兄弟の再会
ロバートは後ろ手のまま、執務棟まで歩かされた。
そこには他にも官僚が集められていた。
後ろ手に拘束された。それ以上に物理的な暴行を受けることはなかった。
拘束を解かれて、これまで通り働け、と言われた。
城下に住む官僚が出勤してくることはないが、こうなってからは王宮に届けられる書類も最小限だったため、そこまで忙しくはならなかった。
むしろよくこの事態の中央に平然と通常通りの書類を届けてくる奴がいるな、と思った。
(他人事なんだろうな)
今のところ、王宮以外の場所に被害はないのだ。
城下から騒動は聞こえてこないし、届く書類に異変はない。
多くの民にとっての国は、ただの記号でしかないのだ。
たった今このときもデイビスが命懸けで護っているのは、その程度のものなのだろうか。
(デイビス殿、ちゃんと食べてるか)
まだ投降せずに籠城を続けているということは、食糧の確保もできているのだろう。
騎士団だけなら、壁布でも喰っとけと暴言を吐きそうな大隊長だが、王子とその家族にまで飢えに耐えろとは言わないだろう。
(いや、言うのか?)
恐ろしい考えに取り憑かれてしまいそうだ。
ロバートの娘と同じ年頃の幼い王女があの怖い顔に我慢しろと詰め寄られたら、泣いてしまうではないか。
(いやいやまさか)
確かデイビスにも幼い孫がいたはずだ。ライリーがそんなことを言っていた気がする。
彼は息子の忘れ形見を育てるために、五十を超えてなお引退を先送りしているのだという話だ。
その彼が子どもにまで無理難題を押し付けることはないはずだ。
(生きてるか、おじいちゃん。もう無理に何もかもを守ろうとしなくていい。あなたがそこまで頑張る必要はない。駄目だと思ったら投降してくれ。可愛い孫を残して死ぬなよ)
非武装のロバートを攻撃しなかったエベラルドなら、投降した敵に温情をかけることだろう。
命さえあれば、彼の孫は喜ぶはずだ。
彼らが守っている国の存続を、今なお望んでいるのは誰だ。
一瞬ではあるがデイビスと共に戦ったロバートですら、よく分からなくなってきている。
監視が付いていることを除けば、今の状況はほぼ日常を取り戻したと言える。祖国の名が無くなることを受け入れ、新しい王が起つことを認めさえすれば、命が危険に晒されることもなく、これまで通り仕事も続けられるのだ。
そう、思考が楽なほうに流れてしまう。
ロバートは頭を振って仕事に意識を戻した。
弟ほど図太くない神経の彼は、決められた寝室と執務室の往復しか許されない生活であまり眠れていない。
日中でもぼんやりしてしまうことが増え、同僚に誤りを指摘されることが増えてきた。それは他の者も同じなのだが。
血を流すことも流させることにも慣れていないロバートが、現状を受け入れそうになってしまうのは仕方のないことだ。
問題が少ないのだ。
彼が認識しているなかでは、死者はゼロだ。もっと別の場所で命を落とした者もいるのかもしれないが、今後もロバートにそれを確認する権限を与えられることはないだろう。
だが死者は、おそらくほとんどと言っていいほど出ていない。
大量の死体の始末は骨が折れる。
埋めるには地面と人手が必要だ。燃やすとなれば燃料が必要だし、どれだけ綺麗に焼けたとしてもやっぱり残った骨の始末は必要だ。
エベラルドという男は、極力無駄を省き、必要最低限の労力で、国ひとつを乗っ取ったのだ。
キャストリカ建国時には、多くの血が流れた。滅亡のときには、無血のまま侵略者に国を明け渡すのか。
ずいぶん情けない話じゃないか。騎士には耐えられないことだろう。
(ライリー。騎士団長、おまえはどう思う)
心の中で弟に問うと、彼の周りに日常的にある喧騒が思い出された。
ロバートの弟が率いる騎士団の連中は、鍛錬場でよく咆哮しているのだ。己と味方を鼓舞し、敵を圧倒するのだそうだ。
一般人はその声だけで逃げたくなる。
だってほら、こう腹の底まで響いてくるような、
ぁぁああああああ
「? 何か聞こえたか?」
「……またどこかで戦っているのでしょうか?」
エベラルド!
「今のは」
ライリーの声だ。
そう意識して聴いてみると、今度は弟の声が急にはっきりと言葉の形に整って、ロバートの耳に飛び込んできた。
エベラルド出て来い!
