王宮占拠
厳しい顔で官舎に戻った騎士達のなかに死者はいなかった。一番酷い怪我は、こめかみから頬にかけての斬り傷で、皮膚の中身が見えていた。
若い娘が怯むような怪我は、騎士同士慣れた手付きで対処した。
エイミーとケイシーもおっかなびっくり傷口に酒をかけ、清潔な布で患部を覆う役目を担う。
怪我をして帰ってきた騎士に、何があったのか訊くことは憚られた。
だが、そこかしこで交わされる会話から、少しだけ状況を知ることができた。
敵は忽然と城内に姿を現したこと。国王が敵の手中に堕ちたこと。デイビスが王子一家を救い出すことに成功したが、城内の一画に立て籠もるのが精一杯だったこと。
それらが何を意味するのか、エイミーにはよく分からない。
国王が囚われたら、キャストリカは終わるのか。王位継承権を持つ王子がいるならば、希望を捨てなくてもいいのか。それともそれがあまり意味をなさないくらい圧倒的不利な状況なのか。
国がなくなると、エイミー達はどうなるのか。
それはきっと、誰にも分からない。だから、これからどうなるの、なんて口にしてはいけない。相手を困らせるだけだ。
エイミーが今すべきことは、自分の不安を吐露して慰めてもらうことではなく、目の前の怪我人の手当てだ。
彼らはエイミー達を護るために戦い、傷ついているのだ。戦う力を持たない彼女は、せめて彼らの負担にならないようにしなくてはならない。
「へったくそだなあ、副会長さん」
手当てを受ける騎士が憎まれ口を叩くのに、エイミーは顔をしかめた。
「今度、支援者の会で手当ての講習会でも開きますよ」
「そりゃいいな。頼むぜ」
優しく笑う少し歳上の騎士は、話をしたことはないけれど、顔と名前くらいは知っている。
「その日はいつ来ますか」
思わず溢れた言葉と共に、涙がひと筋頬を伝った。
エイミーは慌てて目を擦ったが、近くにいた軽症の騎士がさりげなく壁になって周りから隠してくれた。
「いい、いい。怖かっただろ。あんたも今のうちに泣いとけ」
「副団長の娘だからって、そこまで気ぃ張らなくてもいいよ」
いつもは薄汚くて武骨な連中に慰められてしまった。
「他の男に泣かされたってのは、アルには黙っててやるからよ」
「……アルは関係ない」
「よく言うぜ。副団長がやきもきしてるぞ。さっさとまとまっとけよ」
「あんた達にはもっと関係ない」
「よし、アルじゃないってんなら、この中から決めとけ。なんなら俺にしとくか?」
「あ、おれもおれも。立候補する。もう誰でもいいから恋人欲しい」
「絶対やだ。最低。なんでそんな話、今そんなときじゃ…………、ねえ、何があったの? 今何が起きてるの?」
馬鹿な話を始めた騎士に顔をしかめたはずなのに、一度は止まった涙がまた溢れてきた。
そんな疑問、口にしたら駄目だって自分に言い聞かせたばかりなのに。
自分が情けなくなったエイミーがしゃがみ込んで膝に顔をうずめると、近くにいたケイシーが気づいて姉の背中をさすりに来る。
鼻を啜る音に顔を上げると、ケイシーの頬も同じように濡れていた。
「……ごめん、ケイシー」
姉妹が抱き合う姿を困った顔で見ていた騎士が、言葉を選びながら口を開いた。
「大丈夫だよ。国はなくなるのかもしれないけど、君らが怖い目に遭うことはない。多分だけど。奴らはちゃんと統率されてる。城でも、非武装の官僚や女官は追い払われるだけで、暴行を受けたりしてなかった。言いたかないが、理性的な指導者が上にいるみたいだ」
「なんで、そんなひと達がこんなこと」
「戦争に納得できる理由なんてないよ。とにかく大人しくしてたら、ちゃんと明日からも普通に生きていける。城では陛下が囚われの身になったことを知った中隊長が降伏宣言して、前線の何人かと一緒に捕虜になったんだ。後ろのほうにいた俺らは城から出ろと言われて帰ってきた。抵抗しなけりゃ、ひどいことにはならないよ」
「なんで……」
