には、書き損じた部分があったり。斜線で消したものがそのまま残っていたけれど。こちらの便箋にはとても丁寧な、どこか緊張すら伝わってくるような筆跡で、同じ内容が書かれている。

 そして、もうひとつ違うこと。手紙の最後に、送り主の名前。


 ___


 どうか、お体にお気をつけて。お元気で。


 メミより 親愛を込めて


 __


 メミ、というのが、送り主の名前?

 私はつい、声に出す。


「メミ」


 それはとても懐かしいような響きだった。私が「ネゼ」という自分の名前を知ったときとはまた違う、不思議な感情が胸の中をぐるりと撫でていく。

 私はこの「メミ」という人を知っている。ちゃんと思い出せないけど知っている。絶対に、知っている。


 感情が高ぶり、目が潤む。私はうつむいていたら涙がこぼれそうだから、ぐっとそれを堪えて顔を上げた。視線の先には彼がいる。彼は私をやはり、じっと、見たままだった。その表情に込められた気持ちは、私にはわからない。


「どうして。この手紙をあなたが持っているのですか?」


 彼は揺らぎのない声で言った。


「俺がもらったからです」


「あなたが?」


 わからない。わからない。このメミという送り主は、同じ内容の手紙を、私にもこの人にも送ったの?

 しかも彼が持っている手紙はとても丁寧な文字だ。私が持っていたものは、ところどころ間違えていて、走り書きで……。大事な人には丁寧な手紙を送る。一番上等なものを送る。だから私は一番ではなかった? 私は送り主に大切に思われてはいなかった?


「私も同じ手紙を持っています」


 私はソファーから立ち上がり、部屋の片隅に置いていたトランクを抱えて戻る。ソファーの上でトランクを開き、その中を探った。

 あの手紙はどれだったか。便箋の柄を頼りにごそごそと……あった。

 そして私はテーブルの上、彼が持っていたという手紙の隣にそれを広げて置いた。

 自分宛ての手紙を他人に見せるなんて本当はしたくないけれど、確認するためならば仕方がない。


 ___


 ネゼ様


 今日は夕焼け空が不思議な色でした。何色とお伝えすればいいでしょうか。

 太陽のまわりは■赤くて次が橙、■黄色、そこから青と■紺色になって。

 =一=緒=に=見=た=か=っ=た=

 あなたのいるところからは、どんな夕陽が見えますか?


 ___


 彼はそれを見て、明らかに動揺していた。……同じ内容の手紙が二通この世にあるというのは、どこか、裏切られた気持ちになるような……、私が感じた気持ちと、彼が同じ気持ちだったかは、わからないけれど。


 彼は私の広げた手紙をじっと見つめ、そして、ぐっと、膝の上で手を握っていた。

 そして次の瞬間、冷ややかに強張り緊張していた表情が、ほろほろと、解けた。浮かんだ笑顔は晴れやかで、そこには送り主への失望など、そんなものはちっとも感じられない。


「一緒に見たかった、と書いてあったのか」


「え?」


 彼のつぶやきを問い返せば、「ここ」と、彼はその長い指で私が見せた手紙をなぞる。


「俺に届いた手紙には書いてなかった。一緒に見たかった、などと。斜線で消されているけれど。……ああ、消さずに送ってくれたらよかったのに」


 便箋を撫でる彼の指先の動きを見て、私は不思議とほほを赤らめていた。触れられているのは自分ではないのに。なぜか、愛おしさのようなものを感じて。

 そして彼は私の顔をしっかりと見つめて、言った。


「ありがとう、メミ。俺に会いに来てくれて」


 彼の言葉を、すぐには理解できなかった。

 メミ? 今、私のことをメミと呼んだ?

