帝国兵
風向きが変わった。
帝国よりはるばる行軍してきた九千五百の兵は、正面から吹く冷たい風に震えた。左右は葉を落とした木々ばかりの寒々しい森が広がっている。
キャストリカ改めバランマス王国は、帝国から見て北西に位置する。帝国ではとうに溶けてしまった雪が、先ほど越えてきたバランマスの山中にはまだ残っていた。
平野部に白い色は見えない。とりあえずそれだけでも安心材料だ。
皇帝の命を受けて出兵はしたものの、今回の戦は形だけのものだ。
小国の小競り合いを高みから見物していた帝国は、時機を見て漁夫の利を取るために動き始めた。彼の国の兵力が四千にも満たないことを知りながら、その倍以上の兵を出した。
確実に国を奪れるように、といってもこれ以上の規模の兵団を編成すれば、諸国の笑いものになる。彼の国がよほど恐ろしかったのか、と嗤われない範囲で最大の人数を、と調整が入ってこの人数になった。
帝国の友人バランマスの悲願達成に力を貸すという大義名分を手に入れた皇帝は、機嫌良く出兵命令を出した。
当初は王宮を巡って小規模な争いをしている最中に現れ事態を収める予定であった。
ところが新しい女王の義兄であり夫でもある男は存外優秀で、たった一日で国の中心を奪ったという話だ。
その話は知らなかったことにして、皇帝はバランマスに大軍を寄越した。そしてその軍は、必要とされないことを承知の上で、バランマスに居座る。友である皇帝を招待するのが礼儀であると新しい国に強要し、そのための準備と称して風俗の異なる王国を帝国風に作り変える。
そこまですれば、もうバランマスは帝国の飛地国となったも同然だ。
あとは彼の地を足掛かりに、周辺の小国を次々と飲み込んでしまえばいい。帝国の領土は実に容易く増えていくだろう。
つまり今回の出兵は、ただ行くだけでいい。絵に描いたような、来た見た勝った、だ。
新兵の行軍練習にちょうどいい、と未熟な若い騎士が多く送られた。大変なのは、数を揃えただけの大軍を任された師団長である。
(遠足の引率か)
師団長は叩き上げである。四十を過ぎたばかりの歳で、気力体力共に充実している。
彼はバランマスの王配になるのだという若い騎士の姿を帝国で見たことがある。
キャストリカの騎士団で育った彼は三十過ぎの若さで大隊長の地位を捨てたのだと聞き、興味本位で覗きに行ったのだ。
美しい男だった。かと言って弱々しさは微塵も感じさせない、ただその立ち姿だけで騎士としての強さを感じさせた。
ただの覗きが、手合わせを願い出ることはできない。師団長は、まあそのうち機会も巡ってこようと、何もせず名乗ることもせずにその場を去った。
あの美しい騎士が新興国の事実上の王として、王宮深くに籠って生を終えるのか。なんとも勿体無い話である。
キャストリカの騎士団の名は、帝国にも聞こえてくる。
彼の国は小さい国の少ない国民のなかから強い男をかき集め、他国にない組織を作り上げることに成功した。
その数が三千を大きく超えることはないが、戦場は彼らの独壇場だ。
小さな隣国を攻めれば、危機感を覚えた向こう隣のキャストリカ騎士団が援軍を寄越すだろうと思えば、強大な帝国も手をこまねいているしかなかった。今回は千載一遇の好機なのだ。
そもそもあの地には不思議と、各世代世代に異才を持つ者が現れる。
半世紀以上前の伝説の騎士は紅竜と呼ばれ、戦場を我が物顔で駆け回った。次に現れたのは、微笑ひとつで大物の心を操り、各国の情報を自由に引き出していた美貌の外交官。一騎当千という言葉が誇張にならない巨人のような騎士団長。
女とは思えぬ手腕で、自治領どころか国の重大事をもあっさりと解決してしまう美しき侯爵代理。
