誰かのワルツ
音楽とは己との戦いだ。自分に負けたらそれはもうただの雑音へと成り下がる。自分のために弾くものだ。誰かのために奏でる音楽はガラクタだ。私はバイオリンを弾いている。弦を弾く姿に惹かれた。私もきれいな音を奏でられるかもしれない。そう思って親にねだり、バイオリンを習わせてもらっている。現実は過酷で、同じバイオリンのクラスに通っていているが私の何倍もうまい人がたくさんいる。通う、私はバイオリンのコンサートをやりにいった。同じバイオリンの教室をしていた私より何歳も年下の子が私よりうまく弾いているのを見てしまった。私は曲の途中に間違えてしまったのに。そんなことで、私の心のなかにあったバイオリンへの情熱が冷めてしまった。
あぁ、私はこんなことで冷めてしまう気持ち悪い人間だったんだという失望と諦めで胸が一杯になった。
私は他人の評価も年も気にせず、バイオリンを愛している一人の少女なんだという幻想は消え去って、自分よりうまく弾ける年下がいただけで情熱が冷めてしまう妬ましい人間が私なのだと言う事実に耐えられなかった。私は自分に負けたのだ。深夜二時なのにも拘らず私は起きていた。ずっとぼーっとしてた。リビングで時計を見つめ、手の届く距離にはバイオリンが置かれている。
今日のコンサート、間違えてしまった。先生は褒めてくれて、そんなこと誰にでもあるよと励ましてくれたけれど、うまく弾けなかった。悔しさも悲しさもなく、情熱が冷めている心が心底憎かった。時計は回り続けるばかりで私は動く気力もなかったが、そろそろベッドへ向かったほうがいいのかもしれない。私は出したバイオリンをしまわずに、リビングの電気を消し、重い重い足を動かし、私は一歩一歩寝室へと向かった。リビングを出たその時、
ガタン
音がした。リビングからだ。そこには誰もいないはずだ。親は寝ているし、ペットは飼ってない。泥棒?強盗?親を呼んだほうが言いのか。いや、警察?いやいや、もしかしたらただ物が落ちただけかもしれない。きっとそうだ。
タン、タン、タタン。
音が続く。物が落ちたわけではなさそうだ。ケータイはリビングへおいてきちゃったし、電話もリビングへいかなければない。親を起こそうにも、親の寝室へ行くにはリビングを通るしかない。私はきっと今どうかしている。失望という毒が体中に巡っているのだろう。もうどうなってもいい、その思いで私はリビングへ歩き出した。驚くことにそこにいたのは強盗でも、泥棒でもなかった。暗いリビング、電気をつけなくても何が起きているか視えた。
二人の少年少女だった。
こちらを気にしている感じはしなかった。よく見ると体が青白く光っている。幽霊なのだろうか?互いを愛おしそうに見つめくるくると回っている。指先一つ一つが優雅で美しい。ふわりと少女の手が少女より少し大きい少年の手の上に乗り、互いをしっかりと掴んで重力を無視しているかのように踊っている。昔見たアニメ映画のような踊りは幼い頃に感じた乙女の憧れを呼び戻していた。
けれどその踊りは完璧でなかった。少年が少女の足を踏んでしまったり、少女が少し転けそうになったりと、まだまだ練習中、そんな感じがした。けれど間違いを起こすたび、二人は無邪気に笑って「またやっちゃったね。」と言わんばかりの笑顔を見せあっては、すぐ踊りに戻っていた。なんてきれいなのだろう。
しばらく見つめていると、二人の男女は私の方を見つめ始めた。長い茶色い髪をどこかの女王様のように上の方に団子にしているサファイアを目に宿す少女と、オールバックの緑目の人形みたいな少年。少女はシンプルだけれど優雅で、高貴な白いドレスを纏っており、頭にはそれを引き立てる髪飾りがついている。少年は映画でしか見たことがないタキシードを着ており、私より幼さそうなのに、それを感じさせない。
二人はこちらをじっと見つめたあと、私を誘うかのように手で招いていた。何をするかわからず、とりあえず二人の言った通り私は彼女らの下へ向かい。彼女たちはバイオリンへ指を指した。先程の踊り、たしかに音楽が足りなかった。でも私が覚えている曲なんか今日引いたワルツくらいしか…。ワルツ。そうかワルツを踊っているのか。