 違う、それは、この手紙を書いた人。手紙の送り主の名前だ。


「私の名前はネゼ、ですよね?」


 トランクの中に入っていた手紙の束、すべての宛名はネゼだった。

 しかし私の問いに、彼は違う、と頭を横に振る。


「それは俺の名前です」


 その言葉に、私の胸に痛みが走る。この人は私の名前まで奪おうとするのか……と。

 私は記憶をなくしているけど、それでも。自分がどれだけ、ネゼという名前を大事に思っていたかは、覚えている。なくせない記憶、私の一番大事なところにある名前。

 私はとっさに彼に反論していた。


「でも、でも……、だったらどうして、私はネゼという名前を声に出すだけでほっとするのですか? 自分の名前だからではないのですか? 私にはわかるのです、記憶はなくても、でも、覚えているのです。大事な人の名前です。ネゼ、というのは私の大事な。だけど、あなたであるなら……どうして? 私はあなたのことを知りません」


 記憶がなくなったからではない。本当に知らない。私はこの人のことを知らない。その感覚には自信がある。

 しかし、私の言葉に、彼はふっと力を抜くように笑った。


「知らなくて当然です。ちゃんと会うのは、今日が初めてですから。俺たちは」


 そして彼は私の手を取り、微笑む。


「はじめまして、俺の婚約者。メミ・へランド」


 私はこの人のことを知らない。手を取られ、微笑まれ、美貌を向けられ、ときめいているのは、この人がすてきだから……それだけ?


「俺はネゼ・ヴィゾノン。ずっと待たせてしまってすみませんでした。……ようやく戦地から戻ることができたのです。これからはずっと一緒にいられる。たくさん手紙をありがとう。返事も出せず、ただ、あなたの手紙が届くたびに、俺は生きなくてはと思った」


 彼はテーブルの、封筒に入っていた手紙を示して言う。


「ネゼ様、と。君からのやさしい手紙が届くことが、俺はとても楽しみでした。この手紙は、君が俺に送ってくれたもの。遠い国で、遠い地で。戦いの中で。もうここに帰れないと覚悟した俺を、励まし、生きさせてくれた手紙です。ずっと会いたかった、メミ。君に」


 私は混乱する。混乱するけど、でも。


「ネゼ」


「ああ。それが俺の名前」


「ネゼ……様」


 私が名前を呼ぶたびに、彼ははにかんで、うなずく。


 私は顔が熱くなる。

 私は、知っている。彼の名前を知っている。こうやって、何度も彼の名前を呼んだ。そのときは彼は目の前にはいなかったけど、でも。私は確かに、記憶を失う前も、確かに。彼の名前を何度も呼んだ。いつか、いつか本当に会って。彼の名前を呼べる日を夢見て。


「じゃあ、私の手元にあるこのトランクの中の手紙は、何?」


 私はこの手紙の束を、自分に宛てられたものだと思い込んでいたけれど。違うのなら、これは?

 疑問を口にすれば、彼が「これはきっと……」と答えてくれた。


「手紙の下書きでしょう。俺に送った手紙の。……でも、君の本音が書いてある。俺も読んでみたい」


 私は昨夜すべて目を通した手紙の内容を思い出して、慌てて拒む。斜線で消した部分を知りたくて、私はずいぶん目を凝らしたし。隠しきれないその言葉に、かわいい人だとくすくすと笑った。

 そのかわいい人、それが全部自分なら。あんな恥ずかしい言葉を彼に送ったりはできない。


「恥ずかしいから、いけません」


 メミの本心は私が知っていればいい。


 恥ずかしすぎて死にそうだ。死にたくないけど死にたいと思う。恥ずか死ぬ。

 いっそ殺してと叫びそうになった私を、彼は満面の笑顔で抱きしめた。


「君の手紙は俺の宝物です。それ以上に君自身が。会えて嬉しい。もう大丈夫……、メミ、会いたかった」


 記憶はない。ないはずだったのに、不思議。私はこうしてあなたに呼ばれることを、ずっと待っていた。


 *

 *

 *


 メミ・へランドは俺の婚約者だった。とはいえ、会ったこともない。家同士が決めた相手だ。ただ、わざわざ戦地まで送られたへランド嬢の釣書も似顔絵も、申し分のないものだった。似顔絵などは三割増し、いや、別人かと思うほどに美化されるのが当たり前なのですべて信じることはできないが。絵師の腕がいいのか、画風が好みで、悪くはない。いや、むしろ好きだ。この似顔絵はとてもよく描けている。気がつけば戦地でも一人の時間ができるたびにへランド嬢の似顔絵を眺めてはほっとするようになっていた。

