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騎士団長の仕事

 王立騎士団の団長が代わって四ヶ月が経つ前に、エベラルドは大隊長の仕事をすべて後任に引き継いでしまった。そして官舎の自室を引き払い、故郷マルコスへと帰って行った。

 部屋には何ひとつ痕跡を残さず、常態化していた賭け事すらもすべて精算してしまっていた。

 十九年だ。人生の半分以上を共に過ごした仲間にも、記憶以外の何も残さずに彼は王都を去った。

 事前に別れの挨拶をしてまわってはいたが、いつ発つとは誰にも告げず、ある日突然、姿を消したのだ。後には何ひとつとして残っていなかった。

 忘れ物のひとつでもあれば可愛げがあるものを、と彼の仲間は笑ったが、実に彼らしい別れとも言えた。

 ライリーは毎日忙しく過ごしていた。

 彼は昔、怪我をしたアドルフの書記官を務めて、ひたすら書類の作成をしたことがある。

 そのときに言われたのが、己の職務を忘れるな、己の持つべきは筆ではなく武器であると心得よ、であった。

 当時のライリーはその言葉をそのまま受け取った。杖を突いたままでも短剣くらいは扱えるようにと、片足を損傷した際の動きの鍛錬を自分に課した。

 こうなってみて初めて、アドルフは次期騎士団長と目されていたライリーに、就任後の教えを授けたのだと気づいた。

 騎士団長室には、毎日大量の書類が届く。

 新しい従者志願者から正規の騎士についてまで、騎士団内人事の報告書が回ってくる。大隊長時代に提出していた稟議書を、今度は受け取る側になってしまった。

 騎士団の経理担当者の小言なんて、これまでは右から左に流していた。予算を国の財政官からもぎ取ってくるのもライリーの仕事だ。

 他にも、国境警備隊からの報告書、王都警邏隊からの報告書、各地に派遣されている中隊小隊単位からの報告書、稟議書、報告書!

「……………………副団長。申し訳ありません、ちょっと走ってきます」

「おう、行って来い。全力一周くらいで帰って来いよ」

「了解です」

 ヒューズからの許可を得たライリーは窓枠に足を掛け、飛び降りた勢いを殺すことなく走り出した。そのまま王城の裏手に広がる森に向かうと、間もなくその背中は見えなくなった。

 ライリーの背中を見送ったスミスも、続いて立ち上がった。

「……よし、では俺も」

「おまえはもうそんな歳でもないだろう」

「そうですけどね! 分かってるなら、もっと若い奴を指名してくださいよ!」

 くそう、と少しだけ遠慮して小声で呟き、スミスは椅子に座り直した。

「仕方ないだろう。他に適任がいない」

 消去法で仕方なく選ばれた次期副団長は、現副団長に視線を向けた。

 ヒューズは、元はアドルフの上官だった人物だ。ライリーとエベラルドと同じような関係といえた。入団当初から弟分の世話を焼き、己の副官として鍛え、大隊長の時点で追い付かれ、騎士団長となったかつての配下の副官となる。

 アドルフもライリーも、入団当初から騎士団長の後継と目されていた。

 ヒューズもエベラルドも、いつかは追い抜かれると承知の上で弟分を育ててきたのだ。

 その後は右腕として一歩後ろに立つことになる。エベラルドもそれは分かっていたはずだ。

 スミスはこうなるまで、ふたりが騎士団の頂点に立つ日まで騎士のままでいられるだろうか、彼らに近しい大隊長としてその姿を間近で見られたらいい、と考えていた。

「副団長は書類の文字、見えてます?」

「……夕方にはだいぶ霞む」

「俺も似たようなものです」

「商人の息子なら、書類仕事もできるだろうと思ったんだが」

 騎士の息子であるヒューズが偏見を持ち出した。

「商家にいたのなんか三十年も昔の話ですよ。そもそも、それが嫌だから騎士になったとは考えませんか」

「……なるほど」

「やりますよ。やりますけどね! あのぽやんとしたライリーがさくさく書類を片付ける姿が意外すぎたのと、自分の老化が身に染みてちょっと嫌になってきただけです」

「奴は俺達が目を細めていることにも気づいてないんだろうな」

「座り仕事でも老いを実感することになるとは、思ってもみませんでした」

「……よし分かった。あの小僧が気晴らしから帰るまで休憩にしよう。茶でも淹れてやる」

 白髪混じりの騎士団の重鎮ふたりは、よっこらしょ、との掛け声と共に立ち上がり、腰を伸ばした。


 書類の山から一時的な逃避を図ったライリーは、下っ端時代によく走らされた森の小径をひたすら走った。

 本当は鍛錬に参加したかったが、そこまで休憩時間を取るわけにはいかない。適当なところで引き返して、城の中心部にある騎士団長室に戻る道を走った。

 逃避する方向に進んでいるときよりも、現実に帰る速度のほうがずいぶん遅い。それがライリーの気持ちの表れだ。

 自分は下っ端でいるほうが向いている、と思う。

 生家では兄の影となり、長じてからは騎士団の上官命令に従ってきた。結婚にしたって、話を聞いた当初は、傅いて生きることに疑問を持たなかった。実際には傅き傅かれる結婚生活にはならなかったが、今でもその想像に違和感はない。

