騎士団長の兄
国とは、一体なんだったのだろうか。
ロバートは数字が並んだ書類に文字を書き足しながら、霞のかかったような頭で考えた。
ここしばらくまともに眠れていないためか、どうも日中からぼんやりして仕事が捗らない。それでも問題ない程度の仕事しかないため、特に困ってはいないのだが。
彼はキャストリカ王国の君主に仕える貴族当主だった。
だった、ではない。今のところはまだ伯爵のままだ。その身分もいつ取り上げられてしまうか分かったものではないが。
ロバートが財政官の職を得たのは、ひとえにその弟の名のおかげである。望んで財政官となったわけではない彼は、弟のせい、と言いたくもあった。
当初は眉唾な話と聞き流していたライリー次期騎士団長候補の噂は、彼が異例の早さで大隊長就任を果たした頃から真実味を帯びてきた。それに伴って、地味な存在だったティンバートン伯爵家の周りが騒がしくなり始めたのだ。
財政官の席に優秀な人材が欲しい。おお、ちょうどティンバートンの継嗣の手が空いているじゃないか。次期騎士団長の兄君なら間違いがない。
どう転がしても、騎士と財政官が求められる適性は一致しない。決め方がいい加減すぎるだろう、とは思った。
ロバートには父からしつこく言い聞かせられている言葉がある。
目立つな。ライリーはもう仕方がない。あいつはホークラムだ。おまえはティンバートンの名をひとに意識させないよう立ち回るんだ。
それが平凡な父なりの処世術だったのだろう。同じように地味な継嗣を心配する親心だと思えば、ロバートも黙って頷くしかなかった。
そのため、訳の分からない理由で中央に引っ張り出されたロバートは、笑顔の下の本音を見せることなく与えられた職務に黙々と取り組んだ。
いい加減な決め方ではあったが、確かにロバートは数字を扱う仕事が得意であったから、苦痛は感じなかった。
ふたり目の子が生まれた頃に父から譲られた所領は、再び父が代理で管理下に置くことになった。
結婚前から気心の知れている妻とはそれなりに仲が良いが、四六時中一緒にいると疲れる相手でもある。正直なところたまに会う今の頻度がちょうどいいと思っていたりもする。
そんなふうにやってきた財政官の職は、ある日突然現れた簒奪者が国王を拘束し、王宮を占拠してからも失われることはなかった。物々しい出で立ちの騎士が昼夜を問わずそこかしこを見張っているなか、通常通りの職務を果たせと命じられているのだ。
どうやら簒奪者は、キャストリカを混乱に陥れることを望んでいないようだ。
基本的に国土を預かる貴族は、自分の所領のことは領地内で完結させる。それでも中央政府に援助を求めたりお伺いを立てたり、国の権限によるものはなくならないのだ。国王直轄地の財政把握も、財政官の仕事だ。
国の業務を滞らせるな、と王宮に詰めていた官僚は殺されることも拘束されることもなく、通常業務に就くことを求められた。
国王の裁可が必要な書類には、玉座の簒奪者による署名が記されるようになった。
そして宰相の署名欄には、見慣れた老年に差しかかった筆跡ではなく、もっと若々しい勢いのある筆跡が使われている。
「書類をいただきに参りました」
このような状況になってから、ロバートは執務室の扉を叩く音は無視することにしている。自分でも子ども染みているとは思うが、この程度のささやかな抵抗くらいしかできることがないのだ。
騎士団の出陣式の日から、ロバートは周囲に懇願されて王城の一室で寝泊まりするようになっていた。
前騎士団長は男爵家の出身で、見た目は恐ろしいが折目正しい寡黙な男だった。他人に怖がられる風貌を自覚しているようで、必要以上に腰が低いという印象すらあった。慣れてしまえば側に立っていても心強さを感じさせた。
最近就任した新たな団長は人好きのする青年で、彼のことは侮りこそすれ脅威を感じる者はいなかった。
ところが、そのライリーの留守を預かる大隊長は、とにかく顔が怖かった。見た目通り中身も怖い。それを良しとして生きてきた男であるから、彼を苦手とする官僚は多かった。
ロバートだってそれは同じだし、なんなら彼の上官にあたるライリーだって恐れているのを知っている。
だが、弟と妻のせいで、ロバートは王立騎士団の関係者として周囲に認識されている。
つまり恐ろしい騎士団留守居役との橋渡し役になってくれという要請を受けての連続宿泊である。