 そのうち、へランド嬢から手紙が届くようになった。緊張したような硬い文字で、天気の話。こちらを気遣う言葉。社交辞令。

 せいぜい遠くにいる婚約者の機嫌を損ねないようにと、申しつけられているような……いや、でも。

 たとえ義理でも、自分のことを案じてくれる人がいるというのはいいものだなと思う。


 彼女はどうやらとてもまじめな性質らしく、ご機嫌伺いの手紙は途切れることがなかった。同じ戦地に赴いている仲間たちに、からかわれるぐらいに。


「いいなあ、お前にはかわいい婚約者がいて」


 俺たちの婚約には愛などない。あるのは義理だ。


「ちゃんと返事書いてやれよ」


 返事――なんて。何を書けばいいのだろう。

 戦地での報告書ならいくらだって書けるのに。ついでに彼女に返事を書こうと便箋を前にすると、一文字も書けない。なんなら、宛名の、彼女の名前すら、書けないのだ。


「メミ様」


 頭の中で彼女の名前を唱えるだけで頭がのぼせる。こんな状態でまともな手紙など書けるわけがない。もう少し落ち着いてからにするべきだ。――そもそも。社交辞令で送った手紙に返事をもらっても、彼女も困るのではないだろうか。俺の今の暮らしの状況を、知ってどうする。不快に思うだけだろう。ここは戦地だ。美しいものなんてない。

 やはり何も書けない。


 でも、返事を送らなくても、彼女からの手紙は途切れることがなかった。俺はそれが届くことを、いつしかとても、楽しみにするようになっていた。俺は彼女の義理堅さに、甘え続けることにした。


 *

 *

 *


「ネゼ様が戻ってくる!」


 遠い地の戦が終わったという知らせに、私は浮足立った。これでようやく、愛しい婚約者に会えるのだ。

 家同士が決めた結婚だ。ネゼ様の釣書を見た私の両親が私に相談することなく決めてしまった結婚だけど。小さい時から結婚というのはそういうものだと思っていたから、特に意見するつもりもなかった。

 急遽決まった話ということで、彼の似顔絵ももらえなかった。どうせ似顔絵は嘘ばかりだから、なくてもいいだろうと両親は言った。私は少し残念に思ったけれど……いつか本人に会えるのだから、いいか、と思うことにした。

 ネゼ様に送った私の似顔絵は、街の人気絵師に依頼したらしい。どんな欠点も魅力的に描いてしまうから、きっと最高にすてきな私がネゼ様の元には届いているのだろう。

 彼と結婚したら、ふたりの絵を、あの絵師に描いてもらうのはどうだろう。私はそんなことを考えながら、彼に会いに向かう準備をする。


 服やなんかはメイドが一緒に荷造りしてくれたが、個人的すぎるものは自分でトランクに詰めることにした。

 この家に置いていくのははばかられるもの――つまりは私の黒歴史を。いや、黒というほどのものではないけれど、誰かに見られるのは恥ずかしいじゃないか。恋文の下書き、だなんて。娘の残していった荷物をわざわざ開いて確かめるようなことは、両親だってしないだろうけど。何かの拍子にうっかり誰かに見られてしまったりしたら……恥ずかしすぎる。やはりこの家に残していきたくはない。

 そもそも、これまでネゼ様への手紙の下書きを保存していたのは、彼に送った手紙の内容を、忘れないようにしたかったからだ。

 いつも同じ文面を送るのは失礼だし。もしかしたらこれまで返事がないのは、彼にとっては聞いてほしくない内容だったのかもしれないし。今後一緒に暮らすようになったら、何かの役に立つかもしれない。

