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早桜は呼吸を整えようとして、脈絡なく掠めた言葉が口をついた。たぶん、緊張のせいだ。
「私たち、息をしているのかな?」
顔の前に手をかざす。----よく分からないけれど。
「息、ですか?」
景季はきょとんとしている。
「え、だって、肉体は呼吸が必要だけれど、この透けた私たちに生理現象は生じているのかしら。」
つい、考え始めてしまった。
「つまり、魂なら宇宙空間でも無酸素でいられるということ?」
「…す、なんです? む、さん、・・?」
「これ、実は皆ができたりするわけ? 私とあなたと、二人成立しているけれど、条件は何? 」
「----風織姫?」
何となく白い眼に気づいて、は、と周囲を見渡した。
ここは夢の中だ。
気まずげな時の咳払いをして、早桜は背筋を伸ばす。
「つまり。その方の体でも、ひたかみに戻ろうとすれば戻れたのに、あなたは大和のために働いているから、戻りたくない理由があるのかと思いました。」
「----まさか、誰かにこの身の上について尋ねられる日がくるとは、それも、まさかアラハバキの御使いたる風織姫に。」
景季が面白そうに笑みをこぼした。
「確かに戻りたくなかった。・・・違いますね、戻ろうと考えもしなかった、が正しい。」
不思議なものだ、と白い細い腕に目を落として、呟く。
「見てください。景季の腕は、弓を能くするものらしく、逞しく日に焼けているというのに、それを形成ったのは、この自分なのに。わたしは、わたしの覚えているままとは、どういうことなのでしょう?」
問いかけてはいるが、答えは理解っているという、目だ。
「----わたしには、このままで居れとアラハバキは御告になられているのでしょうかね。アラハバキの愛し子はあの子のみ。あの子は崇められ、わたしは貶められ続ける。わたしを拒む土地なのです、ひたかみは。」
…この目を、知っている。と、思う。思い出せないもどかしさに、早桜は眉間に皺を立てる。
記憶の、浅くて、深いところ、だ。一瞬の、井戸の底に投げた小石のような記憶。
「だから、あなたが現れた時あれがただ一つ、決して手にできないものになると、わたしは歓喜したのですよ。その後、あなたを喪って萎れているのも気味が良かった。なのに、どうして、あれだけは特別に手を差し伸べられるのでしょうか!? いつも、いつも!亅
歌うような言い回しに、くすくす、と笑いが散りばめられる。はっきり言えば、狂気的だ。
「わたしとあれに、何の差があったのでしょう? こう、生まれたわたしと力を制御できないあれと、役立たずには変わらなかったのに。ともに闇衛とともに滅ぶはずでしたよ? 」
嫌い、では覆えない深い闇。憎い? けれど、あれ、と風斗を語る声は柔らかいから、混乱する。
「そう、あなたさえ与えられなければ。とうに。あなたを祝福のように、皆もてはやすけれど、ご自身はどうだと思います? 風斗の、ひたかみの、闇衛の、あなたは吉祥だと、そう自覚されていますか?」
「----皆、とても温かく迎えてくれるわ。」
この夢の中(いや、いまはここが現実だと判ってはいるが)だれもが優しいから、早桜はそう答えるしかなく、それがお気に召さない冷笑が返ってくる。
「あなたが現れて風斗は力を制御するようになった。ひたかみの民に認められ、次期御館として期待され、----ま《・》ったき冠の者、アラハバキの代行者たる彼にだれが逆らえると思います? 」
「く、・・風斗はいつもひたかみために在ろうとしているわ。」
独裁者のように言われて、むっと言い返した。
「勿論、あれはひたかみを想うでしょう。風斗ですから。ですが、あれが風斗でなければ、もっとひたかみの時は穏やかだったとは思いませんか?」
「・・・?」
穏やかであるように、空里は努めているのに。文句を言いたい彼を睨む。
「姫は、瑠依を、闇衛瑠依を御存知ですか?」
「大和に立ち向かったご先祖、」
脳裡に、夜空を北へと駆けていった星々の映像が甦る。彼らを率いて、大和と戦い敗れ、処刑された。
「彼は冠の者でした。冠の者だから戦えた。----冠の者がいたから戦おうと思った。」
「---ずいぶんな三段論法だと思うけれど、」
「そうでしょうか? その最期に五百人もの同胞を巻き込んだことすらも、冠の者のために在れたという美談として語られる。」
あの星は、と彼はうっとりと呟いた。
「あの夜の、天翔ける星々はわたしも見上げました。ひかたみに戻ってきた魂の、風と水に抱かれるように大地に戻っていった輝きのなんと美しかったことか。風斗は素晴らしいことを成し遂げました。けれど、冠の者さえいなければ、彼らはそんな目に合わずに済んだのではありませんか?」
彼は持論を、熱量を上げて語り続ける。いかにも不健康そうな白い頬に赤みが差す。透けた、質量のない身なのにどういった仕組みなのだろう、と我が身は置いて訝しがる。
「五百もの眷属が還らず、アラハバキもお分かりになったのでしょう。瑠衣亡き後、冠の者は数を減らし、それに伴って大和との諍いも減っていった。ところが、風斗の覚醒、」
そう覚醒です、と景季は我が言葉ながら得心だとばかりに繰り返して呟いた。
「覚醒によって、二つのクニの関係は一気に不安定なものとなった。風斗がいなければ、先の国司と真っ向からぶつかる選択肢があったかどうか。」
「・・・風斗は勝った。」
覚えている。雪の山の中、戦装束の空里と行き会った。
「ええ。そして、更なる戦を招いた。前国司は、蓄財したいだけの貴族だった。風斗が立つと言うから、軍は起こされた。風斗なしであれば、御館はそこまでの決断をしなかったでしょう。前国司を気持ちよく京に戻していれば、源頼義を呼び込むことにはならなかった。朝廷は、彼の武力を誇ると同時に疎んでもいるのです。彼に機会を与えるような地に赴任させたくはなかった。闇衛の反乱も、将門の乱を思えば小さなものですが、放置も恐ろしい。そこで、頼義を赴任させ、しかし恩赦を出すことで、功を与えず抑止力として駐留させる、という苦肉の策が取られたようですよ。」
「----あなたは、「ば」ばかり。風斗が風斗じゃないなんて、あり得ないのに!」
「ええ、取り返しはもうつかない。頼義はこのまま陸奥を去る気など、まったく持っていません。彼ももうなかなかの年齢です。次の次の除目を待てる余裕はない。坂上田村麻呂のように名を刻み、一族の地位を上げる----いわば、誉の錦で死装束を織り上げたい。その一心です。」
「迷惑ね。」
「華々しいではありませんか。」
また、理解できない台詞が返ってきた。
「萎れて終わった筈の闇衛が、この瀬戸際に風斗を得た理由をわたしはずっと考えていたのです。」
早桜を見ているようで見ていない、宙に視線を据えて、浮かされたように話す姿に、再び記憶が揺れる。
白い髪を振り乱して、朱い瞳を昏く光らせて、ひとり蹲っていた若者。ひたかみの昼を生きられない子どもだったと----兄が死んだのだと・・・。
「ずっと先の世まで忘れられることがなく、闇衛が名を刻むために、華々しい輝きを放つ最後の花として咲くことこそ、」
「! ・・・ふざけるな!!」
もう、耐えられるわけがなかった。
阿弖流為のくだりについては、「十六夜断章」をお読みください。