言葉が続かなかった。嗚咽する声が、自分達だけでなくあちこちから聞こえることに気づいた。
「おーい、誰かこいつらの母ちゃん呼んで来いよ。俺もう無理」
エイミーは最後にもう一度しゃくり上げると、ぐっと息を止めて、すでにだいぶ濡れてしまっている袖を目に当てて無理矢理涙を引っ込めた。
「ひどい。そんなだからいつまでも独り身なのよ。ライリー様を見習ってよ」
「いや、あのひとも大概だぞ。あそこは夫人が大人だから上手くいってるだけだ」
「そんなことないもん。ケイシー、こいつらもう大丈夫だから、朝ご飯の準備手伝いに行こう」
「……うん」
支え合って立ち上がった姉妹に、軽口を叩いていた騎士が最後に声をかけた。
「手当て、ありがとうな」
「ううん、……いいえ。騎士の皆さま、護っていただき、ありがとうございました」
ふたりは膝を曲げ、深々と頭を下げてから他の娘達にも声をかけて厨房に向かった。
これからおそらく何日も、下手をすれば冬の間中、この官舎から出ることができなくなるのだ。
食事は大事だ。早く気持ちを立て直して冷静にならなくては、下手をすれば餓死者が出る。
厨房では騎士の妻達が大鍋に大量の食事を作っていた。切った野菜とほんの少しの干し肉だけのスープだ。ひとり一杯の朝食。
エイミー達は、食堂の大卓の端から順に、スープをよそった器を並べていく。
別の娘が大きなお盆に器を並べ、怪我人が休んでいる部屋へ持って行った。
自分で歩ける騎士が入ってきた順に器の前に座り、温かいスープをほっとした顔で飲み干したら、すぐにまた出ていく。
流れ作業のように、騎士、従騎士、従者の順番で食事を済ませると、騎士や役人家族の食事の番だ。従者が給仕を代わってくれたため、スミス母子も椅子に座った。
温かいスープが強張った身体をほぐしてくれる。
エイミーは気を抜けば溢れてくる涙をこらえて、無言のまま朝食を済ませた。
「あたし達、これからどうなるの?」
朝食を終えると、ケイシーが横に座るミリーの肩に額を乗せて呟いた。
そんなふうに母に甘える妹を見るのは久しぶりだ。
十六になるケイシーもすでに母の背を追い越してしまっている。背を丸めるようにして身を寄せてくる娘の肩を撫でて、ミリーはこう答えた。
「どうもならないわ。わたし達はここで、父さんが帰ってくるのを待っていましょう。敵に逆らったら駄目。なるべく姿を見られないように、息を潜めているの。そうしたら、怖いことにはならないはずよ」
怖いこととは何か。それくらいは、エイミーにも分かる。
武器を持つ敵に逆らえば、戦う力のない彼女達は死ぬか、死んだほうがマシだと思わされるか、そのどちらかしかないのだ。
「あんまり心配しないの。さっき騎士様も言ってたじゃない。大人しくしてたら大丈夫だって」
エイミーも妹の背中を叩いて、努めて明るい声を出した。
その日の午過ぎ、官舎を甲冑の軍団が取り囲んだ。
騎士団は官舎から出ないこと。ただし従者に限り、水汲みや馬の世話など、必要な出入りは認める。騎士団以外の者は自宅に戻り、通常通りの生活をしてもよいが、王宮を出ることは許さない。
指示に逆らうことがあれば、捕虜の生命は保障しない。
一方的にそれだけ告げると、彼らはエイミー達が出てくるまでそこにいた。
今後は官舎に見張りをつけるそうだ。
官舎に軟禁される騎士団の食料を運ぶ係を決めろと言われ、スミス母子と他数名の騎士家族が手を挙げた。
彼女達は毎日城の厨房で食料を受取り、官舎に運んだ。
王城ではどこを歩いても監視の目があり、その視線が恐ろしいと、城に近づくときにはなるべくふたり以上で行くようにしていた。
そんな生活が続いた四日目の朝、少しずつその環境に慣れてきたエイミーが、少しの間だけひとりになった。食料を受取るのを待つ、束の間のことだった。
誰も彼女のそばにいないわずかな時間に、エイミーは姿を消した。
その日以降、彼女は母と妹の待つ家に帰って来ない。