新しい騎士団長が、家柄だけで就任した青二才だという噂も怪しいものだ。まあ前騎士団長のような化け物と比べれば、どんな逸材でも霞んでしまうというだけの話なのではないか。
あのバランマスの王配とて、かなり使えるはずだ。前騎士団長がいたために、これまでそう目立つことなく忍んでこれたのだろう。
叩き上げの師団長は、戦の前には作戦に漏れがないか、戦の流れを頭の中で考えているのが常だ。
ところが今回は真面目に戦う予定はないために、呑気に戦の内容とは直接関係のないことばかりを思っていた。
そんな彼を先頭として、帝国の軍は細長い列を作って、整備された街道を快適に行軍していった。
九千五百の帝国兵の行く手に、一匹の竜が現れた。
伝説の紅竜のことを考えていた師団長は、長い赤毛の騎士の騎乗姿にとっさにそう思った。
「……おいおいおい。あれは本物の竜か?」
帝国兵の矢の射程圏からぎりぎり外れた程度の近距離に単騎で現れた騎士は、紅い竜の尾のような長髪を翻した。
紅竜が馬首を向けた先には、同じように赤いがもっと短い髪の騎士がいた。竜よりも一回り大きく逞しい。
彼の周囲には、似たような赤毛の騎士が何人もいた。彼らは気負いのない様子で、馬上から帝国兵を眺めていた。
それはまるで、巨大な力持つ竜が取るに足らないちっぽけな人間を、尾をひと振りして薙ぎ倒しておくか、とでも言っているようだった。
師団長は目を見開いた。
紅竜は生きていたとしても、もう老齢のはずだ。人外とも言える技を持つとはいえ、所詮は人間、あれほどの力強さを保っているはずがない。
つまり、あれは竜の子孫ということか。
赤い髪を持つ竜の血脈が、国の名が変わった後も彼の地で受け継がれていたのか。
己の思考に囚われた師団長は、目の前に広がった光景に怖気をふるった。
かつての仲間に主君を殺され歯牙を抜かれたはずのキャストリカ王国騎士団が、そこで彼らを待ち構えていた。
師団長が気づいたときには、長い隊列を組んだ帝国兵の左右にも、数え切れない数の騎士が群青の外套をはためかせていた。
前には竜の子孫が従える、ひと目で歴戦の戦士ばかりと分かる屈強な騎馬隊。枯れ木の合間にもずらりと並んで端が見えない。
遠目に長髪の騎士が何人も見える。まさかあれは女か。
か弱い女まで駆り出して頭数だけなんとか揃えたか、と考えたいが、どうやらそうでもないらしい。
体格のよい若い娘ばかり、そこだけ場違いなほど華やかだが、騎乗する姿は堂々としており、明らかに馬の扱いに慣れている。
キャストリカの騎士は三千人。そのはずだった。
だが帝国兵を囲む騎士の数は、明らかにその倍以上はいる。
騎士団は三千。キャストリカのような小国には、それでも多過ぎる数だといわれていた。騎士団に所属していない騎士が、更に同数以上いたということか。
まさか彼の国は、女も含めたすべてが騎士だとでもいうのか。
ごくりと師団長の喉が鳴った。
轟音を響かせ、群青色の波が押し寄せてくる。
何故だ。
師団長は混乱した。
帝国は巨大な国である。強大な力でもって、小国を圧倒しに来た。そのはずだった。
正面、左右から襲いくる騎士の勢いは凄まじく、敵を侮り軽んじていた帝国兵はなす術もなくただ必死に後退するよりなかった。
小国キャストリカは騎士の国である。歴代騎士団長をはじめとする副団長、大隊長の武勇は近隣諸国にまで轟き、彼の国に隣接する国々は恐れをなしている。
その事実を軽視した、強大であるはずの帝国の兵は敗走した。
それでも、一矢も報いることなくただ国に逃げ帰ることは、彼らには許されないのだ。




