新しい道をゆく前に
建国記念式典のすべての予定がつつがなく終了した。
新国の動向を探りにやってきた諸国の要人は、虚実入り混じった情報をそれぞれ自国に持ち帰って行った。
彼らが共通して自国で語った印象は、彼の国は想像を絶するほどの武を持つ騎士の国である、野蛮と言えばそうかもしれないが、騎士にかしずかれた貴婦人はまた好対照になよやかで美しく優雅であった、というものだった。
キャストリカ改め、正式にバランマス王国と称するようになった小さな国に、束の間かもしれない平和が訪れた。
エベラルドは約束通り、ザックの拳を甘んじて受けた。
話を聞きつけたウィルフレッドに、顔はやめてくださいね! と言われたザックは、しばしの思案ののちに握った右拳を、エベラルドの腹に真っ直ぐ突き刺した。
鎖帷子で守られていない無防備な鳩尾に受けた一撃により、エベラルドはその場でのたうち回る羽目になった。
彼が立ち上がれるまでに回復したときには、にやにや顔のザックが護衛代わりに隣に座っていた。
本来の護衛である近衛騎士は、素知らぬ顔で離れた場所に立っている。
エベラルドは舌打ちして、ザックの差し出した手を掴んで立ち上がり、王様家業に戻っていった。
その翌日から、エベラルドは毎日のように騎士からの襲撃に遭った。
幹部の拳は、決死の覚悟で正面から受け止めた。
中隊長以下の騎士の攻撃は、簡単に喰らってやる気はない。
返り討ちにしてやり、鍛錬し直して来い! とどやしてやった。鋭い一瞥だけで引き下がるのは新米に多い。
すると次から、徒党を組んで現れるようになる。数を頼みに来られては、卑怯だと言うのも違う気がして、一発ずつ殴られるしかなかった。
近衛はというと、襲撃を妨害することもあれば、逆に積極的に協力することもあった。
どんな差なのだと見ていると、どうやら事前に襲撃の申請をしておくと、近衛の協力を得ることができるらしい。
自力でエベラルドに一撃を喰らわす自信のある者は突然現れ、そうでもない者は申請を出して情報と協力を得てやって来る。
どこの世界に護衛対象を羽交締めにする騎士がいるのだ、と近衛に詰め寄ると、ここですかねっ、と宰相の真似をされて脱力してしまう。
一度などは、歴代最強の騎士団長と謳われたアドルフまで、エベラルドの前にぬっと現れた。
エベラルドは熊のような大男を見上げて、顔を引き攣らせた。
短くなった右腕を見れば、抵抗することは許されないと覚悟を決めるしかなかった。
「……あんたに本気で殴られたら、さすがにただじゃ済まない。手加減してくれよ」
観念して歯を食いしばり腹に力を入れると、息が止まった。
アドルフの太い左腕に抱きすくめられ、分厚い胸板に顔を押し付けさせられたのだ。
こう来たか。これでは息ができない。
「! ……‼︎」
慌てて顔を引き剥がすも、今度は腕一本で子どものように抱き上げられてしまった。
「助けてやれずすまなかった。小さな子どもに辛く怖い思いをさせた」
「……あんたが今抱っこしてるのは、三十過ぎのおっさんだぞ」
デイビスは渾身の膝蹴りを叩き込んでから、胃の中味を吐き出すエベラルドの前にしゃがみこんだ。
「ヒューズは、二度とおまえに顔を見せないと言っている」
「…………そうかよ」
エベラルドにとって、最も憎い仇はキャストリカのオズウェル王だ。
集落襲撃の背景を知るまでは、家族を直接手にかけた男は必ずこの手で殺してやると思っていた。
襲撃の指揮を執り、エベラルドの家族の身体に刃を差し込んだ賊は、当時中隊長だったヒューズだ。
「あいつは悪くないとは言ったらいけないんだろうな。おまえがヒューズを憎むのは当然だ」
「今更」
もう憎んでいないとは、もちろん言えない。
だが、ヒューズは王の命令を遂行しただけだと理解してしまえば、それまでと同じ強さの怒りを持ち続けるのは難しかった。
騎士になったエベラルドも、アデライダや子ども達には言えない仕事をいくつもやってきた。
騎士道精神を説く上官に騎士道に悖る行為を命じられ、それを遂行してきたのだ。
「あいつは、ヒューズはな、汚い仕事は全部引き受けて、どんどん出世していった。騎士団には汚ねえ仕事も回ってくる。あいつはそれを、騎士の世界に憧れて田舎から出て来た、俺らみたいな馬鹿には見せまいとしてたんだ。それが騎士の家に生まれて、騎士団の仕事を理解した上で騎士になった自分の義務だと思ってた節がある」
「…………格好のいい話だな」
「あいつが格好付けじゃなければ、おまえの家族を手にかけてたのは俺だったかもしれねえ」
