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疲れた

「持ってくんな! 載せんな! てめえら全員出て行け!」

 寝台の上で上半身を起こしたエベラルドが、余裕のない様子で怒鳴った。

 掛布の上でのっそりと動いたのは、黒光りする生き物である。

「え、ケルヴス? エベラルドまだ駄目だったの?」

 アデライダは甲虫を掴んで、躊躇いなくひょいと持ち上げた。

「なんでおまえ平気なんだよ! 山にも村にもこんなヤツいなかっただろうが!」

「はあ? 何言ってんのよ。どっちにもいたよ」

 血相を変えてわめく夫とげらげら笑う男達とを見比べて、アデライダはしみじみ呟いた。

「なんだ。エベラルドも割と愛されてんだね」

「どこがだよ! おい、おまえ平気ならこれも全部外に持って行け」

「やだよ。せっかくもらったお見舞いでしょ。みんなわざわざ捕まえてきてくれたの? エベラルドはねえ、小さいときに鼻を挟まれて以来、怖くてこいつのことは見ない振りして生きてきたの。お母さんがそんなこと言ってたけど、まだ克服してなかったんだねぇ」

 アデライダの暴露に、騎士達は更に笑った。

「そういうことだったのか!」

「エベラルドにもだっせえとこあんだな」

「最近だせえとこばっかだけどな」

「エベラルドの好き嫌いまで覚えてくれてありがとうございます」

「そこで礼はおかしいだろ! 見舞いなら嫌いなもんじゃなくて好きなもん持って来い!」

「おまえの好きなもんてなんだよ」

「女? 酒?」

 ライリーは一応突っ込みを入れておくことにした。

「みなさん、このひと一応奥方なんで、そういう話は」

「じゃあ賭け事か」

「…………うわあ。出揃った」

 アデライダはげんなりと呟いた。

 呑む打つ買う。駄目亭主の典型である。

「昔の話だろ」

「もういいよ。寝るも動くも勝手にすれば。あたしもやることあるし。じゃあね」

「あ、俺も行く。もう用は済んだ」

「用ってのはこの虫のことか! 持って帰れ! つーかおまえら、どんだけ集めてんだよ!」

 掛布の上に三匹、枕元に二匹、くつろぐ昆虫を示してエベラルドがわめく。

「見舞いだよ。息子にでもあげろよ」


 しれっと言い残して、ライリーはその場を後にした。

 二階の隅にある侍従部屋である。ひとり用である寝室に、エベラルドは家族四人分の寝台を入れて眠っていた。いつも側で妻子を守っていたのだ。

 キャストリカの民からも、本来であれば味方であるはずのバランマス兵からも。

 彼は孤独な闘いにその身を投じ、ろくに寝む間もなく常に気を張っていた。

 発熱は怪我だけでなく、その蓄積された心身の疲労からもくるものだったのだろう。

「ねえ、あたし人妻なんだけど。あんまり馴れ馴れしくしないでよ」

 隣を歩くライリーに向けて、アデライダは呆れた顔をした。

「別にしたくはないんだけど。努力すればなんとかなるかと思って」

 ライリーは拒絶の言葉を気にする様子もなく、そのままの距離感を保った。

 触れることはないが、どちらかが望めばすぐに手を繋ぐことができる、親密な者同士の距離だ。

「あのねえ、ライリー」

 溜め息をついて、アデライダは立ち止まった。

 億劫そうにそれに付き合い、ライリーは彼女と向き合った。

「まず努力ってのがおかしいよ。あんたこれだけハッキリ拒絶されても、ちっとも傷付いてないじゃない。あたしを好きになる努力なんて無駄。ライリーが好きなのはハリエット様だけ。他の女なんて毛ほども興味ないんでしょ」

「………………うん。でも」

「ハリエット様はねえ、あんた達がいない間も凄かったよ。何が凄いって、ちっとも凄いことしてるように見えないとこ! にっこり微笑んで、優雅にゆっくり動いて、可愛い子どもの相手をしてるようにしか見えないの。なのにあのひとが子どもを連れてゆったり歩いて廻ったところの人達がね、安心した顔になって仕事の続きに取り組むの。あたしはそれを見てるだけ。意味分かんないよあんなの」

