閉ざされた門の内と外
約束を守れと、今度こそ本気でエルベリーが攻めてくる可能性がある。今現在内紛の真っ最中であるこの国に、それに抗うすべはない。
キャストリカの国王を斃したバランマスは焦っているだろう。
せっかく手に入れた国が、すぐに他国の手に渡ってしまうような事態は避けたいに違いない。
「隠し姫、ねえ」
「俺はハリエットを渡したくない。それでも、いいですか」
「当たり前だろう!」
声が急に弱くなったライリーに、ロバートより早くザックが反応した。
「おまえでもそんなことが考えられるとはな」
ロバートはにやにやしてザックに賛成した。
ハリエットをエルベリーに渡せば、みなに日常が戻ってくる。
キャストリカはバランマス王国と名を変えるが、民の暮らしは変わらない。ロバート達官僚はそのまま仕事を続けられるようだし、今のところ表立って抵抗していない貴族を粛清する理由などないだろう。
騎士団に価値を見出しているエベラルドは、彼らも新しい国にそのまま抱えるつもりだ。そうなれば、人質も解放されるのだろう。
ハリエットひとりを犠牲にすれば、その他の人間は助かる。
「騎士団がなんのためにあると思ってんだ。この小さい国から強い男をかき集めてでかい組織を作ったのは、他国に蹂躙されないためだろう。俺は従者になってすぐにそう習ったぞ」
ひとりを差し出したら、その他の人間は助かる。
そんな簡単な話ではないのだ。
国王が斃れたならば、国は存続できない。
もうそれはどうしようもない。
だが、だからといって無条件にすべてを差し出し、唯々諾々と敵に従う必要はない。
一度だけでもそんなことをしてしまえば、この国は本当の意味で終わってしまう。今回ハリエット以外の人間の生活を守っても、すぐにまた敵が現れることになる。
彼の地の騎士は、女ひとりを差し出して我が身の保身を図る腰抜けだ、と侮ってかかられるのだ。
エベラルドは投降した敵に寛大かもしれない。だが、次に現れる敵もそうとは限らない。
次に同じことが起きたらば、この地に住む民はすべてを奪われることになる。
「騎士団は舐められたら終わり、なんだろう。騎士団長」
ロバートは柵の隙間から手を入れて、弟の額を指で弾いた。
「大体おまえ、黙って夫人を差し出すことなんてできるのかよ」
ザックの言葉にライリーはうつむいた。
「みんながハリエットを出せって言うなら、子ども達も連れてどこか別の国に逃げてやろうと思ってました……」
「そんなことだろうと思った」
忠犬とまで言われる愛妻家のライリーが、妻を手放せるわけがないのだ。
「俺達はこういう戦況に弱いんです。ロバート様、何か策はおありですか」
「急に言われてもな。まず必要なのは毛布か。すぐに持って来る」
「助かります。寝たら死ぬかと思いながら寝ちゃってました」
「よく寝れたな、というか起きれたな」
「ええ、まあ。冬の野営地はもっと寒いし。……それと、あの」
「分かってる! それだろう。中身を捨ててまた持ってくればいいんだろう」
「お、お願いします……」
囚人の世話は、罪人の労役のひとつとされている。
伯爵家の継嗣として大事に育てられたロバートは、もちろん汚物の処理をしたことなどない。これが人生初だ。
「記憶にはないが、二十七年前におまえのおしめを替える手伝いをしたことがあるらしいからな。それと同じと思えば」
「あの、言いにくいのですが俺のも」
「……何事も経験だ。任せてください」
「本当に行方を知らないんだな」
ロバートが地下牢を出ると、エベラルドが待っていた。
見張りは牢を敬遠したのかと思っていたが、やはり聞き耳くらいは立てていたのだ。
「ずいぶんと暇そうだ。手伝ってくれるか」
「残念ながら時間切れだ。そろそろ仕事に戻らなけりゃならん」
肩をすくめる髭面の男に、肥桶を持ったままわざとらしく近づいてやる。
ひょい、と距離を取ったエベラルドに、ロバートは問うた。
「仕事とはなんだ。そちらはずいぶんと偉くなったようだが、バランマスの王に仕えているのか。まだ顔を見ていないんだが、拝謁はさせてもらえないのか」
「それはまだ無理だ。か弱い女王様だからな。落ち着くまで人前には出せない」
