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漆黒の海原を、船団がいく。
月も星もない闇夜にもかかわらず、帆いっぱいに風を受けて、真っ直ぐに南下していく船は、遠洋の航海にも耐えられる大型の交易船であり、軍船だ。舳先から帆や舵に向けて時折松明の明かりが振られ、船は更に巧みに風を掴んで潮に乗り、通常の倍近い早さで南下を続けた。そして、空が白みはじめる頃、水平線上に黒い粒のような島影を見出す。
「……佐渡か。」
「出航てくる大和の軍船を十分な余裕で待ち伏せることができそうですな。」
夜通し舳先に立ち風を見続けた青年に、船団の長はねぎらいの言葉をかけた。青年の叔父にあたる男(名は東里という)は、十三奏の入間柵(城)を預かり水軍を組織している。
「お疲れではありませんかな? 無理をさせてしまって申し訳ない。戦が始まるまで船室にてお休み下され。」
「気遣いは無用です。無理やりくっついて来たんですから、これ位はさせてもらわねば。」
「いやいや、同行していただいて感謝しておりますぞ。通常ならば、早くとも佐渡を見るのは夕刻。風斗どのの、風見はさすがに違いますな。」
「操船の腕があってのことですよ。」
もう一度、目を細めるようにして佐渡の島影を見遣った風斗は、お言葉に甘えて、と船室の方へと歩き去る。その背を見送った男に、合図の松明の燃えさしを片付けていた部下か問いかけた。
「あの方は水の力もお持ちで?」
青年は潮目や流れも的確に読んだ。
「ああ。水見の冠もお持ちだな。」
驚嘆と畏怖に、水夫は目を丸くする。
生まれて直ぐに『聖痕』で告げられる「風」「水」に通じる特殊な力を宿す者は、その『力』の強さで(『聖痕』の文様で判じられる)斗、来、見、琉……四つの称号「冠」を与えられる。日高見を統べる闇衛の血族に現れてきた、大地の力。上にいくほど稀になり、斗は最高位の神格とみなされ、またそれを証だてるように同じ属性の斗が、同時代にふたり重なることはなかった。
「……真の御館がやがて誕生するということだな。」
御館は日高見を司る闇衛の総領が《冠》。当主が継ぐ名は、大地と風と水----総て束ねる,盾であり太刀である者の意だ。しかし実際に二つの力を有して、闇衛の《御館》であった最後はいまや昔語り。大和との戦の果て、謀略によって殺された瑠依まで遡らねばならぬ。
先代「御館」はかろうじて水見であったが――その子どもたち、つまり現「御館」も東里も「琉」ですらなかったし、東里の早くになくした子供達も同様だった。
《冠》をもたぬものが珍しかった瑠依の頃から、二百年――大和に屈した時に重なるこの傾向を、大地の怒りの凶兆といいたてる輩もいるが、東里も現《御館》も《冠》を被らずとも、日高見を護ってきた自負がある。風と水に囲まれ、大地を踏みしめて生きている。
大地の《冠》は消えゆこうとしているのではなく、荒ぶり吐き出される「咆哮」から、形を変えて、静かな当たり前の「呼吸」になって、我らに降り注ぎつつあるのかも知れぬ……と東里はそんなことを考えている。
「闇衛」の血が薄まりつつあるのが理由だと、凶兆を喚く長老たちが現御館に勧めた度を越した血族婚は、確かに《冠》の子を顕わしたが、しかし近い血は「器」を破壊した。水斗であった水生の悲劇は、古き時代の終焉を告げていると思った。《冠》にこだわるのは、もはや愚だと……《冠》を被らずとも、ひとは、経験をもって風と水を読み、火を御して太刀を打ち出す技も掴める……。血は薄まるまま……それがひたかみのこれからの意志だと。現御館もそれは感じていたのだろう。彼が次に娶ったのは、一族ではなく他の部の娘だったが、そこに《風斗》と水来が相次いで誕生したのは、皮肉か、それともさだめか。
そう……薄まり果てた血の道理からいけば、生まれるはずのない『冠』。それを生み出したのは、紛れもなくひたかみの意志だ。荒ぶる「力」の代行者を、いま、あらためて欲したそれは――「凶兆」か「吉兆」か?
