前編
新暦1286年。"早兎"の月、第二十五の日。ベルニーイ王国の第二王子であるライセル・フォン・ベルニーイは軽い足取りで王城を歩いていた。
国王、王妃、そして王太子に次ぐ地位を持つライセル王子を妨げる者などどこにもいない。歩く彼の姿を見た者はすぐさま跪くか、敬礼する。王子とは、王族とはそういうものだ。
そしてそんな彼が向かおうとしているのが、王城地下。敵国貴族など特殊な捕虜を収容する地下施設の、特別室だ。
「しかし、驚きましたよ」
ライセルと共に歩くのは執事のセドリック。ライセルが幼い頃より彼の世話をしてきた熟練の執事であり、今では彼専属として様々なサポートを行っている。
「何がだ?」
かように、ライセルはぶっきらぼうに返事をする。が、これは彼なりのセドリックへの信頼の表現のようなものでもあった。
「先の戦争、妙に張り切っていると思っていたら……まさか、ご令嬢が目的だったとは」
「揶揄うな」
執事の憶測をライセルは両断する。既に彼らは地下施設への階段を下りている真っ最中であり、他の者など影も形も見当たらない。とうに彼らの靴の音、杖の音、そして話し声が響くのみである。
執事の持つ灯りを受けたライセルから、大きな影がのびる。
「そもそも隣国……シュテリハット帝国の政治の脆弱性を見つけ、陛下に戦争を進言したのはこの僕だ。正当な報酬はあってしかるべきだろう。それに、彼女のことは知っていてね。彼女の政治的手腕があるとこちらとしても大変助かるというだけだ」
「ええ、ええ。わかっていますとも」
そう言いながらくつくつと笑う執事を見て、ライセルはあとで業務割り増しにしてやろうかな、などと益体もないことを考えていた。
「降伏宣言を受け取ったのが二日前ですから、こういった身柄の引き渡しとしては異例の速さですね」
「面倒な終戦処理は兄様に丸投げしたからな。王位を継ぐのは兄様なわけだし、必要性を説いたら早かったよ。それで、フリーになった僕は早めに動けたんだ」
「なるほど」
地下収容所の扉を開ける。いつも通り清掃が行き届いているようであるし、檻ではなく客室が並んだ廊下のような構造になっている。
基本的にここに収容されるのはもともと身分が高い者たちだ。特に罪は無いが様々な事情で表に出られない者。じきに解放されるがそのタイミングが政治的な駆け引きの末決まる者。そういったことから、地下収容所という名前から受けるイメージよりかは待遇は良いものとなっている。もともとの生活よりいくらかグレードは下がるかもしれないが、それでも庶民よりかは遥かに良い生活をしていると言えるだろう。
彼女……ライセルが目的としている令嬢においても、同様だ。その才能を見込んで身柄を引き入れたという形になった。特に問題が無ければ専属のお付きとして雇うことになるだろうし、わざわざ低い待遇で関係性を悪化させる必要などどこにもない。
ライセルと執事、二人は無言で歩く。よって、地下施設の廊下に響くのは彼らの靴と杖の音のみであった……はずだった。
「なあ」
「なんでしょう」
「なんだこの音は?」
「……私にもわかりかねます」
高貴な者たちを収容する場所に似つかわしくないような、鈍い音がかすかに聞こえる。それも一度ではない。耳をすませば、頻繁に何度もそのような音が。
そしてその音は、他ならぬライセルが目的としているクラウディア嬢の部屋から聞こえている。
事例として存在しないわけではない。「政争で負けた」「血族に見捨てられた」などの理由で収容された者がショックで"おかしく"なってしまい、ドアを何度も叩くとか頭を壁に打ち付けるとか、そういう行動に走ることはままある。
「おいおい、勘弁してくれよ……」
そうなった者の末路はひどいものだ。死なないよう拘束されるならまだいい方で、最悪の場合は処理されて政治的には生きているように偽装される。当然、雇うなどもってのほかだ。
