断れない男
夜の公園で、ひとり缶ビールを飲む僕の頭上には、雲の奥で鈍く光る三日月。
冴えない月は、まるで僕のようだ。
僕は商社営業マン。
聞こえはいいかもしれないが、それは華々しくやっている奴らに限ってのこと。社交的でも口が上手いわけでもない僕の成績は、万年振るわずだ。
成績優秀な同僚たちはこぞって、あしらいが厄介な「嫌な顧客」を僕に押しつけてくる。「お客様のおっしゃるご要望に詳しい者がおりますので、ご紹介しましょう。必ずやご期待に添えるとお約束します」と、そんなときだけ僕を都合よく担当者として祭り上げるのだ。
情けない話だが、僕は断ることができない。気弱な僕は、同僚たちに性格を見透かされ、いいように使われているのだ。
毎日が当然の如くサービス残業。大抵の僕の顧客は無理難題を要求するから、断れない僕は振り回されてばかり。
今日も顧客に呼びつけられて終業後に訪問をし、長話を聞かされてきたところだ。
帰宅時間が大幅に遅くなった僕は、慌てて妻に電話をした。帰宅前の一報は妻から提案された結婚当初からの約束事だ。
かつて僕は一度だけ、家族を驚かそうと電話をせずに帰宅したのだが、寝そうになっていた子どもを起こしてしまい、妻に小言を言われてしまった。
それ以来、決して電話は欠かさないようにと肝に命じている。
「30分後に帰る」と電話を切った僕は、コンビニに向かった。妻に「明日は子どもの友達が遊びに来るから、菓子を買って」と頼まれたのだ。今日は書類が重かったが仕方ない。何人遊びにくるかわからなかったので、多めの菓子と、自分用に缶ビール1本を購入した。
そのまま自宅近くの公園に直行し、雲の奥で鈍く光る翳んだ三日月を見上げて、僕は一杯やる。――まるで、冴えない僕のような月。あちこちに頭を下げて身を粉にして働けど、遠回りばかりして、同僚たちのようにサクサクと実績を上げることはできない。悔しくないと言えば嘘になるが、今以上のことは僕にはできないと自分が一番よくわかっている。
ほろ苦い思いをビールと共に飲み下し、手の中にあるスマホをぼうっと眺めた。
ネットニュースでは、いよいよ月計画が進み、二週間後に月面巨大洞の本格的探索を開始するという話題でもちきりだった。僕とは違って、世の中は日々前進しているらしい。
ビールをちびちびやっていると、一組の若い男女が公園に入ってきた。男が無理やりに女の腕をつかみ、女は嫌がって「離して」と繰り返す。僕を見つけた女は、「助けてください」とすがる目つきで言った。
できれば関わりたくはなかったが、あんな目で見られたら知らないふりはできない。僕が勇気を振り絞って声をかけると、幸いなことに男は僕と同じく気弱なヤツだったのだろう、さっさと逃げてくれた。
助けた女は、ハッとするような美人で、色白の肌が印象的だった。細面の奇麗な顔に不釣り合いな筋肉質の鍛えた腕が、半袖から覗いていた。この腕なら簡単に男を振り切れただろうに、武道精神なのだろうか。
女は澄んだ声音で、お礼にご馳走させてほしいと言ってきた。脳裏に妻の顔が浮かびまごつく僕に、女が熱心に誘ってきたので、少しだけならと付き合うことにした。
すると突如として、目の前に大きな銀色のUFOが現れた。
あまりのことに愕然とした僕は、その場からすぐにでも逃げ出したかったが、これほどの美人に笑顔で促されると、どうしてもノーとは言えずに乗船してしまった。画像でしか見たことのない光景が次々と繰り広げられ、気がつけば、僕は先程ニュースで話題になっていた月の月面巨大洞と思しき穴の奥へと招かれていた。
女は月人だといい、カグヤと名乗った。カグヤの説明によると、太陽系の外にルーツを持つ月人は、地球人より遥かに進んだ文明を持っており、後進的な地球人とは関わらないようにしてきたが、初接触が秒読みとなったので地球人のリサーチに来ていたそうだ。
月面巨大洞の中を案内された僕は驚いた。
彼等が生きる場所として選んだ月面地下は、地球の地上とそっくりな環境だった。全て科学技術で生成しているという。ただし月の重力は軽いので、地球人の僕は慎重に歩かなければならなかった。
立派なレストランのような場所に通され、豪華な食事が並べられた。正直、見た目も味もどうかと思う料理もあったが、大概美味だったので舌鼓を打っていると、カグヤから味について感想をできるだけ正直に教えてほしいと頼まれた。正直にと言われても角を立てるわけにはいかないので、僕は困った。
そして僕はなぜカグヤが「できるだけ正直に」と言うのか不思議だった。……単にご馳走するだけなら、そこまで言わないだろう。もしかするとこれは、地球人リサーチの一環なのではないのだろうか。
カグヤに僕の考えを話してみると、思った通り、来るべき地球人との外交に備えて知りたいのだと言う。
思い切ってカグヤに訊いて正解だった。地球人と月人の平和を願えば、外交は必ずや成功させなくてはならない。そのためになら正直に感想を言うことができる。
僕は、散々つきあわされてきた顧客との会食で培った味覚を総動員して、精一杯助言をさせてもらった。
どうしても口にあわない皿を伝えるときは、月人の料理の素晴らしさを誉めつつ、なんとか言い方を工夫して乗り切った。