「なら一発くらい、顔を見せない奴の代わりに殴られとけよ」
エベラルドはデイビスの顔面に向けて、握った拳を叩き込んだ。
鼻血が噴き出た。鼻骨が折れたかもしれない。
まあデイビスはそれを気にするほどのご面相ではないし、むしろ怖い顔が更に怖くなって願ったりといったところだろう。折れた歯は元には戻らないが、骨はそのうちくっつく。
先の短い騎士人生に支障は出ないだろう。
襲撃に成功した騎士から順にエベラルドの前で膝を折り、彼を王として接するようになった。
エベラルドを殴る気概のある騎士はあらかた、気持ちに区切りを付けて新しい主君に仕える道を歩きはじめたのだ。
ライリーは、一度もエベラルドの元にやって来ていない。
身勝手な騎士団長が、三日間の休暇を宣言して行方を眩ましてしまった。
否、行方は分かっている。彼は自宅に帰っただけだ。
その自宅が問題なのだ。
曲がりなりにも、ライリーは貴族当主である。
彼独りの住まいならともかく、侯爵家出身の貴婦人と、稚い子ども、事情を知らない無辜の使用人も住む家に、押し入ることはできない。
無断欠勤をした騎士の部屋の扉を壊すのと同じようにするわけにはいかないのだ。
休暇初日の午過ぎ、服装を正してホークラム家を訪問したのは、ザックと、彼に引き摺られて来たアルだ。
応対する使用人の後ろから現れたのは、ライリーの八歳になった息子、ブラントだ。
「ザック様! あ、アルもいる! ねえ、アルはもう騎士になったから、うちで一緒に暮らせないって本当?」
「はい。ブラント様にはご挨拶が遅れました。新米騎士アル・ブラウンです」
アルが腰に下げた騎士の証である長剣を示すと、ブラントは目を輝かせた。
「かっこいい! でも、僕がアルより先に騎士になろうと思ってたのにな」
ブラントはもう、本気でそんなことを言うほど幼くない。いつまでも従者のままでいたアルを当て擦っているのだ。
「ブラント様が騎士になったら、みっちりしごいて差し上げますよ」
不敵に笑うアルに向かって、ブラントがやだあ、と言って飛び込んでくる。
抱き上げるには大きくなりすぎたブラントを身体の前に抱えて、アルはつい最近まで自分も暮らしていた家の中を覗き込んだ。
「ブラント様、お父上はいらっしゃいますか?」
ザックが訊ねると、ブラントは妙に悟った大人のような表情をした。
「うーん。一応」
「一応?」
「母上が泣いてる」
言葉少な説明に、ザックは呆れ顔になった。
「あいつ子どもにどういう教育してんだ」
ブラントと同じく悟り顔のアルは、そっとザックを諌めた。
「下世話な勘繰りをしないでください。ライリー様が泣かせてる、ではなく、ハリエット様が泣いている、です」
「はあ?」
あの恐ろしい夫人が泣いているとはどういう冗談だと、ザックが眉をひそめる。
「無理ですよ。諦めましょう。明後日の休暇が終わるまで、ライリー様は出て来ませんよ」
「……ということらしい」
騎士団に帰ったザックは、事の次第を先輩騎士に報告した。
「何がだよ! ガキの使いじゃねえんだぞ!」
理不尽にどやしつけられるのはいつものことだが、高頻度で怒鳴られていると嫌気が差す。
ライリー不在の幹部会は、ザックが一番の下っ端だ。ライリー早く帰って来いと切に願う。
「知らねえよ。どうせ外国の偉いさんが全員帰るまで、エベラルドの身体は空かないんだろ。それまでにその提案書? の内容を吟味してようぜ」
「吟味ったってこれ……」
急遽開かれた団長不在の幹部会の議題は、机の真ん中に置かれた分厚い紙の束だ。
一枚捲ると、最初に目に飛び込んでくるのはこんな言葉だ。
エベラルドに剣を捧げるとか無理。
絶対無理。
俺はやだ。
「あのガキぁ……」
何度見ても腹が立つ。
額に青筋を立てるマーロンの肩をザックとニコラスとで押さえる間に、ウォーレンがもう一枚紙を捲る。
そこからは、意外なほどに理論的な構成で、今後の騎士団の在り方についての提案が記されていた。
おじさん連中が何度読み返しても、出てくる感想は同じだ。
「…………んんんんーー?」
「……なんかなあ」
「うん。なんかこう」
「…………あり、な気がする、って言っていいのか?」
「分からん」
「騙されてる気がする」
「あいつ地味にしっかり教育受けてるから、なんだかんだ毎回俺らのこと丸め込むんだよ!」
「ライリーより賢い奴連れて来い! とりあえずアルだ。あいつに意見聞いとけ」
「アルは新米だぞ。今の段階でこの文書を流出させるな」
「じゃあどうすんだよ、これ!」
「知るかぁ! 誰かライリーここまで引き摺って来い!」




