大団円かと思いきや
騎士団は志願兵をほとんど無傷のまま王都へ帰した。
彼らは少ない人数で順番に前線に立ち続けた。
交代のたびに増えていく弟の傷を見兼ねたロバートは、自分も出ると申し出たらしい。
俺達が全滅したときが、兄上の出番ですよ。そう簡単に見せ場を作って差し上げる気はないですけどね!
ライリーにそうあっけらかんと断られ、デイビスには新たな任務を授けられた。
ロバート様には軍師の素質がある。後ろから戦況を見極めてください。
それこそ素人の出る幕ではない。それでもロバートは怪我人の出方を見て、人員配置の再考を求めた。敵の動きに不審を覚えれば、すぐに報告を上げた。
幼い頃に戦ごっこをして遊んだ兄の意見を、ライリーは不安になるほどあっさりと受け入れた。
それでいきましょう! 大丈夫大丈夫!
としか言わないんですよ、うちの騎士団長……。
げっそりして帰ってきたロバートの話を、ハリエットはロージーの隣で聴いていた。
ロージーは三十を過ぎて初めて戦に向かう夫を笑顔で送り出し、泣きながら出迎えた。
ハリエットは城内で求められるままに采配を振るう合間に、初めての不安と闘う義姉を慰めて過ごした。出発から程なくしてシエナとエイミーが元気に帰ってくると、ロージーもだいぶ落ち着きを取り戻した。
ハリエットはただ微笑んで、エイミー達の帰都をみなと一緒に喜んだ。
ロバート達志願兵がひと足先に帰ってきたときにも、きちんと無事を祝うことができた。
ライリーが帰ってくるのは、一番最後だ。それがキャストリカの騎士団長としての、彼の最後の仕事になるのだ。
ハリエットは彼が敵を退け、元気に帰ってくるのをただ待っている。それが騎士の妻の仕事だ。
いつもそうして、不安な気持ちを表には出さずに夫の帰りを待っていた。そうしていれば、彼はいつもハリエットの元に帰ってきてくれた。
今回もそうなるのだと自分に言い聞かせ、自分にできることをして待っていた。それが夫の助けになるのだと、そう信じて疑わなかった。
昨日の朝、帰ってきたライリーはハリエットを抱きしめてはくれなかった。
汚れているからと言って、手を取って挨拶することすらしてくれなかった。
ただ目の前でひざまずき、ただいま帰りましたとだけ言った。
彼は出陣前から様子がおかしかった。
寝る前にも起きてからも、ハリエットに触れようとしなかった。出発直前になってやっと、他人行儀に手の甲にかすかに唇をつけただけだ。
そうなって思い返してみると、最後にくちづけたときライリーは、やけに離れがたく切ないまなざしでハリエットを見つめていた。
まさかあれが最後のふれあいになってしまうのだろうか。
戦地に向かうライリーに、些細な違和感を問いただすことなどできない。
ハリエットは何も気づかない振りをして、夫の無事を祈り送り出した。
彼はかつてない厳しい戦の前で気が立っているのだ。帰ってきたらきっと元通りになる。そう思いたかった。
昨日のライリーはハリエットに触れることをしないまま、戦の後処理があるからと、そのまま仕事に戻った。夜もハリエットと子どもの待つ部屋に戻ることなく、様子を見にくることすら一度もしていない。
父の不在に慣れている子ども達は不満を漏らすことはしなかった。不満に思っているのはハリエットだけだ。
でしゃばり過ぎてしまっただろうか。
一貴族夫人でしかない身で、あれこれと各方面に指示を出す様子を厭われた?
