夜明けをわたしと
肉体的な疲れであれば気持ちよく眠れるが、今日のこの疲労感は精神的なものだ。
くそ忌々しい衣装を着て面白くもない話に笑い、これ見よがしに武を強調してみせる。
強さとはそのように見せびらかすものではない。今日のエベラルドはただの道化だ。
道化を演じることが、王の役目なのだと宰相は言った。
胡散臭い笑顔に向かってほんとかよ、と言いはした。が、残念ながら今のエベラルドが頼ることができるのは、彼だけなのだ。黙って従うより他なかった。
おかげで今夜は寝付きも悪い。
エベラルドは寝台で眠るアデライダを眺めながら、長椅子の背凭れに体重を預けて杯を重ねた。
今頃仲間達は、騎士団の官舎で楽しく安酒に酔っているのだろう。
羨ましくない、寂しくなどないと言えば、もちろん嘘になる。
だがまあ、仕方のないことだ。これがエベラルドが選んだ道だ。
まったくの孤独ではない。アデライダが、この窮屈な王宮で一生一緒に生きてくれると言っている。
それ以上を望むのは、欲張りすぎというものだろう。
味のしなかった葡萄酒の代わりにと蒸留酒を傾けながらうつらうつらとしているうちに、夜闇が薄くなって来たようだ。
夜明けが近いのだ。
ああ。いつだったか、アデライダが言っていたな。
言えないよりは言える男のほうがいいよ。
幸い、今は素面とは言いがたい状態だ。
エベラルドは疲れと達成感、酒精と眠気により妙に高揚している自分に気づいたが、思い付きを実行するために、眠っているアデライダに外套を巻き付けて抱き上げた。
「……んあ? なぁに?」
「もうすぐ朝だぞ」
エベラルドよりは早くに引き揚げることができていたが、アデライダも慣れない衣装と場に、遅い刻限まで奮闘していた。
「……まだ夜ってことじゃん……」
小柄な妻は舌足らずに文句を言って、抱き上げるエベラルドの胸に甘えてくる。
「起きろよ」
「やだよ、酔っ払いめ」
エベラルドは気にせず、アデライダを抱えたまま部屋を出た。
彼らは戴冠式を済ませた日に小さな侍従部屋を出て、王の寝室で眠るようになっていた。ふたりの子どもにはそれぞれ乳母がついて、別の部屋で眠っている。
すでに乳離れしているのに乳母が必要なのか、とは思ったが、幼子には母代わりに甘えられる女性の存在が必要なのだと言われれば、そういうものかと納得するしかなかった。
アデライダと子ども達は寂しがって泣いたが仕方がない。これまでのように四六時中一緒にいてやるわけにもいかないのだ。
馬鹿みたいに広い寝室を出ると、扉の両脇に近衛騎士が立っていた。
見たことのある顔だ。ライリーの友人で、マッティアとか言ったか。
「おう。ご苦労なことだな。近くにめんどくせえ奴はいねえだろうな」
上品な騎士は、王の伝法な口調には片眉を上げるだけの反応しか見せなかった。
彼も先の戦に出た近衛のひとりだ。初陣の割には、デイビスの指示の下なかなかの働きを見せていた。
上流貴族の出身である彼らは、感情を制御するすべに長けているのだとライリーが言っていた。恐怖すら制御して上官命令に従うことができる近衛は、戦場に慣れればさぞかし名が売れる騎士となりそうだ。
今は元の貴人警護の任務に戻っている。
主君を護ることができなかった彼らに罰をと望む声は上がらなかった。誰も口にはしなかったが、相手が悪すぎたという考えに至っているようだ。
エべラルドもそこを追及する気はなく、それなりに役に立てよとだけ言葉をかけている。
エベラルドの側には常に彼らが立つようになったが、鬱陶しいと思ったのは最初のうちだけだ。近衛は敏感に警護対象の感情を読み、邪魔にならないよう気配を消すようになった。
専門家はやはり違う、と感心していたところだ。
そんな近衛騎士が、珍しく真っ直ぐエベラルドに身体を向けた。
「国王らしくない振る舞いだ。これを最後とするゆえ、あなたを一騎士と見て喋ってもいいだろうか」
上等な上着を脱ぎ捨て、脚衣に上衣を引っ掛けただけのエベラルド相手に、マッティアはすでに対等な口調になっている。
「なんだ」
彼は右手を左胸に当て、エベラルドに対する敬意を表した。
「騎士エベラルド、あなたが最後に助けた若者は、うちの分家筋の者だ。わたしからも礼を言わせて欲しい」
「そうか」
どうでもいいことだ。
エベラルドは戦場で騎士として、己の為すべきことを為しただけだ。
「彼を救ってくれてありがとう。あの者は、この先はあなたに剣を捧げる騎士になると言っている。取るに足らない者かもしれないが、今は味方が少ないんだろう。便利に使うといい」
「そうか。一応覚えておく」
なんでもないことのように感謝の言葉を受け取るエベラルドに、マッティアは苦笑した。
「あなたはあの場の誰よりも強く、勇敢だった。一騎士として、わたしは騎士エベラルドを尊敬する。あなたの決断力と勇気ある行動により、我々はこれからも変わらずこの地で生きていけるのだと聞いた。一国民として、わたしはエベラルド国王陛下を尊敬する。これからも近衛として、あなたに仕えさせていただきたい」
キャストリカを倒したエベラルドを憎む者は多く存在している。だがマッティアは、エベラルドに仕えることを選ぶのだと意思表示をした。
