人質の解放
ザックはそんな彼を立ったまま眺めて吐き捨てた。
「ずいぶんと勝手な言い草じゃねえか。団長代理、何度も意見を変えるような連中を簡単に信用するわけにはいきません。俺の妻と副団長の娘、団長の従者の三人の無事を確認するまで、正式な契約はお待ちください」
「それもそうですね。そちらの言い分を認める代わりに、人質を全員解放してもらいましょうか」
「分かった。分かった! ついて来いよ。人質のところに案内する!」
両脇のふたりの手を無理矢理振り払って、エベラルドは立ち上がった。
ハリエットはそんな彼を冷ややかな目で見た。
「全員、ですよ。その後で婚約誓約書を書いていただきます」
「そこまでしてこっちが得るのは、エルベリーの沈黙だけか。ついでに騎士団をおまけで付けてくれないか」
「おまけのほうが高いなんて、不思議なことをおっしゃいますね」
それ以上、エベラルドは喋らなかった。無言でアデライダの背を、支えるというよりも突き出すと言ったほうが正しいような力でぐいぐいと前に押しながら進んだ。
「押さないで! ライリーを見習ってよ」
アデライダが小声で文句を言うが、エベラルドは冷たい表情で見下ろすだけだった。
ハリエットはライリーの左腕に掴まって体重を預け、前を歩くエベラルドの速度は無視してゆっくり足を前に出した。
長卓の部屋を出ると長い廊下を歩き、ぞろぞろと大人数で進んだ。
先頭は早足のエベラルドとアデライダ。少し離れてウィルフレッド、すぐ後ろをデイビスとマーロン。グリフィスは部屋に残った。
間を空けて、先頭のハリエットと歩幅を合わせるライリー達騎士団幹部がじりじりしながらも、ゆっくり足を動かす。その後ろには隊列を組んだ騎士団が続く。
離宮に向かう廊下を歩きながら、ライリーは場違いにも感慨深い気持ちになった。
「……ここ、久しぶりですね」
後ろで聞いていたウォーレンにはなんのことだか分からないが、ハリエットは目元を緩めた。
「そうですね」
ライリーとハリエットはここで出会い、周囲の思惑も絡まりながら結婚が決まって、今では自他とも認める仲良し夫婦だ。
ふたりはここから始まった。
そしてこれから、ここで国がひとつ消滅するのだ。
前時代の王族が建て、キャストリカでは忘れられた離宮に繋がる回廊で、ひとつの国が滅び新しい国が興ろうとしている。
城は火にも矢にも強い石造りだ。王族の住まう区域は内装が施されているが、その外観は武骨なものとなっている。長い回廊を抜け、ささやかな小庭園を通る路を過ぎると、小さな白亜の木造建築物が現れる。
長い間忘れ去られていたはずの離宮には、明らかにひとの住む気配があった。
野菜や肉を煮込む食欲をそそる匂いが漂い、建物裏を少し覗いてみれば洗濯物がはためいている。
賑やかな生活音が聞こえてきてもよさそうなものだが、なぜか辺りはしん、としていて、中からは物音ひとつ聞こえてこない。
「お昼寝中かな?」
アデライダは首を傾げて、エベラルドにその場に留まるようきつく言い置いてから白亜の離宮に入って行った。
ハリエットの歩みに合わせた騎士団が到着しても、先行したうちの四人は離宮から距離を取ったまま突っ立っていた。
王族の女性が庭園の眺めを楽しむためにしつらえられたのだろう長椅子を見つけて、ライリーは脱いだ外套でハリエットの身体をくるんでから座らせる。
娘の無事を早く確認したいウォーレンが、気にせずずんずん先に進んでいく。
「……やめとけよ」
自分を避けて離宮に近づくウォーレンを、エベラルドが言葉少なに制止した。
ウォーレンはそれを無視して扉に手を伸ばす。
「娘の友人が乳出してるとこに乱入する度胸があるのか」
ミアは産後間もない。充分考えられることだ。
授乳中であるのだろうと、子持ちの男性陣は何も言わずに待っていたのだ。
気が急いていたウォーレンはぴたりと動きを止めて、すぐさま回れ右した。そんな大事件を起こしてしまったら、娘が口を利いてくれなくなるのは想像に難くない。
「……ザック、迎えに行ってきたらどうだ」
気まずい顔で戻ってきたウォーレンは、夫ならば問題ないだろうとザックを促した。
「焦るなよおっさん。あんたのとこと違って、うちにはまだ遠慮が必要なんだよ」
結婚して一年の初々しい妻はまだ二十一歳だ。相手が夫だろうとまだ恥じらう気持ちがあるのだ。
「…………そういうものだったかな……」
聞いていた中年男達は自分の妻の昔の姿を思い出そうとしたが、上手くいかなかった。
「スミス様、ミリー様に言い付けますよ」
じっとりした目でハリエットに見上げられ、ウォーレンは慌てた。
「それは困ります!」
あと少しでひとまずの解決を見るのだと、彼らの空気は少し弛んでいた。
我が子との初対面となるザックに前列を譲って、長い列を作っている騎士団は姿勢を崩し、思い思いの体勢で離宮の扉が開くのを待った。