半月ほど前の夜も城下にある自宅に帰らなかったために、王宮占拠に巻き込まれてしまったのだ。
あの日ロバートが目覚めたのは、まだ夜が明けきらぬ刻限だった。
部屋の外が騒がしい。
廊下では武具ががちゃがちゃと音を立て、怒号が飛び交っている。複数の叫びが重なり、内容は聞き取れなかったが、何者かの襲撃に遭っていることは明らかだった。
まさか、こんな王の近くまで賊が入り込むとは。
騎士団の大半が王都を離れているため、留守番の騎士が休みなく王宮の護りを固めているはずだった。それでも手薄なところを攻めこまれたか。
ロバートは急いで服を着て、王宮では抜いたことのない護身用の剣を腰に差した。
自宅から連れてきたのはまだ十代の従僕ひとりだけだ。執事として教育し、ライリーの家に送り込んだドットとは違う。
武芸を仕込んでいない少年は、寝台と壁の隙間に隠しておくことにする。
ロバートとて、弟とは違い嗜み程度の剣の腕しか持たない。
三つ下の弟に負けるようになってから稽古をサボりがちになったことを、今更悔やんでももう遅い。
部屋の外では、国からその武芸を認められた騎士が戦っているのだ。ロバートでは助けにはならないが、自分の身くらいは自分で守らなくてはならない。
怒号が遠ざかる。これはどっちだ。襲撃者を追い出したのか。それとも押されているところなのか。
薄く部屋の扉を開けてみると、部屋の前に異変はなかった。
あまりの騒ぎにすぐ近くで戦っているのかと錯覚してしまったようだ。貴族に貸し与えられる部屋周辺は襲撃場所とならなかったらしい。
ならば賊はどこに。
決まっている。
王宮を襲撃するならば、目的は王かその家族以外に有り得ない。
ロバートは逡巡の末に、王の居住区域とは別方向に向かった。
情けないと言わば言え。
ロバートは武装集団の凶行から主君を救い出す術を持たない。
同じく武装して戦う力ある者に頼るしかないのだ。
騎士団の留守を預かる大隊長は、夜は騎士団長室に詰めているはずだ。有事に備えて、そこの長椅子で寝泊まりしているらしい。
本来の部屋の主は隙あらば妻の元へ帰ろうとする男なのに、責任感の強い騎士だと感心したものだ。
ロバートは王族の居住棟から遠い階段を駆け降りて、一階の騎士団長室を目指した。
賊は王族に迫っているのか、今のところ一度も遭遇していない。
城の最端の階段を降りると、長い廊下の逆端に近い場所で見慣れた外套の騎士が交戦していた。場慣れないロバートは思わず立ち竦んだ。
騎士団の外套を着ているのは、夜の警備に就いていた騎士だろうか。眠っていたのであろう大隊長は、鎖帷子に上着の普段着姿だ。
あれでは槍の穂先を防げない、と見ると、デイビスは配下を掻き分けるようにして前線に出た。複数突き出された槍を掻い潜り、うち一本を掴むとそれを奪い取ってしまった。
(なんだ今のは。何が起こった)
ロバートには人外にしか見えない動きをする熟練の騎士は、配下に檄を飛ばしながら賊を倒し、更に前進していった。彼の進む方向には、主君が待っているはずだ。
騎士団は敵陣の中心を抉るように、矢印形の陣を組んで前進していく。その先端にいるのがデイビスだ。姿は見えないが、声で分かる。
何故だ。指揮官は後陣にいるのが戦場における作法ではないのか。
ロバートは驚いたが、怒涛の勢いで敵を掻き分け進むところを見ると、あれが最適な配置なのだと納得するしかない。
大隊長が道を切り開き、両脇の配下がそれぞれ割り当てられた敵を倒していく。少ない人数で、それぞれが己の役割を果たしていた。
最後尾に配された騎士が、敵のひとりを取りこぼす。
(まずいぞ)
騎士団の背後に回られたら厄介だ。
ロバートは意を決して廊下を走ると、最後の一歩を踏み込むと同時に、敵の兜のわずかな隙間を狙って刃を入れた。
切れてはいない。中に仕込んだ帷子に当たっただけだ。それでも急所への攻撃はそれなりに効いたらしい。敵はその場に倒れた。
「ロバート様!」
肩で息をするロバートの後ろから援軍が到着する。彼らは官舎から駆け付けたのだろう。
味方だと分かっていても、屈強な騎士集団が廊下いっぱいになって向かってくる姿に、ロバートは後ずさってしまった。
「ありがとうございます! あとは我々が」
「はい、……え。え?」