「そのような御方を、お連れしてよろしかったのですか?」
恐る恐る言う部下の声に、東里は物思いから浮上する。
「お飾り物じゃないんだ。」
苦笑した。風斗は崇め奉る御神体ではない。
「風織姫の加護を受けた風斗がともに行くんだ。この戦、勝つぞ。」
顔を輝かせて頷く家臣に頷き返して、言った自身も高揚していることに気づく。
『冠』などなくても良いと思いながら、『冠』の存在の輝きが身に染みる。
『冠』の者が――その存在自体が放つ荒ぶる「咆哮」が、こうして日高見人の魂を奮うのだ。
「ひたかみ」が灯した、闇を照らし未来を切開こうという意志を導く――それが、『冠』の者のさだめなのだ。
――初陣だった。
大和の船団の船足を封じて、自船団を横付けする時に、風を動かしたが、その後に続いた剣戟は、まるで夢であったようにしか思い出せない。
頬にかかった朱の、妙な熱と、獣の唸りにも似た自分の喉から溢れた言葉にならぬ声。血糊に塗れて切れ味の鈍った太刀に舌打ちして……。
もはや見事な戦士であられる、と東里から言われたが、血に酔った始末だ。血に酔わされ我も忘れて、ただ血吹雪を駆け抜けた――それでは「指令」は務まらぬ。狂戦士にしかなれぬのであれば、戦場に流れた血の量を冷静に計れるようでなければ、闇衛の総領を名乗る資格は無い。
こみあげた苦さを溜息に変えた。
目を射るように鮮やかな夕焼の朱が水平線のあたりに名残る。壊滅した大和の軍船も、佐渡もとうに水平線の向こうだった。帰路は別段急ぐ理由はなかったから、出張る必要もない。左舷のてすりにもたれて、帆が風を孕む様をぼんやりと見上げていた。現在の交易は大陸だけだが、その大陸沿岸を南下して、さらに遠い異国との交易の計画をたてているだけのことはある見事な操船だ。長い経験が掴ませた「風」と「水」の力だ。
「……精進せねばなあ。」
現在の自分には、持って生まれた力以外にどれだけの力を誇れるだろうか。武人として、統治者として……どれだけのことを覚えていけるのか。これからの自分はそれが試されていくのだろう。
「なにやら生気に欠けておられますな。風斗どの。」
横合いから声をかけられて、ゆっくり首を巡らした。
「守衡どの、か」
乱れた髪に櫛を遠し、髯をあたって、汚れた衣服を改めた男は、救出されたときとは見違えるような男ぶりに戻っていた。
潮と陽に褐色に焼けた肌、倣岸と紙一重の自信と胆力に満ちたこの男が、今回の「騒ぎ」の元凶だった。
佐渡国司の館に誘い出され、女と酒に酔っているところを捕縛されたのは、軽率としかいいようがないが、船団を組織したのは、この男だというからその行動力は認める。
船倉から解放した時、垢と埃にまみれ、ぼろ布のような衣服を纏わされていても、失われなかった快活さと、なによりしぶとい瞳の光は魅力的だと思った。
貴原守衡。奥羽の山脈を挟み、闇衛が日高見の東を本拠とするのに対し、西(出羽)に勢力を張る、日高見第二の氏族・貴原一族に連なる男だ。
ことの起こりは、貴原の大陸との貿易を大和がとがめだてたことに始まる。
ひたかみのクニ――つまり闇衛が、大陸に交易船をだしているのは、大和も認めることだが、その臣下が独自で船団を出したことは密貿易だというのである。貴原が独自の船団を有したことは、闇衛にも問われるまで報告もなかったから、闇衛にしても不快な話だが、大和がとやかく言う幕ではない。ひたかみの内でつけるべき話に容喙して、大和は船団長である貴原守衡を捕え牢に繋ぎ、船団を拘束し、ひたかみの内政を明らかに侵した。
頭と半数近くの船を大和に押えられた貴原に代わり、闇衛の船団は、佐渡から越の港へ守衡を移送しようとしていた大和の船を急襲、奪還した。これは大和の横暴へのひたかみの矜持の表明であったが、解決ではない。ひたかみに帰還する彼らを更なる戦が待っているかも知れなかった。
「風斗どのがみせて下さった覚悟、わたしは決して忘れませぬ。」
感じ入った様子で目を伏せたさまは、しおらしい----が。
「なら覚えておいてくれ。」
たぶん、思わぬ返答だったのだろう。は?と顔を上げた男の、値踏みするような目こそ好ましい。
「俺は日高見を侮るようなことを許す気はない。」
そのために力を貸せ、と誘う。
独立不羈。それを掲げつつも、大和の力に押され、頭を垂れざるを得ない現状だ。
果たされれば、どんなにそれは素晴しいことか。だが、現在のとりあえずの安定を投棄てた挙句、獣の顎に噛み砕かれる危険性を孕むものでもある。・・・だとしても、
「風は吹いてこそ風だ。」
と、笑った若い顔に、守衡はおもしろそうに目を細めた。
