仲直り
ライリーに抱えられたままのハリエットが、驚いて夫の顔を振り仰いだ。
ロルフの口の端から酒が垂れた。
「は?」
「騎士団も辞めます。長い間お世話になりました!」
理解が遅れたデイビスが咽せた。
「はあああ⁉︎」
ザックがその場にいた全員の気持ちを代弁した。
「おい、ライリー。こんなときに巫山戯るなよ」
宥めるような口調で叱責したのはウォーレンだ。
「本気です。団長室の机の上に提案書を置いておいたんで、明日確認してエベラルドにも見せてやってください。俺は明日明後日、ついでに明々後日も休みます。家に来ても、誰にも会いませんからね」
「ライリー!」
ニコラスが悲鳴のような声を上げる。
「じゃ! そういうことなんで、あとはみんなで楽しんでくださいね!」
出て行くライリーを追おうとするピートを、マーロンが引き留めた。
「待て! 今あいつに何を言っても無駄だ」
「あのガキぁ……」
驚きから立ち直って殺気立つ騎士の前から、辞任宣言をした団長は姿を消した。
ライリーは走って厩まで行くと、厩番の従者に愛馬の用意をさせた。
「ライリー? 本気ですか?」
ようやく自分の足で立つことができたハリエットは、夫婦喧嘩続行中であることは脇に置いておいて、ライリーに詰め寄った。
「本気ですよ」
朗らかに言って、ライリーは馬上に妻を引き上げた。
「騎士団長になるのは、あなたの夢だったでしょう」
ライリーは妻の口から、久しぶりに拒絶以外の言葉を聞いて嬉しくなってきた。
馬上で強く抱きしめて、その幸せを噛み締めた。
「いいんです。あなたと一緒にいる時間のほうが大事だと気づきました」
「そんな……!」
ライリーはハリエットを腕の中に囲い込んだまま馬を走らせた。
風を切っても寒さは感じない。昂揚感でいっぱいなせいか、長い間恋うていた体温を感じているせいだろうか。
ライリーはすっかり乱れてしまった金髪の隙間から見える耳元に口を寄せて、囁くというには少し大きな声で告げた。
「俺にはハリエットが一番大切です。ハリエットのことが一番好きです」
不意を突かれて、ハリエットはライリーの腕の中で動きを止めた。
「あなたを傷つけたことを、償わせてください」
「……もう、怒っていません」
ハリエットは小さく呟いた。
あれから三ヶ月も経った。周囲まで巻き込み、長い間意地を張り過ぎてしまった。
ライリーは何か悪いことをしたわけではない、ただ気の迷いを告白しただけだ。
たったそれだけのことをハリエットが騒ぎ立て、臍を曲げて、激務の夫を振り回してしまった。
本当はもっと早くに、許しますと言うべきだったのに。
こんな喧嘩をしたのは結婚してから初めてで、態度を軟化させる方法が分からなかった。
ライリーは毎日誠実に謝罪に来てくれた。歩み寄ってくれる手を跳ね除け続けたハリエットが悪かったのだ。
「よかった」
こんなに嬉しそうに笑ってくれるなら、もっと早くに言えばよかった。
「だからライリー。今すぐ撤回してきてください。あなたは余生を送るにはまだ早過ぎます。わたしの余生に付き合わせる気はないと言ったでしょう」
「嫌ですよ。俺はもう決めたんです。これからはあなたと一緒にホークラムで暮らします」
「でも」
反論しようとした口を、ライリーの手が塞いだ。
「あなたの口から聞く否定の言葉には、もううんざりです」
「それは! ……ライリーがあんな」
「それについては謝りました。俺だって怒ってるんですよ。あなたがジュードと暮らしていた家には、寝台がひとつしかなかったって! サイラスが教えてくれました」
あの男、と口の中で毒づいてから、ハリエットは言い訳をはじめた。
「何もなかったんだから、問題ないでしょう。ご自分こそ、毎晩ザック様と仲良く寄り添ってらしたくせに」
「ザックがなんだって言うんですか! 同性まで持ち出すなら、ハリエットとアンナだって、いっつもべったりして」
「ライリーはアデライダ様と親密になさっていました」
「アデラは全然関係ない! ハリエットなんてサイラスとふたりで国外旅行! ひどすぎますよ」
「あれを旅行と言うほうがひどいです。わたしも言わせてもらいますけどね、あなたときたら、いつも若い女性に歓声を上げられて愛想良くして」
「あんなの、ハリエットに憧れる娘が俺をダシにしてるだけでしょうが」
意外と鋭い。
彼女達に熱を上げられる理由が分からず、なるべく波風を立てないようにしているだけかと思っていた。
「なんてことを。あなたは女心をなんだと思ってらっしゃるの」
「俺にどうしろと」
「わ、わたしだってあの娘達みたいにライリー様ーってやりたいのを我慢してるのに」
「……それはちょっと。勘弁して欲しいですけど、あなたがやりたいならやればいいじゃないですか」
「ライリーに呆れられたくないから我慢しているんです! 少しは女心を理解してください」
勢いに任せて言いたいこともそうでもないことまでも言い合ってしまった。
夫とは穏やかな関係を築きたかった。離れて暮らす期間が長いから、会えるときには仲良く過ごそうと決めていた。
だから今まで、こんなふうに言い合ったことなどない。
言い争いながらも、ライリーは馬上でハリエットの身体を抱き締めて放そうとしない。
ハリエットはなんだかおかしくなってきて、ライリーの腕の中に閉じこめられたまま笑ってしまった。
「好きです」
笑っていたはずなのに、胸から込み上げてきたものが頬を濡らした。
「好きです、ハリエット」
「……わたしもです」
囁かれた言葉に、ハリエットも素直な気持ちを返した。
「これからは、たまには喧嘩もしましょう。あなたは喧嘩の作法を知らなすぎるんだ。無視はよくないです」
「……はい。ごめんなさい」
「喧嘩をしても、仲直りしていなくても、夜はあなたと同じ家に帰りたいです」
「はい」
優しい声を聴いているうちに、ハリエットの昂っていた気持ちが落ち着いてきた。
落ち着いてきたはずなのに、その意思はお構いなしに、流れる涙が止まらなくなってしまった。もうこうなってしまえば、彼女自身にもどうしようもない。
ハリエットは夫の胸に顔をうずめて、小さく嗚咽を漏らした。
「さあ家に着きましたよ、泣き虫姫。俺は明々後日まで休みですからね。思う存分泣いてください」




