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今なら。
----あの体に、戻れる。
----空里のもとにも、飛んでいける。
決断するだけだ。
昏い川の流れを上流へ見遣る。飛んでいくのはすぐにできる。透けた身でも、誰も何も言わない。むしろ、風織姫らしさは増すし、空里がいれぱ意思疎通も困らない。もとに、戻るだけ、だ。
そうなると、あの体はどうなるのだろう。
魂が抜けた体。
自分と、彼女が取り替えている体。
景季は、所詮あなたの体ではないから放っておけば、と宣ったが、そんな適当な話ではない。
景季は、自分がここを離れたら、恐らくあの体を壊す。予感ではなく、確定だ。二度と風斗に与えぬために、景季は断行する。
彼女の体が危険に晒されて----自分の体と、彼女はどうなっているのだろうか。
交換。した、自分達は----きっと、合わせ鏡だ。
向こうで、自分も、たぶん同じように。
まるで、その思考が鍵だったというように。
目の前が切り替わった。
あたりが明るくなる。目の前には自分----いや早樹。透明なアクリル板のようなものを挟んで立っている。板越しに合わせた同じ形の手、温度は感じない。互いの顔は目に入っているが、見つめ合うことはない。そんな場合ではなく、互いの肩越しの光景に釘付けになった。
魂の抜けた、自分の体。床に座って、ソファの座面に半身を倒している。そこに、ゆっくり近づいていく背中。男だ。その右手の中に銃を見つけて、呼吸が引き攣れる。
何が起きているかも分からない。ただ、同じように、自分の体も危機的な状態にあるのは間違いない。
そう、まさしく合わせ鏡だ。
手を合わせたまま、今度は己の背後を振り返る。
彼女の体が眠る天幕へ歩いていく景季。
----ああ、間に合わない。
早樹と目が合った。
早桜と目が合った。
互いが互いの体に戻るという選択肢は勿論あるけれど、それは夢から完全に醒めるということで、もう二度と夢の中には降りれない、と直感している。
いまが、ただの夢になるのだ。
それが正しい生き方、であるだろう。そして恐らく、そうした方が丸く収まる。
目を覚ましたのが、彼女なら、たぶん景季は殺さない。殺す理由がなくなるから。彼女は風斗に与えたくない風織姫ではないから。
もう一度、互いの肩のあちらに視線を向ける。
二重写しに、そこではない風景が視えた。
「…父者が来ることはないと思うんですけれど、」
柳里が何度目かの苦言を述べた。馬は結構な勢いで疾走しているが、そこは騎馬の民である。揺れの合間に、きちんと発声を互いに届ける術を持っている。
大和に向かうことになる風斗たちより、行き先がひかたみ内である彼らの準備は軽装で、結果、かなり先行しての出発となった。----ただ、御館が付いてきたことだけが、予定外だ。
「そう、邪険にするな?」
「いや、だって・・ふらっと来て、そのままうちの手下の馬奪って付いてくるとか。鷹里兄者が頭抱えてますよ? 」
出発も行動も速さを旨としているから、二十に足らない騎馬だ。あちらも少数だろうと予測し、迎えと合流する前に追いつくことが前提だ。
「しかも父者、平服だし。今すぐ戻っていただきたいんですけど!?」
「おや、護衛もなく、御館に独りで夜道を帰れと?」
「ちゃんと、半分裂きますよ! 」
「それでは、お前が危ないだろう?」
「どの口で言います!?」
はっはっはっ、と兄弟の父は屈託ない笑い声を立てた。
「つまり、わしを連れて行った方が効率がいい、ということではないか。」
「後ろにいて下さるんでしょうね?」
「さて。」
「----正直すぎていやなんですけど!」
柳里は鷹里と有夏の下で水来の上。黒沢尻の柵を任されている。実質的な内政者として教育された鷹里と、冠の者であった水来に挟まれて、むしろ、のびのびと育った・・とは誰の評だったか。
「錠屋にこんな真似をさせたのは、わしの決断ゆえ、御館が、頭を下げ許しを乞わねばならぬことよ。」
「政略結婚は闇衛の嫡子なら当たり前で、父者なんて、二回ともそうでしょう? 」
そのせいなのか、ずけずけとした物言いをする。
「弌夏姉者の母君より、我らの母者の方が闇衛にとって必要になったから----同じですよ。」
御館は頷いてみせたが、心はここにあらず、という具合に見えた。
先を走っていた郎党が夜鳥のように、ビィと口笛を鳴らした。どうやら、「獲物」が見えたらしい。
「三騎です!」
「そのまま追い抜いて取り囲め。」
行く手塞がれた「逃亡者」は馬を止めるよりなく、柳里は身体を固くしている幼い甥っ子を腕に抱き取った。これで任務は終了である。帰館しましょう、と父を見遣った柳里は、夜の向こうから響いてくる複数の馬蹄の音に、面倒くさそうに溜息を落とした。
「どうしますか?」
「幼子乗せて全力疾走はできないからなあ。奴らが、本気で闇衛とことを構えるのなら追っかけてきて、今の逆型になるなあ。----まあ、」
つい、と手綱を動かして、馬を前に進めた父に、
「御館は錠屋との話を御所望だ。」
腹を括ることにした。
柳里と御館の姿は掻き消えた。
知らなかった、いや見ようとしていなかった「現実」の一端だ。「婚礼が始まる」と、有夏は確かに言ったのだ。
しかし、自分が知らない数年、空里は厨川で独り籠っていたと言われ、「婚礼」の「後」の話はまったく見事に覆い隠された。風織姫に愛想をつかされて、消え失せられる(それは風斗を喪うのと同義だ)のを、誰もが恐れていたのだろう。
有夏の館に突然やってきた----その後、建物崩壊の事故現場で、救出された子どもを抱き締めていた、女性。そして、その子ども。
----なるほど。
童話の世界、ではないから。
胸内のざわつきを、そんな言葉で納得させようとしたけれど。
ざらついた現実を、この生臭さを飲み込めるのだろうかと、冷えた何かがすーっと胸から腹へと落ちて来た。
彼女は。
もう一人の自分が無性に気になった。
彼女は何を見たのだろう。合った目がぱちりと瞬いて、すーっと涙が頬を伝うのを見ながら、己が頬に感触を覚えた。
会う、はずのない人だった。
交わせるはずのない、想いだった。
「いい?」
瞳の奥を覗くようにして、同じ声が同じ言葉を同じ響きで、言った。
微笑んだような気もする。
アクリル板に細かな罅が走り白濁した。互いの姿は見えなくなり、バリンと割れて、霰のような細かな粒が降り注ぎ、天と地に向かって渦を巻いた。
行きたい----生きたい方へ。
生くべき場所へ。
吸い込まれて。
醒めない夢が、いま、覚める。
タイトル回収、です。