少女の口角が少し上がっている。期待の目だ。けれど私は弾く情熱が残っていなかった。私は小さく首を振った。そうすると、ふたりとも悲しそうな目でこちらを見ている。お願いと言わんばかりの眉の下がりように、私はなすすべもなく、バイオリンを手に取った。ごめんね、バイオリン。私は心のなかでバイオリンの謝罪をした。やっぱあの子のように上手く弾ける気はしないよ。君の魅力を最大限に活かせる気がしない。肩にバイオリンを乗せ、弓を弦に乗せる。息を吸い、演奏を始めた。
ビブラートがまだできない、音が拙い。弓は動かしているが、美しくない。
あまりにも理想とかけ離れている自分の姿に私は耳と目を塞ぎたくなった。
指を間違えた。あぁ、終わりだ。
私は弾くのをやめた。孤独のステージ、音を間違えたその瞬間を思い出す。手は冷たくなり、息は荒くなる。後ろの伴奏をしてくれていた先生が取り持ってくれなかったら、と思うと寒気がする。あんな経験二度としたくない。そう思ったのに今もまた間違えた。どうして指が動かない?練習が足りない?そりゃそうか。そりゃそうだ…。止まった音楽に少女と少年は首を傾げていた。そうだ、二人がいたんだ。忘れていた。
「…ごめんね、無理だよ。私。」日本語が伝わるかもわからないけれど私は彼女らに伝える。「君たちの伴奏にはなれないよ。」
そういうと、彼女たちはますます首を傾げた。日本語がわからないのか。そりゃ仕方ないか。そう思い、私がバイオリンを下ろそうとすると、少女と少年は目を大きく開き、やめないでと言わんばかりの焦りを見せた。私が弾かなくても君たちは十分過ぎるくらい美しい踊りを踊れるのに。なぜ私に弾いてほしいのだろう。
二人の悲しそうな顔に負け、私はもう一度、バイオリンを弾き始めた。フォームも、ビブラートも、音の正確さも気にせず、自由に。リビングが舞踏会の会場のように思えた。この拙い音で、無邪気に踊る少年少女。聞き惚れるほど上手くないこの音は儚い少年少女に合ってないと思ったが、そうでもなさそうだ。踊っている。リビングの電気は消えていて、月明かりが窓から差し伸べた。指先が自由に踊りだす。踊る少年少女に引き込まれながら私はワルツを奏でてた。
一生に思えた時間は私の音の余韻と少年が少女の体を支えることで終わった。二人は小さくキスを交わし、私に微笑んだ。そこで私は大事のことに気がついたような気がした。音楽とは己の戦い。そう思っていたがどうやら違うらしい。音楽は芸術だ。間違いは良くないが、悪くはない。悪くはないのだ。今日のバイオリン、楽しかった。
そして今日の感情が一気に溢れ出したかのように、私の頬に涙が伝った。涙を拭わず、私は自分の心の声に耳を傾けた。そうだね、私悔しかったんだよね。でもそれ以上に、それ以上に私の中にあった嫉妬があまりにも醜くて!あまりにも汚くて!私より幼かった彼女が楽しそうに私より上手く弾くから、耐えられなかったんだ。どうしてそんなんに能天気でいられるんだって!でも私はその理由を知らないほど幼くない。私が想像もできないほどの練習を重ねてきたんだって知っている。知っているからこそ虚しかった。
あぁ、バイオリンを楽しいって思いたかった。私は思いたかったんだ。
泣いている私にどうすればいいか迷っている二人が話し合っているのが見える。しばらくすると、少女が私の下へ走ってきた。そうすると、少し笑って私の手を握った。そしたら、二人は私の背中に腕を回し、抱きしめてくれた。惨めさも虚しさも吹き飛んでいた。目を閉じた。ワルツが聞こえる。そんな気がした。
次の日から私はバイオリンを楽しむことにした。今まで音楽とは己との戦いだけだと思っていたが、私はあの夜でやっとわかったのだ。音楽は己との戦いだけではない、楽しむこともとっても大切だと。
だって音楽はきっと戦いよりも優雅な踊りを好むということを