子爵家の夜
ベスがホークラム家を訪れた日の夜、ライリーは寝台に寝転がって昼間の話のことを考えていた。
ベスは兄がライリー殺害を計画していると言っていた。
その兄は八年前、掏摸をしてその日その日を食い繋いでいた兄妹を捕まえたライリーを恨んでいたという。
もうひとりの兄は妹と真っ当に生きる道を選び、ベスの嫁ぎ先で今も徒弟奉公をしているそうだ。独立する日を夢見て、日々腕を磨いているらしい。
(今更だよなあ)
罪人に科せられる労役から解放されてすぐなら分かる。だがもう八年が経つ。十一歳だったベスは母となっており、ひと目ではそうと分からないほどに成長していた。それほどの時が経っているのだ。
なぜ、今なのか。
「考え事ですか」
扉を叩く音がして、ハリエットが静かに姿を見せた。
「少しだけ。子ども達は大人しく寝ましたか」
ライリーも子ども部屋までは聞こえないと分かっていながら小声になる。
「ええ、なんとか。予定よりも父上と長く一緒にいられることになったと興奮して大変でした」
ハリエットは羽織っていた肩掛けを外して、衣装掛けにかけた。
肌着一枚になって腰を下ろしたハリエットを、身体を起こしたライリーが後ろから抱きしめる。
「巻き込んでしまってすみません」
ライリーの住居を、ベスの兄も知っているという。ハリエット達の身にも危険が及ぶ可能性がある。
念のため、彼女達は明日からロブフォード侯爵邸に身を寄せ、領地からの迎えを待つことにした。
「大丈夫ですよ。わたしも子ども達もなんともありません」
ライリーは妻の首筋に鼻を押しつけて、彼女の腹の前で組んだ手に力をこめた。
「……参ったな。不謹慎だけど、今夜からいないと思っていたあなたがここにいることが、すごく嬉しい」
「あら。ブラントと同じように、喜ぶんじゃありません! とお鼻を摘まないといけないかしら」
「どうぞ。そのくらいでは反省したりしませんが」
自慢にならないことを堂々と言い放つ夫の鼻を、ハリエットは笑いながら指先で挟んだ。
ライリーはひょい、と顎を上げると、反動で鼻から離れた細い指を口で捕らえた。驚いて逃げようとする手を今度は片手で捕まえて、掌にくちづける。
「あなたはいつまでも可愛いですね。不意打ちに弱い」
「……わたしも、ライリーの弱点なら知っています」
ハリエットは自由な右手を後ろにまわすと、ライリーの右脇腹を指で突いた。
「うおっ」
のけぞって後ろ向きに倒れたライリーの上に、ハリエットが勢いをつけて背中から飛び込む。
ライリーがすかさず抱きとめると、ハリエットはくすくす笑って彼の胸に額をこすりつけた。
「しーっ。またアンナに叱られますよ」
「アンナもビリーを見に部屋に上がってます。聞こえませんよ」
子ども達を起こしてしまうことより、その乳母に叱られることを恐れる夫がおかしいと、ハリエットはまた笑った。
ライリーはこの家で、ハリエットに嫌われてしまうことの次に、アンナが怖いのだ。
八年前、ホークラム夫妻が遅れた蜜月を過ごしていたのと同じ時期に、ハリエットの忠実な侍女は地元に帰省していた。
蜜月の後間もなく、子ができたかもしれないと言うハリエットを泣く泣く残して、ライリーは国境警備の任務に就いた。
五ヶ月後に帰ってくると、ハリエットの腹は大きくなっていた。それはいいのだが、何故か主の後ろに控えて、共にライリーを出迎えたアンナの腹も、同じくらいに大きかった。
驚いたライリーが本人に訊ねたところ、ハリエットが産む子の乳母に立候補したくて、となんでもないことのように言ってのけたのだ。
主人夫婦に子ができる時期を読んで、そこに合わせて自分も妊娠することにした。そのための帰省だったと言うのだ。
読まれていた自分もどうかと思うが、計算通り出産時期を合わせてきたアンナもどうなんだと、ライリーは思ったものだった。
アンナが計画を実行する数日前に存在を否定されていた夫は、あっさり彼女の思惑に乗ったということなのだろうか。
まだ見ぬアンナの夫に、ライリーは同情を禁じ得なかった。
とにかくハリエットとアンナは乳姉妹揃って里帰りし、出産に備えることにした。
ロブフォードには、アンナの実母であるハリエットの乳母がいる。家を空けることの多いライリーの元にいるよりも、ふたりも心強いだろうと送り出したのだ。
ハリエットよりも三日早く産気づいたアンナは、ビリーを産んだあと生死の境をさまよった。ハリエットが陣痛に入ったのと前後して彼女は目を覚まし、出産に臨む主人を泣かせた。実に彼女らしい、超人的な復活だった。
一方、アンナの目覚めに涙を流し、いい塩梅に肩の力が抜けたハリエットは、泣きながらもあっさりと長男を産み落とした。痛い、よかった、でも痛い、と乳母に縋りついていたと聞く。