 いや、もしかしたら。

 返事が来ないのは、そもそも。私の手紙が戦地に届いてないのかもしれない。

 もしかしたら。

 届いていても、ネゼ様には読んでもらえていないのかもしれない。

 いろんな可能性を考えていたら、少し、涙腺が緩む。

 私はぐっと下唇を噛んで、涙にこぼれないように命じた。

 いいのだ。返事なんてなくても。そもそも、読んでもらえていなくても。私はネゼ様の無事を祈りたかった。それを書かずにはいられなかった。

 ネゼ様は戻ってくる。私の一番の願いは叶うのだ。だからそれでいい。


 しかしこの自分にとって恥ずかしいものは、自分の手元に置いておきたいという考えが――まさかあんな事件を引き起こすだなんて。


 *


 それは婚約者の棲み処を目指して馬車を進めた、その途中。休憩を取るために寄った村でのことだった。

 大きな荷物は馬車の荷台に積んでもらったが、私の恥ずかしいもの、心の柔らかい部分を閉じ込めたトランクは、旅の間も私自身が肌身離さず持ち歩いていた。

 それが、良からぬことを考える人の興味を引くことになってしまった。「あんなに大事にするのだから、貴重なものが入っているに違いない」……と。

 ほんの一瞬の隙に、私のトランクはその村付近をうろついていた盗人の端くれに、ひったくられてしまったのだった。

 私は慌てた。あとから考えれば、あんなもの。私の恥とはいえ甘ったるい恋の妄想の文書など。盗人の手に渡ったところで何の価値もない。火の焚き付けにされるぐらいか。それならそれで良いのだ。

 冷静に考えればそうなのだ。だけどその時の私は冷静にはなれなかったのだ。

 私はトランクをひったくった盗人に、こともあろうか、飛びついて、取り返そうとした。

 盗人は驚くと同時に、私の必死の形相に、本当にこのトランクの中には相当なお宝が入っているのだと余計に誤解したに違いない。絶対に離すものかという強い意志がうかがえた。

 しかし騒ぎを聞きつけて、すぐに周囲には人だかりができた。焦った盗人は、私を振り払うように、トランクで殴りつけてきた。

 小ぶりとはいえ、革製の中にみっちり書類の詰まったトランクでけっこうな勢いで殴打され、私はその場に転倒する。ぐらりと世界が揺れて、空が見えた。青かった。青い空にひらひらと、白いものが……ああ、私を殴ったせいで開いてしまったトランクから舞い散る便箋たちが、あたりに舞うのが見えた。

 私はそこで、意識を失った。


 *

 *

 *


 ……少しずつ、思い出してきた。

 恥ずかしすぎて、記憶をなくしたいと思うのには十分な理由だった。私にとっては。


 いろいろと思い出して震える私に、ネゼはその後どうなったかを教えてくれた。


「君を診察した医師に、君が記憶を失っていると聞かされて。君の到着を、この屋敷でのうのうと待っていた自分自身を責めました。こんなことになるなら俺自身が君を迎えに行くべきだったと。危険な目に合わせてすみません」


 ネゼに頭を下げられて、私はとんでもないですと恐縮するばかり。

 道中の村で保護された私は、彼の手配で目的地だったこの屋敷まで安全に運ばれ、経過観察されることになったのだった。


「君のご両親にもきちんと状況は伝えたから心配しなくて大丈夫です。もし記憶が戻らないままでも、お嬢さんのことは俺が一生責任をもって幸せにしますと伝えたら、安心してくれていました」


 両親にとっては私の記憶があろうとなかろうと、決められた相手と添い遂げてくれたらそれでいいのだ。というか、そんなことをあっさりと言ってしまえるぐらい、この人は私のことが好きなのかと思うと、やたらとドキドキしていけない。


