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 丘の手前で馬を降りて、木立に覆われたなだらかな斜面をゆっくり登った。木漏れ日が、ふわふわと地面に踊っている。振り仰げば、鮮やかな緑が、日差しをはじいている。

 柔らかな下草を踏む感触はやはり目新しくて、その音に耳を澄ませるから言葉はなくなる。供に、と有夏が付けてくれた闇衛の六男坊も早桜のそうした雰囲気を察して、黙って隣を歩いてくれている。

 そういえば、彼は自分がこの『夢』が始まった時、幾つだったのだろうかとふと考えた。赤子がもしかするとまだ生まれていなかったかも知れない。

 太陽がめぐり月が昇るーー生きていく時間。()()()「夢」ではなく。

『これは『夢』だものッ』

 あの日ぶつけた自分の台詞が胸に痛い。

 木立が切れ、目の前が開けた。

 魂を吸い上げる透明な青。彼方に連なる山の稜線をなぞるような白い雲。中天にさしかかる陽の粒を受け止めて輝く大河の緩やかな流れ。流れの向こう岸に集落と田畑。

 自分にとっての『夢』が、彼には違った。そのことに思い至れなかった。けれど、()()()()思い至れただろう。

 あれは()()()()『夢』だった。

 風だけがお互いに触れられた『夢』で、近いと思っていた距離は、埋められぬほど遠かった。

 早桜はやわらかな緑と澄んだ水のにおいがする風を吸い込んだ。

 これはたしかに『現実』だ。同じときの流れに在る。

 ――ならば?

 いま自分のこの指が、この現実(せかい)に触れるのはなんのためだろう。


 風が逆巻く気配に丘を見上げていた水来はふ、と視線を手近に引き戻し、僅か一間ばかりの地点に竜巻(つむじ風)が生じているのにぎょっとし、その内部に影が浮かんだと思うとそこから人が踏み出してきたのに肝を潰した。

「・・・風斗兄者・・・・っ」

 このひとは衣川の館にいたのではなかったのか。先ほど局地的な雨を自分の上に降らせーー(水見と風斗の神力を併せ持つ彼ならではの方法だが)水に宿らせた『言葉』を降らせーー丘を反対側に下った所の沢へ自分を呼んで、水鏡でこちらの様子を告げるように求めた。水鏡で空間をつなぐ技は、水斗であるならともかく水来である自分には誰とでもいつでもというわけにはいかぬ。水鏡の向こうの映像や声をとらえることはできず、一方的に声は送ることができるが、正確に明確に送れるかは天候とか体調とか、そういったものにも左右される。当てにするものではないと我ながら思う代物なので、普段積極的に使うことはない。が、水見である彼が受信するならば、『道』を確実につなげて、正確な通信が可能になる。そういう訳で、水来は沢辺に走り『声』を送って、戻ってきたばかりである。

『ずっと空を見つめて動かないんだ。たまに風をくるくる纏わせて。もしかして帰還かえる道を探しているのかも。風斗兄者、急いで! じゃないと早桜は()()()()()()()知れません!』

 有夏(あね)から今朝の話を聞き、風斗の頑なさに呆れていたから、少し脅かしてやれとは考えたが、我ながら迫真の演技になっていたのかと、まさしく降って湧いた登場に目を白黒させながら思う。

 ()()()()()。その言葉が脳裡をかすめる。己も水『来』と呼ばれるが、風『斗』を名乗ることを許されたそのひとの神力の大きさには身が竦む。

 馬で半刻あまりかかる距離を、瞬く間に零とする――決して、()()にはかなえられない、否、考え及びもしない領域で、この()()は生きているのだと息を詰めた。

 酷い頭痛を堪えるように、風斗が顔を歪めたのに気付いた。

「だ、大丈夫ですか!?」

 慌てて、水来は兄の顔を覗き込む。風斗は引き攣った頬に浮かんだ脂汗を袖で拭う。

「すまん、水、あるか?」

 差し出した水筒の水を一気に流し込んで、風斗は大きく息を吐いた。

「水来、」

 しっかりした声に、弟はほっとして、敬愛する兄へ再び屈託ない笑みを浮かべた。

「すごいですねぇ、風斗兄者。風に乗って飛んでいらした・・・のですよね? はじめてみました。」

「なかなかしんどいからな。」

「風斗兄者でも?」

「みてのとおりだ。」

 乱れて半ば解けた髪をいったん解き、指で梳いてから、もう一度きつく結びなおす。

「四肢をそれぞれ掴まれて違う方向に捻られて、胴体部は重いものが数多伸し掛かってくるような塩梅だ。」

 とにかく普通体験しないようなひどいさまらしい、ということは分かった----から、はた、と水来は青ざめた。

「――申し訳ありませんッ、風斗兄者。」

「・・・なにが?」

「早く来て止めないと、行ってしまうかも知れないなんて・・・ちょっと大げさでした! だから無理を為さったのでしょう!?」

「確かに焦ったが、・・・一呼吸(いき)でも早く会いたかった。」

 台詞の後半、吸い寄せられるように視点は水来の後ろに移った。ひたむきな、想ってやまない女性を見つめるその顔を黙って見上げ、水来は振り返ることはせず、兄の傍らをすり抜けその場から立ち去った。



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