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本当の、さいごの瞬間、風斗の顔は覚えていない。
気がついたら、館の一室だった。開かれた蔀戸の向こう、小坪の木々の間に、対の屋の明かりが揺れている。肌を擦りぬけるのは透明な紫の、黄昏の空気。
ここはまだ夢の続きだ。
まだ目覚めていなかったことに、落胆と安堵がせめぎ合う。ひどく泣いたあとのような重苦しさがあって、頭が----いや、全身が重い。
どれくらい時間が跳んだかはまだ不明だが、どんな顔で風斗に会えばいいのか。
というか。今までも、言い争いや行き違いはあったけれど、次に瞳が会えば、雪解けのように笑って、その時を始められてけれど、今回は全くそんな気がしない。
どうしようか、と立ち尽くした早桜の前に、ひとつの影が走りこんだ。
なにか宴があるのだろう、着飾った有夏は、大きく手を広げて、早桜の行く手を遮った。
風斗がいなければ、互いの声は互いに届かない。少し怒ったように唇を結んだ娘を、早桜は戸惑って見返す。
ややのあと、ふと早桜の後ろに視線を止めた有夏が、彼女を手招いた。
まず灯台に燈を灯した有夏は、文机の上の文箱を開け、紙と筆を取り出す。早桜の使う文字とは違うのだが、門前の小僧習わぬ経を読むごとく、有夏やその弟たちの手習いを見るうちに覚えていた。
『このまま帰って。』
まず、書きつけられた言葉に、早桜はぎょっとして、いまは気の置けない友人となった娘を見つめた。
『あなたを見たら、風斗兄者の決意はまた鈍るでしょう。』
苦しそうに目を反らして、有夏は筆を進めた。
『風斗兄者は、妻を娶られる。間もなく婚儀が、広間で始まる。』
一度、二度、文字を辿った早桜の目は、ゆっくりと大きく見開かれていく。
『風斗兄者は、分かった、と言ってくれた。』
有夏は、そこでしばらくためらって、
『でも----もしも、早桜が降りて来てくれるのなら……』
瞬間、紙がばさりと風に巻き上がるのを慌てて抑えて、有夏は早桜を顧みる。
「できるはずないッ」
聞こえる筈がない。けれど叫ばずにはいられなかった。
みんなして、どうしてそんな望めないことを望むのだ!?
口の動きと表情を読んだのだろうか。有夏がゆっくりと息を吐き出した。
『ならば……風斗兄者を解放して、風斗兄者の傍らには現世をともに生くひとが要るの。あなたは風斗に必要なひとだった。ひたかみに風斗を与えてくれた。感謝しているし、大好きよ。私も鷹里も、きょうだい皆。早桜、あなたに会えて、あなたと過ごせて。叶うのならば、ずっとこの夢を見続けていたい。でも。私たちは、この世に生きていかねばならないから、夢から醒めたいの。』
唇を噛んで書き綴る。
『こうして、どんなに近くて見えていても、あなたと私たちの間には、この世の理では計ることのできぬ距離がある。でも、錯覚してしまうの! あなたとあんまり当たり前に話して笑えるから。』
過ごしてきた日々を愛おしむように目を細めた。
「あなたがあれば、風斗兄者はあなたを見つめることを止められない――あなたという夢を手放せない。この世の中で決して幸せになれない。いいえ、幸せになろうとはしない。』
だから。
彼女は眦を上げた。唇が動く。
――さようなら。
その最後、自分はいったいどんな顔をしたのだろう。
夢だというのに、向けられる言葉は所詮は自分が紡いだものにすぎないのに。
なににこんな傷ついているのか。
「しあわせに、」
そう、言うべきだったのか。言えれば、良かったのか。
――空里。
なにがこんなに苦しいのか。
――空里。
なぜこんなに哀しいのだろう。
――空里。
ただ、その名前だけが果てしの無い螺旋を描く。
この後が、「断章」の有夏の婿取りにつながります。