否、ライリーはそんなことでハリエットを判断したりしない。女のくせに、などとは考えないひとだ。
逃亡生活をやめ王宮で再会したときのように、よくやった、自慢の妻だ、と言ってもらえることを無意識のうちに期待してしまっていた。
「やっぱりこの髪が気になるのかしら」
ハリエットの独り言を聞き咎めて、アンナが首を振った。
多少は王都の護りも必要でしょうと、戦地には赴かず騎士姿で王宮に残った彼女も、ライリーの様子に不審を覚えているのだ。
「旦那さまに限ってそんな」
「旦那さまのお迎えを待たずに反撃に出たのが、可愛げがなかった?」
「そんな今更」
「じゃあなんでライリーは帰って来てくださらないの?」
「……お呼びして参りましょうか」
「よしてちょうだい。嫌々会いに来られでもしたら、立ち直れないわ」
国は今非常に不安定な状態だ。
もはや国、と言ってもいいのかすら定かでない。
キャストリカは喪われた。だがキャストリカを倒したバランマスはまだ、正式に王を立てていない。
暫定的に女王を名乗っているアデライダは、ほとんど人前に姿を見せない。時折子どもを遊ばせているところを見る程度だ。その姿は市井の若い母親にしか見えなかった。
彼女は辺境の小さな村で王女とされながらも、当たり前の村娘のように育てられたという。読み書き計算や地理歴史など基礎教育は施されてはいるようだが、彼女が授けられた知識はそこまでだ。為政者としての振舞うことを、彼女は知らないのだ。
アデライダを育てた村の大人達が、彼女が女王として起つことを想定していたとは思えない。
代わりにエベラルドが王配として、王のように振る舞っていた。
その彼が騎士団の後を追って戦場に行っても、アデライダは残された人々を導こうとはしなかった。しなければならないという考えすらないようだった。
この隙にキャストリカが国を取り戻すとは考えなかったのだろうか。エベラルドも、アデライダも。
後のことは頼みました、と去り際のエベラルドは言ったが、ハリエットはそれに対して応えを返さなかった。
小規模な兵団にあっさりと王宮を乗っ取られたオズウェルに玉座に返り咲く資格はない。何も出来ず、ただ騎士の言いなりに逃げることしかしなかった王子にもだ。
そんな王族に、今後キャストリカの貴族が黙って従うことはないだろう。
例えハリエットがオズウェルに玉座に座ることを勧めても、国は荒れ、間もなく無くなる。
戦乱の世に在るこの国に今必要なのは、分かりやすく絶対的な指導者だ。
王宮に残った官僚がハリエットを見る目には気づいていた。
昔、生まれ育ったロブフォードで求められた役を、再び当てがわれようとしているのだ。
それも今度は、おぞましい役目まで負わされかねない空気だ。
冗談ではない。
少女だったハリエットが自分の将来を犠牲にしてでも守りたかったのは、自分が愛し、愛してくれた家族と故郷だ。
国のためになどという目に見えない大義のために、彼女は自らを差し出す気はない。
国にはもう充分尽くした。
余生は愛する夫と子どもと生きていくのだ。
ライリーがその望みを叶えてくれる。だからハリエットは彼の望みを叶えることを、生きる喜びとしている。
(だからライリー)
早く帰って来て。
嫌なことなど考えたくない。
ライリーがハリエットの手を放そうとしている、なんて。
ハリエットの脳裏に浮かんだ馬鹿な考えを杞憂だと笑い飛ばして、いつものように抱き締めて欲しい。
いつだって彼は、そうやってハリエットの心を守ってくれた。これからもずっとそうしてくれると信じていたいのだ。
願いが通じたのだろうか。
ハリエットの視界に、走るライリーの姿が映った。
今日は横顔でも後ろ姿でもない。
まっすぐ正面からハリエットに向かって、子どものように全速力で走ってくる。
その想定外の速度に、アンナの反射神経も間に合わなかった。
優秀な侍女である彼女には珍しく、主人夫妻の邪魔にならない位置まで退がるのが遅れてしまった。
ライリーはハリエットの正面でぴたりと止まった。
「ハリエット」
「はい」
ハリエットは不安な気持ちが霧散するのを感じた。ライリーが笑っている。
「えっと、……手を握っても?」
やはり昨日は意識してハリエットに触れなかったのだ。ライリーは結婚して何年も経つ夫婦らしくなく、許可を求めた。
「はい」
「昨夜は帰れなくてすみませんでした」
「いいえ。大変なお勤めですもの」
一時の気の迷いだったならいいのだ。ハリエットは何も聞いていない。
ライリーが帰って来てくれるなら、何も気づかなかったことにして、これからも笑顔で暮らしていける。
「いえ、違うんです。……俺なんだか変な考えに取り憑かれてしまって」
「……ライリー?」
「ハリエットとエベラルドがふたりで王になればいい、なんて。俺が馬鹿だったんだ」
「…………」
「アデラに叱られてきました。彼女はエベラルドと一緒にいるために頑張るそうです。だから俺は余計なことを考えず、ハリエットと一緒にいていいのだと」
「……………………」
「だからあの、今日はちゃんと」




