新しい騎士団長
「ライリー、よくやった。これでおまえの騎士団長就任に文句を言える奴などいなくなったぞ」
アドルフは動かない右腕をだらりと身体の横に垂らしたまま、左手でライリーの肩を叩いた。
強い衝撃にライリーの身体が揺れる。
その剛力は、片腕が使えなくとも、まだ充分現役で通じるだろうにとライリーに思わせた。
「ありがとうございます。団長には及ばずとも尽力いたします」
「そんなに気負うことはない。こいつは規格外なんだ。同じようにやろうと思うな」
常にアドルフと共に在ったヒューズ副団長が、神経質な表情を珍しく緩めた。
彼ももう五十に手が届く歳だ。いい加減後任に引き継いで引退しようとしたところ、思いがけない怪我により歳下の騎士団長が先に引退することとなった。
まだ早い。ヒューズは予定になかった騎士団長の怪我に焦りを隠せなかった。
次の騎士団長はライリー・ホークラムを、というのが既定路線だ。だが、彼はまだ二十七歳の若者だ。せめてあと二、三年はアドルフが団長の座にいるべきだった。
実力からいったら、エベラルドのほうがまだ上だ。今の段階で候補を選出するならば、彼を推すべきだ。
年齢の近いエベラルドが騎士団長になるならば、ライリーが騎士団長になる道は無くなったも同然となる。
騎士団の上層部も官僚も、とりあえず間近に迫った御前試合の内容に結果を託すことにした。試合内容如何によっては、エベラルドの就任も已むなしとすることにしたのだ。
大衆の前でエベラルドが圧勝するならば、伯爵の息子を推す声も引っ込むだろう。
隠居生活が先延ばしになったと頭を抱えていたヒューズだったが、国の中枢部の思惑通りの人事が為されることに安堵した。
無駄に官僚との軋轢を生む必要はない。
文官も武官も、その目的は国の安寧なのだから、にらみ合ったりそっぽを向いたりするよりも、同じ方向を向いていたほうがいいに決まっている。
ライリーの騎士団長就任は、今や国民の総意なのだ。
今日の試合は、まったくもって文句無しの結果だった。
御前試合の閉会式終了後、馬上槍試合の決勝戦で戦ったふたりは、騎士団長室に呼び出されていた。この部屋の主は、もうすぐアドルフからライリーに代わることになる。
「副官はエベラルド・ウッド。それでいいな」
それまで腹の読めない顔で黙って立っていたエベラルドが、初めて口を開いた。
「いえ、申し訳ありませんが。俺も近々故郷に帰ろうと思っています」
ヒューズが目を剥く。
「本気か」
「はい」
アドルフは次の代を担うとされてきた騎士ふたりを眺めた。ヒューズも同じように、並んで立つふたりを見た。
次期騎士団長就任がほぼ内定したライリー。社交の季節に合わせて、普段より少し長く伸ばした赤毛の子爵。
彼の武勇は文句の付けようがない。温室育ちの少年の頃に慣れない環境に飛び込み、挫けることなく己を鍛え続けてきた姿は武人の鑑といえた。彼の努力はもっと評価されるべきだ。
そんなライリーの兄のような立ち位置で、常に彼を鼓舞し導いてきたエベラルド。
三十二歳になる彼は武人としての武技はもちろん、冷静沈着な性質、戦局を決して見誤らない司令官としての手腕も持ち合わせている。特に騎馬の扱いでは彼の右に出る者はおらず、槍試合の結果は意外なものと言えた。
現時点ではエベラルドに軍配を上げたくはなるが、数年後を思えば、どちらも甲乙つけ難い騎士である。
ただ、世間の声というものがある。伯爵家出身のライリーは、入団当初より騎士団長候補とされてきた。
それだけでなく、彼はその妻の名声によるところもあって、外部からの人気が高い。主に女性人気ではあるが、最近では若い騎士のなかにも彼を慕う者が少なくない。
ライリーは騎士団長となるに相応しい、素晴らしい騎士だ。それは間違いない。
だが、ただ一点、彼には懸念材料があるのだ。
「エベラルド、考え直す気はないか」
「せっかくのお言葉ですが」
「……ライリー。兄分がいなくとも、そのソワソワする癖は矯正できるか」
「えっ」
「子どものような顔をするな。奥方の元に早く帰りたいのは分かるが、隊務終了までは気を抜くなと何度言わせる」
愛妻家というよりは姫君に仕える騎士、むしろ忠犬、とまで言われる彼の心ここに在らずは、今に始まったことではない。