 ハリエットは城に残った人々に頼られ、総責任者のような立場に立たされたという。

 彼女の元に相談という名の情報が集中したため、それを適切な人や部署に振り分け、頼る声に応じて各所を見廻っていたのだ。

「凄いひとだろう」

「凄いひとだよ。でもハリエット様だって女の人なんだよ。昨日のアレ何よ。あんたハリエット様の使用人じゃなくて夫でしょ」

 昨日のアレ、とは、王宮に帰ってきて再会したハリエットに対して取った態度のことだろう。

 当然だが、ライリーは手を含む全身が汚かった。自分でも分かるくらい、死の臭いがまとわりついていた。

 戦場から帰ってきたらいつもそうなのだ。

 いつもは帰ってきたその足で凱旋式に出てから、甲冑と汚れた衣服を脱ぎ、全身の汚れを落としてからハリエットの元へ帰っていた。そもそもここ数年は彼女は領地にいることが多く、汚れたまま会う機会がなかったのだ。

 昨日は汚い手で妻に触れることはできず、ひざまずいて帰還の挨拶をした。

 その仕草は愛する妻に対するものでなく、敬愛する主君に対してとる態度だった。

「……最初の予定通り、彼女の騎士になってればよかった」

「ばっかじゃないの。昨夜だって職場で寝たんでしょ。馬鹿なこと考えるのはもうやめようよ」

「昨日は、まだやることがあったから」

「それをぶっちぎって奥さんのとこに帰るのがいつものライリーなんでしょ。そこら辺のおじさん達が不思議がってたよ」

「…………でも、別れる準備をしなきゃ。彼女を俺だけのものにしてちゃいけないんだ」

 ハリエットがこの国の王妃になる。

 現状、彼女は王宮の支配者も同然なのだ。それが自然だ。

 これから、彼女を求める声が不安定になった国のあちこちで挙がるはずだ。

 ライリーはそんなハリエットの騎士となって、一生彼女に仕えるのだ。

 アデライダは両手で強くライリーの頬を叩いた。

 ぱん! と乾いた音が廊下に響き、何人かが驚いて振り返った。

「あたしは絶っ対に嫌。ねえ、ライリー。あたし頑張るから。ハリエット様みたいにはできなくても、エベラルドと一緒にいるためならなんだってやるよ。あんたはもう心配なんかしなくていいから、いい加減目ぇ覚ましなさいよ。自分が何言ってるか分かってんの? 夫が帰って来なくて、ハリエット様が今どれだけ悲しんでるか。ちゃんと見てきなさいよ」

 ライリーは両頬を挟むアデライダの手をどかして、ずるずるとその場にしゃがみこんだ。


「……なんか俺疲れた」

 やれやれ、とアデライダもその前に座った。

「無い頭使い過ぎるからよ。ライリーはエベラルドのことが好きだったんでしょ。こんなになってからずっと、悲しくて寂しかったんだよね。それでなんかアホな考えに取り憑かれちゃったのよ。でもね、好きなものは好きなままでいいの。エベラルドのこと、これからも好きでいてよ。あいつだってあんたのこと大好きなんだから」

 金茶の瞳が優しく細められ、ライリーを見ている。

 なんとなく暗示にでもかかったような心地になって、ライリーは俯いて目を閉じた。

(そうか)

 ライリーは悲しかったのだ。

 兄分が裏切ったのだと思って。エベラルドがライリー達に何も言わず、独りで憎まれ役を買って出てそのまま一生を過ごすつもりだったと知って、寂しかったのだ。

 何が悪かったのだろう。自分が御前試合で彼に負ければよかったのか?

 エベラルドに剣を向けられてから今までずっと、ライリーはぐるぐると考え続けていた。

 彼が騎士団長になっていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。

 己の分を弁えず、団長になる夢を見た自分が悪かったのか。周囲の思惑を気にしたエベラルドに相応しい地位を譲らせてしまったがために、彼は他の手段を選ばざるを得なくなった。

 エベラルドはライリーが憧れる強い男だ。

 最強の男サイラスの次は、エベラルドのものになるはずだった団長の座を、ライリーが奪ってしまった。

 ライリーがいなければ、エベラルドはこんな手段を選ばずに済んだのではないか。

 俺がいなければ。

 何度か人のいないところで口に出したこともある。

 やってしまった過去は取り消せない。ならば、今ライリーにできることはなんだろう。

 そう、考えていたのだ。

 だからと言って何故、ハリエットの手を放す妄想話を作り出してしまったのか。

 彼女はライリーの失態とは無関係だ。

 彼女の有能さに頼り、甘えるのは筋違いだ。彼女に彼の尻拭いをする義務などない。

(俺は馬鹿だ)

「……やっぱ俺、アデラは無理だ」

「あたしだってあんたみたいな馬鹿は無理よ。あたし達味噌っかすは、しっかりしたひとと一緒にいなきゃ駄目なんだよ。あたしは一生エベラルドから離れないんだから、あんたもハリエット様にしがみついて生きていきなさいよ」

「うん。そうする」

 ライリーはアデライダに笑顔を見せて立ち上がった。

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