「女王なのか」
誰だろう。バランマスにそんな血筋が残っていただろうか。
「ああ。焦らなくても、あんたの義妹が出てくれば、平和が戻って女王のお披露目もできるさ」
「エルベリーはバランマス王家に流れた自分のところの血を取り戻したいんだろう。困ったらその女王を差し出せばいいじゃないか」
エベラルドは、す、と目を細めてロバートを見返した。
「心配無用だ。必ず見つけてやる」
「そう上手く事が運べるものかね。しくじったらエルベリーと戦争か? 騎士団長を閉じ込めたままそんなことができるのか?」
「そんときはそんときだ。戦争なら俺も得意分野だ。でもまあ、そうならないように、あんたからも弟を説得してもらいたいんだがな」
「ハリエット様を探して連れて来いと? ライリーに?」
「…………無理か」
下手をすればロバートよりもライリーをよく知っているエベラルドは、苦笑いで認めた。
キャストリカの王は国民の前から姿を消した。世継ぎの王子の行方も、城下の者には知る由もなかった。
代わりに城には滅んだ王国の旗が掲げられている。
王立騎士団団長と大隊長ふたりも、交渉の場に赴いて以来、音沙汰がない。
残された騎士団を任されたウォーレンは、城門と団長の開放を求めたが、取りつく島もなかった。
いつまで待ってもこれまで通り、王宮へは食糧の搬入や、役人からの報告書の遣り取りなど最低限の出入りしか許されなかった。
王宮からまとめて王都の役人に渡される書類には、以前と同じ官僚の筆跡と署名があった。
騎士団が恐れていたような惨殺劇は起こっていないようであると、少ない情報からとりあえずは胸を撫で下ろしている。
王都の外で待機する騎士団には、投降して新しい国に仕えよとの通達すらなかった。彼らの存在は、簒奪者から無視されているのだ。
つまり、新しい国に騎士団の居場所は用意されないということだ。
仕える王のいない騎士団に、存在意義はない。
だが、現実問題として万に近い数の団員が、上官の指示を待っているのだ。
ウォーレンが決断しなくてはならない。
彼は事前にライリーから指示された通り騎士団を分割して、国境にある砦に向かわせた。帰る家がある者には、帰る選択肢も与えた。
砦はいずれも人家から遠い自然のなかにある。急に予定のない団員を受け入れて食糧不足の懸念は起きるであろうが、餓死者が出るまでには至らないはずだ。
いつ戦場となるか分からない国境では、常に緊張感を持って食糧を備蓄するよう心掛けているのだ。
すでに雪がちらつき始める季節になってしまっている。
街道が埋もれてしまう前にと、騎士と従騎士とをいくつもの隊に分けて各地に分散させた。
帰省している従者のうち何人かが王都に戻って来たが、そのまま実家に引き返すよう伝えて帰した。大半が王都で起きていることを聞きつけた親に引き留められているのか、帰ってきた従者の数はそう多くなかった。
ウォーレンは王宮の動きにいつでも対応できるよう、王都に留まった。娘の勤め先でもある兄の店の世話になり、三十年振りに仕立屋の仕事を手伝って過ごした。
大隊長のピート、ロルフ、ニコラスも残った。
四人がそれぞれ二個中隊のみ抱えて、事態に備えた。それが王都に留まれるぎりぎりの人数だった。
ウォーレンは毎朝起きると変わらぬ王宮の様子を伺い、家族の無事を祈った。
仕える王も団長も失った騎士団は、新しい国に逆らう姿を見せていない。
今すぐにでも城を攻めたい気持ちを抑えて、ただそのときが来るのを待った。
いつか必ず、事態は動く。
わずかにしか開かれない城門が開放され、新しい王が新しい国が興ったことを宣言する。
そのときが来れば、きっと再び家族に会える。
今はただ、その日をじっと待つのみだ。
王宮が占拠され、騎士団長からの連絡が途絶えてから半月が経つ頃、ホークラム子爵家の侍女が王都に帰ってきた。
彼女が伴っていたのは、自身とサイラスの息子のみだった。
実家に身を寄せるウォーレンを訪ねてきた彼女は、地に膝を落として懇願した。
「ハリエット様の行方が分かりません……! どうか騎士団のお力をお貸しくださいませ!」