騎士団長就任の内示を受ける場面で心をここではない場所に飛ばす騎士は、後にも先にもライリーくらいのものだろう。
「エベラルド頼む。もう少しこの弟分を教育していってくれないか」
「今更、矯正は無理かと。八年間言い続けてきましたが、この通りです」
はあああ。
ライリー以外三人のため息が重なった。
「え、今そんな場面ですか?」
「おまえがこんな場面にしたんだろうが」
退団を間近に控えた三人は、新しい騎士団長の誕生に不安を募らせた。
「おい、サイラス。ホークラム夫人に頼んでおけ。帰宅するまでが隊務だと夫に言い聞かせてください、とな」
「ああ、いいですね副団長。夫人の言うことなら聞くかもしれません」
「そんな。子どもの教育じゃないんですから」
「おまえが大人になってくれたら、こんなこと言わずに済むんだよ」
また埒も開かない話が始まった。
ライリーは頭を抱える三人の前でぼんやり考えた。
用が済んだなら帰ってもいいだろうか。今日は子ども達も待っているのだ。
「だからその顔だよ! てめえはほんとに進歩しねえな!」
「そんなに顔に出てますかね」
ライリーは自分の顔をつるりと撫でた。もちろん、撫でても自分がどんな表情をしているかなど分からない。
くどくどと三人に説教され、解放されてすぐに家まで走ったが、待ちくたびれた子ども達は寝てしまっていた。
父の帰りを楽しみに待っていたのに、可哀想なことをした。がっくりと肩を落としたライリーは、幼子の額にそっとキスをしてから、遅い夕食をアルと囲んだ。
ハリエットは夫の隣に座って、その話を笑いながら聴いていた。
ライリーは、武官としてこれ以上はない誉れある地位に就く話をしていたはずだ。どこから笑い話になったのか。
「みなさまがそうおっしゃるなら、そうなのでしょうね」
「いいんですよ、ライリー様はそのままで。若い騎士はライリー様のお顔を読んで、気を抜いてもいい場面かどうか判断しているんですから」
アルがにこにこしながら言った言葉に、ライリーは微妙な表情になった。
「それは初耳だな」
エベラルドは若い奴らに舐められないように、と言っていたが、手遅れだったようだ。
「ライリー様の配下はみな喜んでいました。今頃祝杯を挙げていますよ」
「あいつら、楽ができると思ってるな」
よし、正式に任命された暁には、厳しい団長と呼ばれるようになってやろう。
ライリーは決意した。
やっぱり全部顔に出ている夫を眺めて、ハリエットは微笑んだ。
「エベラルド様が故郷に帰られたら、寂しくなりますね」
騎士ライリーを育てたのは、エベラルドと言っても過言ではない。弟分の成長を見届けるまでは、と今まで退団の時期を見送っていたのだろう。
「ええ。でも大丈夫です。また会いに来てくれると言っていました」
「楽しみですね。それで副団長はスミス様に?」
「ええ。しばらくはヒューズ副団長が就いていてくれるのですが、落ち着いたらウォーレンに引き継いで引退されたいと」
「長屋にいた頃、スミス夫人にはよくしていただきました。ライリーも気安い方がお側にいてくださるなら心強いですね」
「でもウォーレンもそろそろ、とこぼしているんですよ。だからアル、さっさと叙任式を受けて正規の騎士になれよ」
急にお鉢が回ってきたアルは、肩をすくめて主人の言葉を拒否した。
「なんで僕の話になるんですか。僕はずっとライリー様の従者でいたいんです」
二十一歳になったアルは、未だにライリーの従者のままでいた。実力は充分ついた、そろそろ騎士団に戻って従騎士になれ、とライリーが言い続けてもう四年が経つ。
こんなにとうのたった従者がいるかと主人に言われても、彼はどこ吹く風とどこへでもライリーについてまわった。
有能な従者である。便利だからタチが悪い。アルは、ライリーが彼を手放し難く思う気持ちを見透かしているのだ。
「ウォーレンが引退できなくて困ってるぞ。でもアルがその気になるなら、十年副団長の座を守ってやると言ってくださってる」
「だからスミス大隊長の引退と僕は関係ないでしょう」
我が子の行く末が少しでも有利であるようにと、成人した子の生活が安定するまで現役のまま踏ん張るのが親心だ。