「風は渡らねば澱み濁り、かつて自分が風であったことも忘れるだろう。」
「なるほど……あなたの吹かせる風はよきものを運ぶとおっしゃる。しかし、その自信はいずこから来るのです? 風斗であられるから、ですか?」
風斗のご意見に対して、『神』に生まれた、それだけの自信ならたくさんだ、とばかりにこの男は辛辣に唇を歪めてくれる。
「お前の方が、俺が聞くしかない大和のことを直接その目で見てきているんじゃないか?」
はっと息を飲んだ瞳を攫うように、真っ直ぐに視線が出逢う。
「俺は、いま希求うときだと考える。風か起きるべきときだと。この時に風斗として日高見に生れたことを俺は感謝する。」
『夢』をみる―――その瞳の奥に。魂が、奮われる。そうして希求いが、守衡の魂の奥からこぼれだす。
昨日をなぞる今日を重ねるのが苦しかった。それが大切だと分かっていても。当主たる祖父が自分に甘いのをいいことに、貴原を発展させるための交易と言い繕ってはみても――そう……ただ風が欲しかった。波の穏やかな海を渡るより、命を実感する嵐が好ましいと思う自分の性を・・・彼は強く奮う。
「おれに・・・あなたの風に乗れ、と?」
「お前ならうまく乗れるだろう?」
悪戯っぽく笑った瞳の奥は、冷静に守衡を見据えている。我知らず背筋が伸びた。それでも軽口をたたくのは、これも性だ。
「そうですかな? おれは重いやもしれませんぞ。貴原を放り出されるやも知れない身の上ですから。」
ただの部下として欲しいわけではあるまいに。貴原の、これが前提の興味の筈と判じる。
「おまじないをおしえてやろう。」
この会話の呼吸もなかなかに面白い。
「オレでもいえるヤツですか? 風斗どの。」
貴原の当主に取り成しの文でも書いてくれる気だろうか。----まあ、風斗からなら、うまく使えば十二分に役に・・・。
「空里でいい。」
予想どころか、思考を超えていた。
「・・・は?」
守衡がこぼれんばかりに目を瞠る。なんということだ、というなんともならない言葉が、脳裏でぐるぐる渦を巻く。
『冠』の者から――それも『神』たる斗が――親兄弟であっても許されねば呼べぬ、魂にも等しい真名を渡される?
「……数刻前にはじめて顔を合わせた――たかが四半刻半(十五分)も話していないおれを預名方になさると?」
長く考えるのが正しいということもあるまいと、あっさりした口調で答えた風斗に、よくあることなのか、との守衡の苦笑は瞬時に凍りつく。
「一人目が早……風織姫で、お前で二人目になるか。」
試すように、挑発するように、瞳をきらめかす。
「……返上するか? 少し考えてもいいぞ?」
「――いえ、」
守衡は睨み返すようにして首を振った。
闇衛はひたかみの総主。守衡の貴原を含む、各地の部(領主)の総意を受け、それを率いる。重んじられるべきだが、無条件の存在ではないとはいうものの、領域の広さもさることながら、何よりひたかみの精神的支柱たる『冠』の者を擁する闇衛の勢力は他の部の追随を許すものではない。
正妻腹の長子という生まれと、現当主である祖父から孫の中で最も気に入られ、嫡孫扱いをされてきたが、今回の失態は自分の立場をかなり危うくしただろう。決して貴原の一族総てに支持されていたわけでもなし、追い落としの攻勢が始まっていることは想像に堅くなかった。だから、その中で、風斗の預名方であることがどれだけ強力な後ろ盾になるか、計れないほど純粋ではない――純粋でもないから。
「それほど無欲ではないので。」
偽悪的な言葉に対する相手も心得たように、にやりと笑う。
「考えると言ったら、取り上げるつもりだった。」
「なるほど、一応試練つきでしたか。」
表面は飄々と。けれど、現在までこれほどに己を昂ぶらせ、引き寄せるものがあったか。いや、確かに海原という未知に惹かれ、ここに在る――それはこの時を迎える為の必然であったような・・・錯覚だ、と勝手に高鳴る胸に言い聞かせる。
肩を揺らして笑った青年が、ふいに大きく目を見開く。その視線を追った守衡は、はっと息を呑んだ。紫から濃紺へと、色を濃くしていく空を見上げる、ほのかな夕日の残光に浮かび上がる繊細な横顔……。ふなべりに立つ、というよりそのあたりに浮いて、不思議な形の衣装を風に揺らせる半透明に透けたその少女が振り返った。
唇が、音もなく風斗の真名を刻んだ。一瞬の微笑みを残して、掻き消える。手を差し伸べる暇すらない、刹那の逢瀬。
新たな『絆』を祝ぐ御使のように。
さだめの輪が、からりと回る、そんな音を聞いたような気がした。
この直後に京に向かい、「断章」の冒頭に繋がります。