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一人、濡れ縁に座っていた。
膝の上には縫いかけの着物。仕上げる予定もない、渡す予定はない----想いを和らげる、手すさびだ。
続きはどうしようか、と目を落としたが、どうにも気分は乗らず、そっと膝から下ろした。立ち上がって、庭の手入れでもしようか、と思った時、頬に風が触れ、視線を誘った。
来客を告げる、風だ。
前触れもなく渦を巻いた風の中から踏み出してきたのは、とても懐かしいひとだった。
「御無沙汰しておりました。」
と、自分の前に膝を折り、畏まった礼を取る。目じりの皺も深くなり、髪も白が多くなった、老年に入った男を、自分の座っていた濡れ縁に誘った。
「お健やかにお過ごしですか?」
運ばれてきたのは「茶」。全くもって一般的ではないのだが、これだけは我儘を言って運んでもらっている。
「ええ、穏やかに過ごさせてもらっています。」
男と会うのは、----ここに越してきた直後、彼女たちを迎えに来た時以来だ。
「そちらは----皆、元気かしら?」
この一言に、どれほどの重さがあるか、勇気がいったか伝わるだろうか。
「ええ。妻も、子どもらも、恙なく。」
男は静かに言い、茶で口を湿らせてから、
「わたしは、お暇に参りました。胃に腫物があるようで、恐らくこの夏は越えられぬと医者は申しておりました。」
自分のこととは思えぬ、さらりとした口調だ。
「----じき、ひたかみは荒れるでしょう。」
痩せた身体、荒れた肌。目は強い光を放つ。
「ですが、お預け頂いた苗が、大樹へと育つのに必要なものです。どうか、こころ痛めず、もう少しお待ちください。」
何を言えばいいのか、分からない。
ありがとう、も。
よろしく、も。
相応ではない、のは分かった。
男が立ち上がる。
「お暇致します。」
「もう、ですか?」
「わたしなどが、長く居て良い場所ではないですから。ところで、マヨイガに招かれたものは一つ品物を持っていくのが、きまり。」
男は、濡れ縁に置かれたままだった着物を所望した。
伝説の土地ではないけれど、そんなようなものではある。
「縫いかけですけれど、」
「承知しています。」
言い出せない自分のために、マヨイガなんで持ち出して、持って行ってくれるのだ。
風がまた渦を巻く。その中に踏み込んでいった男を、風は抱きしめるようにして、連れ去った。
遠く、郭公が鳴いた。それは現なのか、夢なのか。
だれも、かれも、過ぎていく。
----想いが尽きるまで、ずっと、ここで・・待・・つ・・、
目が醒めた、と思った時には泣いていたことに気づいた。
難しい顔で、涙を拭ってくれていた空里と目が合う。
「----どこか痛いのか?」
夢、にはもうこの人はいなかった。脈絡なんて、ない。夢は片端から散っ、て、留めておくことは叶わない。
「ちが、う。なんか、とても----悲しい・・寂しかった、の。」
「---嫌な事でも言われたか?」
目はどうして鋭くなったのだろう。首を振った。ただ事ではない音に駆け付けて、何とかしたくて、何とか風を使った。
「みんな、大丈夫?」
「ああ、・・頑張ったな?」
と、柔らかな微笑に、身体に入っていた力が抜けた。気づかわし気な空里の顔の向こう、天井をぼんやり眺めて、郭公の鳴き声に、ふ、とまた力が入る。
「このまま休むか?」
「----ううん、起きる。具合、悪いわけじゃないし。」
半身を起こすのに手を貸してくれ、視界が広がると、二人きりではなかったことが分かった。床の足元の方に有夏が居た。ほっとしたように微笑んでいる。
「何か運ばせようか?」
陽もとっぷりと暮れていた。寝具のあたりには、灯りがささないように配慮してあったのだろう。壁側に寄せられていた燈台を、女官たちが手早く配置し直して、室内は一気に明るくなった。
「----うん、」
頷いた早桜に、有夏は、
「では、風斗兄者、一度退出を。」
「----は?」
「身支度が要りますでしょう?」
そんなことも分からないのか、と微笑みに圧が籠る。不服そうに眉を上げたが、言い返しはしなかった。
「皆で夕餉にしましょう。」
「え、みんなまだって・・ごめん、私が倒れてたから?」
外の闇に目をやる。時計がないから、感覚になるが、真夜中ではないが、そこそこ遅い刻限だ、と思う。
「事故の報告と後始末に時間がかかったからだ。」
「そう。遅い夕餉の前に、風斗兄者が様子を見に来たところだったの。いい塩梅で目覚めたわね。」
「---なんか、食い意地が張っている人みたい、」
「健康的でいいと思うわ。」
軽く膨れた早桜をいなすようにして、有夏は早く言いなさい、とばかりに兄を見た。
「挨拶がしたい、という者たちがいる。夕餉に同席させてもいいか?」
何だか不服そうだ。
「だれ?」
ちょっと警戒したのだが、
「守衡と、有夏の夫」
「----守衡どの、」
懐かしい。京の後も、ひたかみでの時間は何回もあったけれど、彼とは一度も会えていなかった。
「懐かしい、」
気持ちを言葉にした瞬間、さきの夢のかけらが胸の中で転がった。小さく、小さくなっていたそれだが、ただの悪い夢だと片付けるなと、警告しているように、チクリチクリと角が刺さるのだ。
けれど。
守衡とやってきた、有夏の夫が何ともばつが悪そうに顔を上げたときに。
正体に驚愕しているうちに。
昔話に花が咲いた、幸せな夕餉の会話の中で。
それは、転がり続けてはいたけれど、丸くなって、消えてしまって----忘れてしまった。