ウォーレンの娘は二十と十六。彼は引退まであとひと踏ん張りだと、四十の歳を数えて辛くなってきた隊務をなんとかこなしている。
「エイミーが他の男に嫁いでもいいのか」
「めでたいことです」
「……意気地無しが」
「みながみな、ライリー様のようにはなれませんよ」
ちょうど最後のひと口を飲み込み終わったライリーは、食卓をぐるりと廻った。
「育て方を間違えたかな」
アルは慌ててパンの最後の欠片を口に詰め込むと、捕まえにやってきたライリーの手を擦り抜けて椅子から離れた。
「とんでもない! ちゃんと育てていただいたから、こうなったんです!」
小柄なアルは俊敏に動くが、次期騎士団長の実力は伊達ではなかった。ライリーはあっさりアルを取り押さえて、ぎりぎりと関節技を決めた。
「生意気になったなあ? なあアル、命令しないと動けないか」
「いっ……いった痛い痛い痛い痛い! 降参します!」
「へえ? じゃあ明日の朝一でスミス家に行け、とわざわざ言わなくても大丈夫だな?」
「用もないのに、大隊長のお宅訪問なんてできませんっ」
「用があったら行けるのか」
「もげるもげる! 腕がもげます!」
騒がしい男ふたりの動きを、その足音だけで止めたのは安定のアンナだった。
彼女も一児の母となり、自ら望んでブラントの乳母となった。
階上から現れたアンナは、冷たい視線を投げると、すでに静かになっていた主従に低い声で告げた。
「お子様方が起きます。どうぞ夜はお静かに」
「…………はい」
臨時で雇っている小間使いが、子どもの乳母に頭が上がらない主人をくすくす笑いながら、空になった皿を下げていった。
現在のホークラム子爵家は、王宮から少し離れた閑静な住宅街にある。ロブフォード侯爵邸のある高級住宅街ほどではないが、比較的裕福な市民の暮らす、治安の良い地区だ。
子爵家の生活が安定し始めた頃に、王城の隅の部屋を借りようかと考えたこともあった。だが、ライリーは目立つことを避けたがるハリエットを想い、当初の予定通り城下に家を求めたのだ。
普段はライリーとアルだけでこの家に住んでいる。
建国記念日が近づくと、ハリエットが子ども達を連れて子爵領から出てくる。この家が賑やかなのは、今の時期だけだ。
さすがのライリーも、そう毎日毎日、大の男相手にはしゃいだりしない。アルとふたりのときは通いの使用人をふたり雇っているだけで、淡々と隊務をこなす日々を過ごしている。
もちろん彼がそう長い期間妻の顔を見ずに暮らせるはずがなく、しばしば休暇をねじ込んで領地まで馬を走らせた。時には自分の身替わりにと騎士団にアルを置いていき、分からないことはこいつに聞けと配下に言い置いて出て行った。
それで隊務に支障が出たことはないのだから、数少なくなった彼の上官も苦笑いで見送るしかなかった。
この頃ではもう、ハリエットのことを侯爵夫人と呼ぶ声はなくなった。
彼女が人前に出るのは、ライリーの妻としてだけだ。個人的な付き合いのある友人の誘いの他は、貴族の集まりにもひとりでは赴かない。夜会には必ず、夫の腕に手を添えて出席した。
ホークラム子爵夫人、騎士ライリーの愛する妻、彼女は夫の名と共に呼ばれることに喜びを見出していた。
子を産み、歳を重ねても衰えぬハリエットの容貌を褒めそやす男がいたら、それを聞いた女はこう言うのだ。
そんなの当然よ。あれだけ一途に愛してくださる旦那様がいるから、子爵夫人はいつまでも美しくいられるのよ。
子爵邸から王宮までの距離は、ずいぶん遠くなってしまった。
気遣うハリエットに手を振り、ライリーは毎日アルを伴って走って仕事に向かった。すっかり大人になった従者と、子どものように駆け比べをする姿を王都に住む人々がよく目撃している。
新米だったライリーも月日の経過と共に実力をつけ、今では王国を代表する騎士にまでなった。
だがその愛すべき性質はそのままで、その心はいつでもハリエットの許にあった。
そのため、ある日突然起こった騒動は家人を動揺はさせたが、彼に疑いの目を向ける者はいなかった。
「以前、こちらの旦那様に情けをかけていただきました者です」
赤子を腕に抱いてホークラム家を訪れた女は、そう言ってその場で泣き崩れた。