 キャストリカの騎士の頂点に立つ日を夢見てはいたが、ここまで向いていないとは思わなかった。

 騎士団内のすべての最終決定権はライリーにある。もちろん戦場において、勝敗を左右する判断を下す覚悟はしていたが、こうすべての決定の責任を取れと言わんばかりの書類を見ていると、彼には珍しく胃が痛むような感覚を覚えるのだ。

 領地経営でも同じことが言えるかもしれないが、ライリーの下した裁量に寄り添ってくれるハリエットのおかげで、そこまでの重圧を感じてこなかった。

(鍛錬参加が休憩ってどういうことだよ)

 休憩の意味がよく分からなくなってきた。鍛錬は辛いもの、走り込みは罰則、ではなかったか。

 ライリーはそこに折りよく通りかかった昔馴染みを、咄嗟に呼び止めた。

「マッティア!」

 彼は従者時代に同じ師について共に学んだ、いわば学友的存在だ。ライリーとは違い、予定通り近衛騎士団に入った伯爵家出身の騎士である。

「おう、ライリー。そんなとこで何してるんだ」

「今時間あるか? ちょっと手合わせしていかないか」

 マッティアは少し考える顔になったが、まあいいかと回廊を出て、ライリーのいる外通路まで出て来た。

 ふたり共、勤務中は常に剣を身に付けている。開けた空間さえあれば、いつでも手合わせくらいはできる。

「さて。騎士団長のお相手が務まるかね」

「おまえがそれを言うか」

 マッティアと剣を合わせるのは何年振りだろうか。彼は従者時代から美しい剣技を使っていた。ライリーも剣は得意だが、彼と立ち合えばその正確さにいつも目を見張っていた。

 裂帛の気合いと共に、剣を打ち合う音が周囲に響き渡る。

 王立騎士団と近衛騎士団の外套を纏った騎士が立ち合う姿に、通りかかった女官が小さい悲鳴を上げる。そこに駆け付けた官吏が、剣舞を舞っているようなふたりに感嘆のため息を漏らした。

 ライリーとマッティアは同じ師から同じように正統派の剣術を学んだ。

 剣には型がある。決まった型を正確になぞる練習が素振りだ。この型にはこう返す、という、長い歴史のなかで編み出された合理的な理論があるのだ。

 無駄の無い動きは、時としてひどくゆっくりとしてすら見える。それが舞っているように感じられるのだ。

 立ち合いは、先に疲れを見せたマッティアに生じた隙を突いた、ライリーの勝ちで決まった。首の皮一枚手前で剣先を止めた勝者は、敗者が柄から手を離すのを確認してから刃を鞘に収めた。

 息を整える合間に、ライリーは立ち合いの内容について考えていた。

 マッティアの動きは、アドルフに通じるものがある。同じ型を使うのだから当然かもしれないが、剣技においてここまで追い詰められたのは久しぶりだ。

 ライリーはすべてにおいて抜きん出た才を持つ騎士ではないが、こと剣に関してだけは、騎士団一であると自負していた。そのことに誇りを持っていたし、もっと言えば自慢でもあった。

 だが、これからは自身の武勇を誇るだけでは駄目なのだ。騎士団全体の武勇を高め続ける必要がある。

「マッティア、近衛の仕事に暇はあるか?」

「暇なわけあるか。馬鹿にしてるのか」

「ひとりで王立騎士団に入った俺を、指差して笑ったのはおまえらだろう」

 ライリーは十年以上昔の話をほじくり返して、言い返した。

「ああ。あのときはなんの冗談だと笑うしかなかった」

「まあ俺もだけど」

「まさかおまえが団長になって、あんな美女と結婚までするとはな。順風満帆じゃないか」

「簡単に言うなよ。それなりに苦労してきた」

「だろうなあ」

「そんな昔話より、おまえに頼みがあるんだ」

 ライリーはその場で密談の体勢になった。

 予定よりも長くなった息抜きに、慌てて騎士団長の執務室に走って戻ったが、待ち構えていた副団長に大目玉を喰らってしまった。

 首をすくめて叱責を受けながら、やっぱりこうやって怒られているほうがよっぽど自分の性に合っている、としみじみ考えた。それが顔に出てしまったのか、緊張感のない顔をするなと更に叱言を重ねられることとなる。

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