ビリー誕生からブラント誕生まで、ロブフォード家は大騒ぎだったらしい。らしいと言うのは、その間ライリーは王宮に詰めており、完全に蚊帳の外だったからだ。
報せが届いてライリーが駆けつけたときには、ふたりは並べた寝台の上に身を起こして、それぞれの腕に自分の子を抱いていた。
アンナが目を覚ますまでの三日間、ビリーは出産間近のハリエットからわずかに出る乳を含まされて生き延びた。これでは立場が反対だと、アンナは珍しく落ち込んでいたそうだ。
ライリーが到着した頃には、長年乳母を務めているかのような顔をしていたアンナも、色々思うところがあったようだ。
次のお子さまの乳母になるのは諦めます。と宣言したアンナは、それ以降、ひとりで帰省することはなかった。
だからライリーは時折家族でロブフォードを訪ねたり、長期間家を空けるときにはハリエットに帰省を勧めたりしている。
いつかそのうち、高級な酒でも持って、アンナの夫なる人物を慰めにいこうと考えていたりもする。
「三十になったあなたに可愛いと言えるかどうか分からない、なんて言ったことがありましたが、杞憂でしたね」
「ああ。あのときはなんて失礼なひとだろうと思ったものです」
「その節は失礼いたしました。まあ、あなたも求婚しようとする俺に出直してこいとか、大概でしたけどね」
今となっては、すべて笑い話だ。
それだけの月日を共にして、よいことも悪いことも共有してきた。
その間にライリーは騎士として揺るぎない地位を確立し、おそらくそのために、命を狙われるような事態に巻き込まれようとしている。
ハリエットは動揺を見せなかった。彼女の過去と、騎士の妻、子ども達の母親としての矜持が、彼女から笑顔を消させなかった。
「わたし達はウィルのところで待っていますから、あなたは気にせずお仕事に行かれてください」
「すみません。朝ロブフォード邸までお送りします。アルも置いていきましょう。もし危ないことがあるようなら、ホークラムに帰るのはやめて、そのままロブフォードに連れて行ってもらいますか?」
「そうですね。そのときにはそうしましょうか。あなたが安心できるなら」
小さな子爵領と違い、広大な侯爵領は警備体制も万全だ。万一のことを思えば、そのほうがいい。
ハリエットには、なかなか王都を離れられないライリーの代わりにホークラムの統治を任せているのだが、身の安全が第一だ。
やっかいだな。
ライリーはハリエットを抱きしめて、その温もりを感じることで心を落ち着けた。
王立騎士団団長。
キャストリカの男なら誰もが憧れるその地位に就くことになった。
もちろんライリーだって、この日を夢見て騎士修行に励んできた。
だが、実際に就任が決まった直後に、命を狙われている、などという話を聞くと、複雑な思いにかられる。
ハリエットのために、彼女の夫として相応しい男になろうと努力してきた。武官の最高峰にまで昇り詰めることができれば、堂々と彼女の隣に立っていられると思っていた。
その考えは間違いだったのか。妻子を危険にさらしてまでやりたいことなど、ライリーにはない。
八年も前の捕縛を理由にして、市井の男がライリーを狙うというのは考えにくい。もしベスの話が勘違いなどではないとしたら、新しい騎士団長を亡き者にしようとする者がいて、その計画に彼女の兄が誘われていると考えたほうが自然だ。
アドルフは独り身の期間が長い。
その理由には、家族を巻き込む危険を恐れて、というものもあったのだろうか。ブラントと同じ年に生まれた彼の息子は、城下で乳母と共に暮らしている。アドルフはその家に、引退した騎士を念のための護衛役として住まわせていた。
名が売れると、家族までも狙われる可能性が出てくるのだ。
国の守りの要が脆くなれば、他国の侵略を許すこととなる。
王立騎士団団長は、ただの名誉職などではない。
「……やっぱりやめたいって言ったら駄目かな……」
「何をですか?」
「口に出したら、怖い人達が今にも窓から入って来そうな気がするので、言わないでおきます」
「なんですか、それ」
「なんなんでしょうね。……とりあえず、明日の分もキスしていいですか」
明日、ハリエットは実家に身を寄せることになる。ライリーも隊務後は顔を出すつもりでいるが、義弟の家でいちゃいちゃする度胸はない。
ふっくらした頬に唇を寄せると、ハリエットはくすぐったいと身をすくめた。
「愛しています」
言いたいことはその場で言っとけ。とは、騎士団の教えだ。彼らには、明日が必ず訪れるという保証はないのだ。
「はい。わたしもです」
このひとの暮らす国を守るのだと思えば、ライリーは何にだってなれるし、なんだってできるのだ。
これまで通りそう自分に言い聞かせて、なんとかやっていくしかないのだろう。