ライセルを手で制し、執事が音の方を見やる。
「まず私が確認します。王子は離れて、応援要請の用意を」
「ああ」
執事であるセドリックは武術や暗器にも長ける。武器も持っていない女子供にどうにかできるとはライセルも思っていないが、万が一を想定し十分な距離を取る。
それを確認した執事は一部の油断もない足取りで音のする部屋へと向かい……そして、戻ってきた。
「どうだった?」
「……いや、まあ、とりあえず大丈夫そうです」
「やけに煮え切らない返事だな」
だが、セドリックがそう言うなら大丈夫なのだろう。おそるおそるではあるが、ライセルも近づいて部屋を覗き込む。
……そこには。強固そうな金属製の台と、積み上げられた薪と丸太。
「はいッ! はいッ! はいッ! はいッ!」
そして台に載せた丸太を一心不乱に斧で割っている令嬢……クラウディア嬢の姿があった。
▽
「落ち着いたか?」
「わたくしはいつでも落ち着いておりますわ!」
「……ああ、そう」
落ち着いている令嬢は薪割りなんてしないんだが、という言葉をぐっと飲みこむ。
ひとまず薪割りはやめさせて。席について話させることに成功した。先の狂行を除けば、表情や話し方などに異常な点は見られない。ただ、恐ろしいほどの汗が滴っているだけだ。動きやすさを重視したのか服装もドレスではなく体のラインが浮き出るものになっており、ライセルはあまり彼女を直視することができない。
そしてそんな彼女は何かを思いついたように立ち上がり、そして大きく頭を下げた。
「申し遅れました、元ペンブローク家のクラウディアと申します!」
「ああ、うん、ライセルだ」
クラウディアの勢いに押され、ライセルは弱く返したのみだ。
「存じております、王子殿下。それでわたくしに何の御用ですか?」
「そもそもの話なんだが」
「なんでしょうか、ライセル王子殿下!」
一般的な令嬢の持つ貞淑なイメージとは正反対のような声色でクラウディアは返事をした。
「どうして斧などという武器に近いものを持ち込めているんだ?」
「……!! まさか、王子殿下がかような場所にいらっしゃるとは夢にも思わず……失礼いたしました!」
「そういう話じゃないんだが……いや、そういう話なのか?」
「殿下、言いくるめられてどうするんですか」
顔に手を当ててライセルは仕切り直す。
「じゃあ、ここで薪割りをしていた理由はなんだ」
「それは頼まれていたからですね」
「誰にだ?」
「庭師の方が、今週の分の薪が足りないとおっしゃるので。お手伝い申し上げたまでです」
「は……? そもそも、どうやって抜けだした?」
「それは……乙女の秘密ですわ」
「は?」
顔を赤らめながら話すクラウディアに、あっけにとられる。
執事に「あとで裏を取っておけ」という意味の目配せをすると、彼は「御意」とうなずいた。
だが、まあ、言っていることはわけがわからないがクマがあったり目が血走っていたりなどの異常があるわけではないようだ。むしろ元気を有り余らせているかのように薪割りなどする始末。
というより、なぜ令嬢がすすんで薪割りをするのか。それは使用人の仕事だし、何より令嬢の手に余るだろう。
ライセルがそれについて尋ねると、クラウディアは急に立ち上がる。面食らうライセルに対して、彼女は右の人差し指を上に掲げながらこう話した。
「奴隷令嬢の掟! その一……"奴隷たるもの、人のために働かなくてはならない"!」
奴隷令嬢とは。なぜ彼女が奴隷令嬢を自称するのか。なんでそんなものに掟があるのか。なにもわからなかったので、ライセルはここで思考を放棄した。
「用というのは、お前を雇うことだったんだが……手に負えん。いったん精神鑑定に回してから判断する。セドリック、移動させるぞ」
「かしこまりました」
「えっ、ちょっ、精神鑑定ですかッ!? いや、わたくし正常ですから! 正常ですからーーーッッ!」