喧嘩勃発
ハリエットは無言でライリーの手を振り払い、彼から一歩距離を取った。
ライリーはきょとんとして、反射的にハリエットを追った。彼女は更に後退した。
「近づかないでください」
「え」
「さわらないで」
「ハリエット?」
訝るライリーを避けて、ハリエットはアンナの後ろに立った。
「正直なところはあなたの美徳のひとつです。ですが、言わなくていいことも世の中にはあるんです」
「あの、」
戸惑うライリーに喋る隙を与えず、ハリエットは続けた。
「あなたがおっしゃらなければ、なかったことにできたのに。わたしが妙な勘繰りをしただけなのだと、気づかない振りをして差し上げられたのに」
ハリエットが言葉を重ねるごとに、整った顔の表情からどんどん温度が失われていった。
ライリーは自分がやらかしてしまったことにようやく気づいた。
「あっ……」
「ご自分が何をおっしゃったか、よおく考えてみてくださいませ。わたしはしばらく、あなたのお顔は見たくありません」
ハリエットはライリーに背を向けた。
後を追おうとするライリーの前に、アンナが立ち塞がる。
「ハリエット……! アンナ、どいてくれ」
「申し訳ありませんが、従いかねます」
「アンナ!」
力尽くで突破するわけにもいかず、ライリーは焦って、遠ざかる妻の後ろ姿と目の前の侍女とを見比べた。
「……旦那さま駄目です。旦那さまがハリエット様からお逃げになったのは、これで二度目です」
結婚したばかりの頃の話だ。
ハリエットは許してくれたが、アンナはしばらくライリーのことを冷ややかな目で見ていた。
「あやまる! 今すぐ謝りに行くから頼む! ここを通してくれ!」
侍女に縋りつかんばかりの態度を取るライリーに向けられる視線は、あくまでも冷たい。
「身分の差があろうと、奥方以外の女性にみだりに触れるものではありません」
最終手段として、アンナの肩を掴んで押し退けようとしていたライリーは、慌てて手を引っ込めた。
「姉上!」
「わたくしには弟などおりません」
「昔は弟だと言ってくれてたじゃないか! 頼むよ姉上。このとおり。もう二度と馬鹿なことはしない言わない考えない!」
「標語を掲げるなら、もう少しまともなものを作って出直してくださいませ」
ライリーはしばらくその場で右から左から、巨大な壁の横をすり抜けようと試みた。が、焦る彼の前に立ち塞がるアンナは、実際の背丈よりも二倍も三倍も大きな存在感でもって、それを許さなかった。
「ぁああっもうっ覚えてろよアンナ!」
情けない顔で捨て台詞を吐いてライリーが走り去るまで、そう時間はかからなかった。
「ライリー様も! 今日のことを忘れないでください。もう二度と同じことはなさらないでくださいね!」
このままだと、同じことどころか挽回すらさせてもらえない。
貴婦人は人前で走ったりはしない。
今ならまだ追いつけるはずだ。ライリーはハリエットが去った方向に先回りできるよう、全速力で走った。
怒りに任せてか、ハリエットはライリーの計算よりも早く歩いていたようだ。前方に回り込むつもりが、後ろ姿を見つけることになってしまった。
「ハリエット!」
呼びかけると、ぎょっとした彼女は足を速めた。
「待ってください!」
「来ないで!」
厳しい声に、ライリーが反射的に動きを止めてしまった隙に、ハリエットは見かけた騎士に声をかけた。
「騎士様、助けてください。追われています」
「え、ハリエット様? ってか団長?」
慌てたのは通りすがりの騎士だ。
自分達の団長がすべてを捧げている奥方に、夫から逃げる助けを求められてしまったのだから。
図らずとも美しい貴婦人を背中に庇う形になってしまった騎士は、噛み付かんばかりの団長を前に後退りした。一緒に退がり損ねたハリエットの手が、騎士の背中に触れる。
「妻にさわるな! そこを退け!」
相手が騎士なら遠慮は要らない。ライリーは配下を恫喝した。
「触ってない! 夫婦喧嘩に巻き込まないでください! 剣から手を放して!」
「騎士様ダメです。わたしを逃がしてくださいませ」
騎士の後ろで、か弱い貴婦人が助けを求めている。
「ええ〜……」
「どけ」
「…………あの、ハリエット様。おれ時間稼ぎしかできませんが」
「ありがとうございます!」
騎士が振り返って見ると、美女が明るい笑顔を見せた。思わずデレっとした彼に、大人げない上官が掴みかかった。
「この野郎!」
「団長、なんかよく分かんないですけど、やらかしちゃったんでしょう。謝ったほうがいいですよ」
「謝ろうとしてるのに、おまえが邪魔してるんだろうが!」
「だって美女に助けを求められちゃったら仕方ないじゃないすか」
騎士が身体を張って上官の足止めをしている間に、ハリエットは再び姿を消してしまった。
ライリーが配下を地に沈めるまでそう時間はかからなかったが、ハリエットが逃げるには充分な時間だったようだ。
どっちの方向に行ったのかは、すぐに分かった。
次から次へと現れる騎士の来し方に、彼女は向かったのだ。
「邪魔をするな!」
姿勢を低くして体重をぶつけてきた配下を投げ飛ばして、ライリーは喚いた。
「だってハリエット様が」
ライリーは、にやにやしながら立ち塞がる歳上の騎士に拳を向けた。
「あんた達楽しんでるだろ! 俺の人生がかかってんですよ⁉︎」
「痴話喧嘩くらいで大袈裟な」
「それで済むうちに謝って解決したいんだよ!」
今ならまだ間に合う。
間に合うと思いたい。
ライリーが馬鹿だったのだ。
夫の口から、他の男の元に行けと言われて平然としていられるわけがないのだ。そんなことを考えてましたごめんなさい、などと、何故言ってしまったのか。
ハリエットを傷つけてしまった。心が弱っていた、なんて言い訳にはならない。
どうかしていた。
彼女の有能さに縋りつきたい人々がいるのは仕方がない。だが、ライリーは、ライリーだけはそれをしてはいけなかった。
ハリエットを守ると決めた。なのに逆に守られることを望んでしまった。
それが気の迷いであることに気づけたのに、その想いを口にしてしまった。最悪な形で彼女を傷つけてしまった。
何人目かの妨害を投げ飛ばしてから、ライリーはその場にしゃがみ込んだ。
「もう駄目だ……」