「ライリーだ! 騎士団長が帰って来たぞ!」
窓から外を見渡すが、広い内庭に騎士の姿は見えない。見張りの姿もだ。
あの大声は、王宮に囚われている仲間に救けが来たことを報せるためのものか。
もう大丈夫だ。救けに来た、と。
騎士団が帰ってきた。
もう大丈夫だ。これでキャストリカは救われる。
(うん。やっぱりおまえはライリーだ。兄は分かってたぞ)
あれからもロバート達の生活は変わっていない。
一時的に獣のような咆哮が響き渡った王宮だが、間もなく静寂が戻ってきた。
ライリーは失敗したのだ。
騎士団長なんて仰々しい地位に就いたところで、人間そうそう変われるものではない。ライリーは前騎士団長のような絶対的な英雄ではない。
捕らえられたか。まさか死んではいないと思いたいが。
エベラルドは、歯向かう者には容赦しないだろう。戦う力のあるライリーを見逃すとは考えにくい。
二日後の夕刻、そろそろ女官が夕食を運んでくる刻限かと仕事の片付けを始めた頃に、エベラルドがふらりと執務室に現れた。
王宮占拠が成った日以来、初めてのことだ。その端正な顔の下半分は、無精髭に覆われていた。
せっかくの美形が勿体無い気もしたが、これはこれで野生味溢れていい感じだ。
いい男は何をしてもいい男なのだな、とロバートは場違いな感想を持った。
「伯爵、囚人の世話係をしてもらおうか」
「囚人?」
「可愛い弟に会いたいんだろう」
ライリーは生きているのか。
ロバートは一も二もなく頷くと、指示通り盆を持って地下牢に向かう階段を下った。
案内の者は地下に入ろうとはしなかった。監視の目がないなら好都合だと、薄暗い通路を進んだ。
光源が遠い。地下牢入り口と、通路の一番端の天井に近い壁から、日暮れ前の弱い陽光が射すのみだ。
監視役が入り口で待っている理由が分かった気がした。
臭いのだ。
これは排泄物か。ライリーはこんな劣悪な環境に置かれているのか。
「ライリー?」
牢でうずくまる人物が弟なのか自信が持てず、ロバートは恐る恐る呼びかけた。
「……ロバート様?」
弟ではなかった。だが聞いたことのある声だ。
「ええと、ザック殿、だったか?」
いつもへらへらしている大隊長だ。この人物にそんな大役が務まるのかと、周囲から疑いの目を向けられていた男だ。
「おい、ライリー! 生きてるか! ロバート様だ!」
ザックがどんどんと叩く壁の向こう側には、もうひとり囚われの人物がいた。
「あにうえ?」
寝惚け声だ。ライリーはこんなところで眠れるのか。
「ああ。そうだ。おまえ、こんなところで」
ロバートは思わず涙ぐんだ。
彼らは凍えそうな寒さの中、毛布の一枚も与えられず、外套にくるまって己の身を抱きしめていた。
「無事でしたか。よかった」
よろよろと立ち上がり、格子状の柵を掴むライリーの手はびっくりするほど冷たかった。
ロバートは弟の冷たい手を両手で力をこめて包みこんだ。
「それはこっちの台詞だ。怪我はないか」
「あ、俺今すごい汚いですよ」
「見れば分かる。手ぐらい後で洗うから構わん」
兄弟の感動の再会に、ザックが横から水を差した。
「あの、ロバート様。食事を届けてくださったのでは」
「ああ、そうだった。おまえ達の世話をしろと言われて来たんだ」
ロバートは床に置いた盆からパンと麦酒をそれぞれの牢の隙間から入れた。
これだけか、と抗議はしたが、聞き入れてはもらえなかったのだ。
丸二日何も口にしていなかったと言うふたりは、たったそれだけの食事を腹に収めてひと息ついた。
「兄上は今どういう状況ですか。俺達は王都に帰ってきてから、訳が分からないままとりあえず出向いたんですが、あいつ、……エベラルドに捕まって」
ロバートは王宮占拠の一部始終をふたりに話した。
ライリーとザックも、お互いの話を補足し合いながら情報を共有した。
「デイビス殿は、王子家族と共に今も貴族棟三階に立て籠もっている」
「デイビスなら大丈夫です。彼は俺達が生まれる前から戦場に立っていて、死神にすら恐れられてる騎士です」
さもありなん。確かにあの顔では、人外の存在にすら敬遠されてしまうのも無理はない。
「あの大隊長、僕のことも配下扱いで命令してきたぞ。敵より怖いから従ってしまった」
「あれで孫には甘いんですよ」
ザックが笑いながら口を挟む。
緊迫感が一瞬薄れたが、ライリーが再び真面目な声になった。
「デイビスの奥方と孫の行方については聞いていますか」
「いや。どういうことだ。いなくなったのか」
「…………おそらく、エベラルドに攫われています。ザックの奥方も一緒です。エイミーも行方か知れなくなったようです。アルが城内を探っていますので、見かけたら手を貸してやってください」
なんだそれは。
デイビスは家族を質に取られてなお、己の職務を全うしているというのか。
彼は、エベラルドに剣を向けることを躊躇わなかった。それは、人質の存在を知ってのことだったのか?
「分かった。可能な限り探ってみよう」
これからは、執務室と寝室の往復に加えて、厨房とこの地下牢にも出入りできるようになる。情報も手に入れやすくなるだろう。
「兄上。他の貴族は今の事態を静観しています。キャストリカはもう終わりです。ここは再びバランマスのものになる。いや、もうすでになっています。デイビスがこのまま頑張っても、覆すことは難しいでしょう」
「僕から降伏を呼びかけるか」
「そのときが来たら。あと俺達がすべきことは、人質の救出だけです。エベラルドは、ハリエットを捕まえるまでこの騒動を終わらせないつもりです」