「そうか」
「ああ」
彼は伯爵家に籍を置く騎士だ。
有力貴族とそれに属する家が、新国王を支持するという意味か。
エベラルドにはまだそういった政治的思考をすることが難しい。後からウィルフレッドに判断を仰ぐしかないだろう。
国王であれ騎士であれ、新米がすべきことは同じだ。先達の知恵と手を借りながら、成長していくのだ。
難しい顔で判断を保留にして、エベラルドはこの際だからと、気になっていたことを訊いてみた。
「……念のため訊くが、あんた達は俺達が寝室にいる間中ずっとそこに立っているのか」
ふ、と小さく吹き出してから、マッティアは答えた。
「心配しなくても、聞き耳を立てたりはしないさ。この扉は分厚いし、中は広い。よっぽど激しいことでもしない限り、詳細は聞こえない」
「激しいのは駄目らしいぞ」
腕の中で寝たふりを決め込んでいるアデライダに水を向けると、手だけが外套の塊から出てきてエベラルドの顎を叩いた。
「あんたが今みたいに馬鹿なことを言ったりしたりしない限り、大声出したりしないよ!」
「だそうだ。まあいいか」
「気になるなら、昼間にしておくといい。夜は物音がよく響く」
「検討しよう」
「あんた達何言ってんの!」
エベラルドは近衛に向けて唇の端を上げて見せると、今度こそその場を去った。
「ついて来るなら離れてろよ。あんた達も痴話事なんざ聞きたくないだろう」
「は」
マッティアは元のように気配を消して、静かに控えた。
エベラルドは肌着一枚のままのアデライダを外套で包んで隠したまま、近くの回廊まで歩いた。
だいぶ酔っている自覚はあるが、先ほどもちゃんと会話は成立したし、小柄な妻を抱えたくらいでは足元がふらつくことはない。
部屋の窓からだと木の枝に邪魔される朝陽が、東に面した回廊からはよく見えるはずだ。
エベラルドはアデライダの顔だけ出した外套の塊を手摺に乗せて、落ちないようにしっかりと腕を回した。
近衛は言いつけ通り、離れた場所でそっぽを向いている。
「なによ。もうちょっと寝れたのに」
文句を言う口にキスをしたらまた酒臭いと言うだろうから、耳の近くの頬に唇を寄せて囁いた。
「アデライダ、わたしの妃。夜明けをわたしと一緒に見てください」
アデライダはきょとんとしてエベラルドの顔を見返した。
「……えっと、それ」
「おまえが言えって言ったんだろ。本来なら、もっと違う意味になるはずだけどな。朝に言ったら台無しだ」
「よく覚えてたね」
「返事は」
「はいっ。……これで満足?」
アデライダが照れ隠しに憎たらしい態度を取るのはいつものことだ。
尖らせた唇にくちづけると案の定、酒臭い、との感想が返ってくる。
「……ほら、アデラ。夜明けだ」
「…………そうだね」
「明るいな」
「……明るいね」
「泣くなよ」
「…………エベラルドの代わりに泣いてあげてるのっ」
震える細い肩を抱き寄せてやると、振り払われた。
共に暗い夜の山を彷徨った小さな少女は成長して、エベラルドの頭をその胸に強くかき抱いてくれた。
夜は必ず終わる。
夜明けは必ずやってくるのだ。
もうエベラルドは大丈夫だ。
これからは辛いことばかりの人生が待っているかもしれないが、これが自分で選び切り拓いてきた最善の道だ。
アデライダがいれば、否、もし彼女がエベラルドの側から離れることがあったとしても、ひとりでも毎日夜明けを迎えることができる。
また夜闇の中を彷徨うようなことになってしまえば、あの見た目も中身も太陽のような頭を掴んでやればいい。
ライリーはもう、これまでのようにエベラルドの隣で笑うことはないかもしれない。
それでも別に構わない。
エベラルドはこの小さな国の王だ。
彼の前では暴君として振る舞って、頭を差し出せと言ってやるのだ。
(……おかしいな)
それではこれまでとあまり変わらないではないか。
ライリー。
エベラルドを救ってくれた本物の騎士。
ありがとう、なんて一生言ってやる気はない。
エベラルドはこの先、彼が引っ張り上げてくれたこの明るい世界で、彼の兄分と呼ばれた過去に恥じない騎士となり、騎士の精神を持ったまま王となるのだ。
本物の騎士を、この手で育ててやった。
ライリーの存在が、エベラルドの誇りだ。
「アデラ、そろそろ部屋に戻るか」
耳元で囁く声が甘さを帯びた気がして、アデライダは手摺の上で可能な限り身を引いた。
「…………起きるんだよね?」
「眠りはしない」
「着替えて活動を始めるんだよね⁉︎」
「まあ今着てるものは脱ぐし、動きもする」
「あのひと達絶対聞こえてるよ!」
「大丈夫だ。あいつも日中のほうが聞こえにくいって言ってただろ」
残念ながら、国王にゆっくり休む暇などない。
国王夫妻が部屋に戻ると、すでに朝食の用意が整っていて、彼らが仕方なしに食べている横で、宰相が寄越した使いが今日の予定を読み上げた。
これからは、これが彼らの日常となるのだ。
苦虫を噛み潰したような顔の国王と、予定の過密さに目を回す王妃。
彼らの部屋に、小さな王子が更に小さな王女の手を引いて、朝の挨拶に訪れた。