カグヤは僕の態度を気に入ったのか、外交で予定している月視察コースへの意見も求めてきた。
早く地球に帰りたかったが、この状況ではとても断れない。今や僕は、地球人と月人が友好的関係を築けるかどうかという大役を担ってしまったのだ。
意見を述べるにしても、月の事情を何も知らないので、関係各所の月人たちの話を聞かせてもらうことにした。
次々と見慣れぬ月人たちを紹介されて、緊張した僕は、いつもの流れでつい自分の名刺を差し出してしまった。月人に名刺など無意味なものを渡してどうするのだと、つくづく小心者の自分が情けなくなった。
ところが、彼らは物珍しそうに僕の名刺を受け取ってくれた。そこで僕はコンビニの菓子も配ってみた。手土産の効果は絶大で、彼らとあっという間に打ち解け、月の情報をたっぷりと得られた。おかげで僕は視察コースについて多岐に渡り話せて、月人たちからとても感謝された。
終いには、月政府の幹部とも面会することになってしまった。協力的な地球人に直接会ってみたいのだという。
幹部連中はかなり気難しそうで、僕の社長級の顧客たちと似たタイプだった。僕は他の顧客以上に、社長たちの前に出るときは、委縮して是としか言えなくなってしまうからかなり頼りないのだが、なぜだか僕は贔屓にされている。そのせいか、幹部連中も僕と二言三言話すうちに、表情が緩んできた。名刺と菓子を配ると、さらに場が和んだ。何か気の利いた地球話でもと思ったが、不器用な僕は仕事関連の話題を投じてしまった。月人が手に入れたい物品を訊いて、役立ちそうな地球の物品を紹介した。すると意外にもこの話が盛り上がってしまい、切り上げることができずに月の滞在時間が長引いた。
カグヤがもうすぐ夜が明けそうだからと、帰宅を勧めてくれたので、僕はやっと帰路につけた。
帰りのUFOで、恥ずかしそうなカグヤから僕は好意を打ち明けられた。カグヤのような美人に言いよられたら、僕は……いや男なら誰だって気持ちがぐらりとくるだろう。
しかし僕は、この一線だけは越えないようにしている。一時の感情に流された結果、仕事も家族も失い人生を棒に振った同僚を山ほど見てきた。だから、同じ轍は踏むまい。
それに僕は、結婚という永遠の愛を妻と約束しているのだ。妻を裏切るわけにはいかない。たとえ邪魔者扱いされようとも、僕は妻が一番大切だ。
カグヤは僕の返事に落胆したが、妻が大切だという僕の言葉にいたく感動したようだ。カグヤに「あなたは信用できる人」「これからも月人のために協力してほしい」と頼まれ、僕はカグヤと握手を交わした。
あの公園で、僕はUFOから降ろしてもらった。
地面に足が着いた瞬間、UFOは消え失せた。僕の足は砕けたようになり、立っていられず地面に転がった。
いったいどうしたのだろうと考えてみると、なんと地球の重力に耐えられなくなっていたのだ。だからカグヤはあんなに筋肉質だったのだと、今更ながらに納得がいった。
僕が月で過ごしたのはたった数時間だけだよなと不思議に思い、時間を確認しようとスマホの電源を入れた。
画面が表示する日付を見て、僕は目をこすった。――信じられないことに、カグヤと出会ってから2週間が経過しているではないか!
そう、月と地球では一晩の長さが違ったのだ……!
月の一晩は、地球時間の半月相当だ。
僕の頭はショックで真っ白になった。
僕は2週間も家にも帰らず、顧客訪問アポも、やっとこぎつけた契約締結も、全約束を反故にしてしまったのだ!
スマホは次から次へと2週間分の情報を読み込み、顧客のご立腹メールが大量に届いた。
うまく立ち回れない僕が、唯一、なんとか必死に積み上げてきた顧客の信頼は、これですべて水の泡になってしまったのだ。
一癖も二癖もある顧客たちを怒らせた結果、僕の首が飛ぶことは間違いないだろう。
僕はがっくりとうなだれて猛省した。
こんなことならカグヤの申し出をきちんと断って、月になんか行くんじゃなかった……!
――いや、ちょっと待てよ。
あと数日待てば。
人類が月人たちと初接触する歴史的な日がやってくるではないか。
そのとき、月人が手にしているのは、配ってきた僕の名刺。そして月人は、地球人の誰よりも先に、信頼を得た僕を頼ってくれるだろう。
そうなったら僕は全世界から注目を浴び、事情を知った顧客たちから失った信用も取り戻せるし、会社の損失も埋めることができる。それどころか月人との商売は、会社に莫大な利益をもたらすに違いない。
これから起こるであろう出来事を予想した僕は、安堵しながらも手が震えた。
しかし、まずは妻だ。僕は身体を横たえたまま、恐る恐る妻に無事の連絡をいれた。
激怒していると思った妻は、無事でよかったと号泣していた。「約束を絶対に守るあなたが、行方不明になるわけがないと信じていた」と。「忙しいあなたからもらう毎日の電話が、私には宝物だったと気がついた」と。
夜空には丸くなった月が、黄金色に輝いていた。
僕はかつてないほどの高揚感に満たされながら、ひときわ輝くその大きな黄金色を見て、にんまりと笑った。
(了)
お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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