「君を襲った盗人はすぐに捕まえられました。君が倒れて動かなくなったから、殺したと誤解して、かなり動転していたそうで……出来心だったとか、もう二度とこんなことはしないと、いろんなものに祈って誓って反省している、と。……君が本当に命を失ったりしていたら、どんなに祈ったところで許しはしませんが……、君が元気になったなら。許してやっても?」


「もちろんです。更生してくれるなら、それでいいと思います」


 あのときあたりに散らばった私の手紙たちは、皆の協力で一枚残らず回収され、しっかりとトランクに戻された。そして私の元に帰ってきた。

 私の記憶より、一足先に。


 この屋敷に来て、ずっと私の世話をしてくれたメイドは、中身を見てないと言ったけど。あれは嘘かもしれない。もちろん、やさしい嘘だ。そう伝えるように、主人に……ネゼに、命じられていたのだろう。


「あなたはこのトランクの中を全部見たのですか?」


 おそるおそる尋ねてみたら、ネゼは少し目をそらして、「少しだけ……」と答えた。その頬が少し赤くて、私も同じように、きっと赤い。


「すべては見られなかった。でも、できることなら、俺の持っている手紙と君の持っている手紙と。比べて答え合わせをしたいと思っています」


 できることなら、と遠慮がちに言ってはいるが、ぜひやりたい、と言われているも同じ気分。では、だったら、と。私は彼に条件を出す。


「ネゼ様が返事をくださるのなら」


 私の手紙は自己満足の塊で、自分のために書いていたようなもの。ひたすらに彼の無事を祈ってた。彼が元気ならそれでよかった。読んでくれなくてもいい。届かなくてもいい。返事などいらない……と、覚悟していたのも、本心だけど。

 大事な人からどんな返事がもらえるのだろうと、期待して、ときめいて、わくわくしていたのもまた、本心だ。


「もちろん」


 そう言って、彼はポケットから、また別の封筒を取り出す。それは私が、本当に知らない、見たことのない封筒だった。


「君の名前を書くだけで、戦いに赴く時よりも高ぶり、緊張して。ようやく一通書けて……でも出せなかった手紙です。受け取ってくれますか?」


 私は彼の差し出した手紙を、両手で恭しく受け取る。

 封筒にはメミ様、と書かれている。すてきな文字だ。

 私の名前!


「今読んでいいですか?」


 きらきらとした目を彼に向けたら、ちょっと困った顔をして、だけど、笑ってくれた。


「止めても読むんでしょう?」


「はい!」


 私はその場で便箋を開く。


 ___


 メミ様


 こちらもずっと雨空です。花は咲かない場所です。灰色の空に灰色の森。

 自分も灰色なのでぴったりですね。気持ちも灰色になりそうだ。

 でも、あなたからの手紙に元気をもらいました。心の色が見えるなら、俺は虹色、雨上がりの空の虹。

 故郷に戻ったらあなたと一緒に、花も、空も眺めて。

 ゆっくりと過ごしたい。それまではお待たせするかもしれませんが、どうか、あなたもお元気で。

 愛しています。


 ネゼ・ヴィゾノンより


 ___


「音読はやめてください」


 目を潤ませた私の前で、彼が両手で顔を覆っている。

 私はそっと、その手に触れる。

 私はこの人のことをもっと知りたい。もっと見たい。似顔絵じゃなくて本当のあなた。会えてよかった、無事で嬉しい。

 そして私のことを愛していると――。


 せっかくもらった初めての手紙だから、ゆっくりじっくり返事をしたためたいと思う。……思うけど。

 でも、もう、それより先に、私は口に出していた。


「私も愛しています、ネゼ様」


 また私はきっとこの人に手紙を書くのだろう。何度書いても愛おしい、あなたの名前を綴るのだ。

 愛しています、といつも一緒に。


(この手紙は誰のもの~記憶喪失令嬢と見知らぬ婚約者~/終)

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