行方不明だった仲間の妻と娘、彼女達を捜しに潜入していた従者が帰ってくれば、とりあえずひと息つくことができる。
そう、みなが考えていた。
みなが痺れを切らす前に、アデライダが扉を小さく開けて顔を出した。
その緊張した様子に、エベラルドが思わず一歩前に出る。
「動かないで!」
続けて出てきたのはエイミーだ。
彼女は鋭い声でエベラルドを制した。
その手には短剣が握られており、刃はアデライダの頸に当てられている。
「アデラ!」
エベラルドが憤怒の表情で叫ぶ。
エイミーはそれに対して怯むことなく、叫びを返した。
「このひとが大切なんですね! 大事な奥さま、女王様だもんね」
思いがけない娘の行動に驚愕したのはウォーレンだ。
「エイミー、やめろ! おまえが手を汚す必要はない!」
「父さんは黙ってて!」
今にも飛び出しそうなウォーレンを、ライリーとザックが抑える。
「…………落ち着けよ、お嬢さん。ほら、迎えを連れて来たぞ。そいつを放せ」
「ねえ、エベラルド様。ミアにも大事に想ってくれるひとがいるんだよ。あたしの大切な友達だし、ザック様の大切な奥さんなんだよ。なのにあなたが!」
叫ぶエイミーの右手は震えていた。今にもアデライダの頸に刃が触れそうだ。
後ろ手にされた小柄なアデライダは抵抗もできず、黙ってエベラルドを見つめている。
「……ミアに、何かあったのか」
ザックが低い声で唸った。
エイミーの顔が歪み、エベラルドが呆然と呟く。
「まさか…………だって、元気になってきてて、……」
必死の形相で、エイミーは続けた。
「このひとがミアと同じ目に遭ったら、あなたは何を思うの?」
その場の全員が、エベラルドとエイミーを交互に見た。
エベラルドの顔が歪む。
彼は謁見の間でも、こんな顔をしていた。
すぐに失うと分かっている国。
ハリエットの言葉に、彼は同じ表情をした。長い付き合いの騎士団の誰もこれまで見たことのない、これは彼が喪失を傷む顔なのだ。
彼が悼んでいるのは、妻を喪うことへの想像か。それとも、自らが攫った偽りの仲間の妻の死なのか。
「……エイミー、剣を向ける先を間違うな。こいつが憎いなら、父さんがやってやるから。そのひとを放しなさい」
「父さんうるさい!」
エイミーが喚いた隙を逃さず、エベラルドは地を蹴って一瞬で距離を詰めたが、すぐにまた跳び退った。
彼より早くエイミーの後ろから出てきたアルが前に出て、立ち塞がったのだ。
エベラルドがアルを倒すのは、数秒あれば事足りる。だが同時にその数秒は、エイミーが右手を動かすには充分な時間でもあるのだ。
ぎり、とエベラルドの歯軋りする音がアルにも聞こえた。
アルは一瞬でエベラルドの背後の様子を確認した。
ライリーがいる。ハリエットもいる。
騎士団幹部を始めとする数多くの騎士が、固唾を呑んで事の成り行きを見守っている。
敵に対するときは、近視眼的になってはいけない。敵に集中するのは当然だが、同時にもっと視野を広げ、その場のすべてを把握するのだ。
アルは主人の教えに忠実に、エベラルドを敵と定めて相対した。
アルは今、武器は持っていない。今この場に、そんなものは必要ない。
「エベラルド!」
アルの後方から、アデライダの鋭い声が上がる。それと同時にエベラルドが突進してきた。きっと今、アルには見えない後ろで、アデライダがエイミーの腕を捕まえているのだ。
数秒。それだけの時間があれば、エベラルドはアルを倒せる。
その過信が、彼の油断だ。
自分の得意技が出せるよう、相手の動きを誘導するんだ。
ライリーの教えは、格上を相手にするときには実行することが難しい。
だがその格上の敵は、アルのよく知る人物だ。エベラルドがどう動くのか、何が得意で、誰にも突かれたことがないから本人は気にしていない隙がいつできるか、知っていれば事前に対策もできる。
今日この日このときのために、自分で考えた型を何度もなぞってきた。
エベラルドは右利きだ。彼の右の拳を正面から喰らったら、アルなどひとたまりもない。
予想通りの鋭い正拳突きをぎりぎりで躱したアルの右上部に隙が生まれる。
利き手ではなくとも敵の隙を見つけたら、必ずそこを突いてくる。エベラルドの迷いのない左拳は真っ直ぐではなく、外側から風を切る音と共にアルの右こめかみを狙ってきた。
避ける用意は万全だ。
アルは拳が届いたか届かないか、自分でもよく分からないまま左下方に向けて跳んだ。
見守っている騎士には、エベラルドの拳が命中して吹っ飛んだように見えていた。
次の瞬間、否、アルが跳んだのと同時だ。
エベラルドの身体が空を舞った。
彼の長身は空中でふわりと回転し、雪解けにぬかるんだ地面に背中から叩きつけられた。
エベラルドが投げられた。
投げたのはエイミーだ。