ロバートは戦闘の邪魔にならないように身を引こうとしたが、引く場所がないことに気づいてしまった。
騎士団の真ん中に立ったまま、なし崩しに前に押し出される頃には、敵の後陣を抜けていた。
後から駆け付けた援軍が左右に分かれて残った敵を引き受け、最初からデイビスに従っていた騎士はそのまま前進した。
「走れ! 陛下をお守りしろ!」
「…………っ!」
勢いが増した騎士集団に押されて、ロバートは反射的に一緒になって走り出した。
邪魔にならないうちに抜けようかと考えたが、途中で思い直してデイビスの横まで走り寄る。
「ロバート様⁉︎ なんでここに」
「僕にもよく分かりません。デイビス殿、この先に進んだことがおありですか」
「まさか。俺はしがない農民の小倅ですよ」
強力な歯牙を持つ大隊長の言葉に、ロバートは眩暈を覚えかけた。
「この先には大量の扉が並んでいます。王家の方々の寝室までご一緒しましょう」
「助かります」
王族の住まいは、王宮の最も奥まった場所にある。
本来、王城とは王族の居住区である本宮のみを指す言葉である。何年もかけて増改築が繰り返されるうちに、回廊で繋がった迎賓館や執務棟、貴族棟、使用人棟などすべてを含めて王城、と称されるようになった。
現在では城壁の内側を王宮、本宮を含む回廊で繋がった七棟を王城と呼ぶ。
貴族の部屋が並ぶ棟から本宮に進むには、本来であれば近衛騎士の誰何を受ける必要がある。
だが今は、近衛騎士の姿は階段を昇った先、もっと王族の居室近くにあった。
居室の扉を、四人で護っている。敵は五人、向こうからその倍以上の人数が次々と集まって来ている。
(向こう?)
「デイビス殿! 陛下がお住まいなのは賊の向こう側です! 近衛が護っているのは第二王子夫妻の寝室です!」
速度を上げかけて、ロバートは気づいた。
五十代の騎士の走る速度が落ちている。
「間に合わなかっ、たっ、てことか。せめて、王子だけでも……」
息切れをしている。
そういえば彼は、つい先ほどまで最前線で戦っていたのだ。後続の騎士もだ。
一番前でデイビスの隣を走っていたロバートだけが元気だった。
「……え、え?」
忌々しげに怖い顔で見返してくる騎士の視線の意味するところは明らかだ。
武器持ってんなら、時間稼ぎして来い。
「団長の兄君」
ちくしょう。凄むな。僕はあんたの配下じゃない。
「はいっ!」
ロバート・ティンバートン、三十歳。
たしかに騎士団長の実の兄ではあるが、もちろんだからといって武勇に優れているわけではない。
それでも、彼には未来の騎士団長の稽古の相手をしていた過去がある。今でも貴族男子の嗜み程度の稽古はサボりながらも細々と続けている。
その場を見かけた弟が、悪気無く相手を買って出るという嫌な意味で恵まれた環境にあったりもする。
ロバートは自棄になって全速力で走った。
近衛騎士を襲う賊が振り返ると同時に、無防備だった脇を斬った。嫌な感触が剣を握る手に伝わる。
甲冑の隙間から斬らなきゃいけないから、正確な剣筋じゃないと難しいんです。
弟がのほほんと血腥い話をしていたのを思い出す。
賊の傷は浅かったようだ。ロバートは、向かってくる槍の穂先を大袈裟な動作で避けた。
(あとはどこだ、ライリー)
脚が狙い目だったり。目を出す型の面頬だったらそことか。
(顔も脚もがっつり鎧ってるぞ)
まあでも馬に乗るならともかく、徒歩だと動きが鈍るだけだから、俺達は鎖帷子だけだったりすることも多いかな。なんだかんだ甲冑って剣撃は防いでも打撃に弱いし重いから。
(てことはやっぱり槍が必要か!)
浅くとも傷は傷だ。脇を庇う賊の手元を狙うと、握力が弱った手から槍が落ちた。
床を滑って近くまできた槍を蹴り上げて咄嗟に掴み取るが、残念ながら扱い方が分からない。素人が振り回しても意味がないだろう。
ならばと床と水平になるように腰だめに構えると、武器を取り返そうと向かってくる賊の腰に穂先を向けてひたすら押した。
いくら相手が屈強な戦士であるといえど、重い甲冑を纏った上に負傷しているのだ。ロバートも健康な成人男子の端くれであるのだから、純粋な力比べなら負けることはないと踏んだのだ。
倒さなくてもいい。ロバートの役目は時間稼ぎだ。手遅れにならないように。それだけでいいのだ。
最後に勢いをつけて槍を突き出すと、賊は尻もちをついた。
敵の援軍が間近に迫ってきた。




