開かれた戦端
「なんだってこれから寒くなるって時期に奴らは攻めてくるんだ」
キャストリカの東の国境と接するエルベリー大公国である。
彼の国の軍勢が国境に迫っているとの報せを受けて、王立騎士団内に緊張が走った。
エルベリーは小国キャストリカよりもわずかに国土が広い程度だが、その狭い国の中に鉱山を擁しているために、経済力は比べ物にならないほど高い。
騎士の護る国キャストリカは軍事力で勝るとはいえ、経済力に物を言わせて大量の傭兵を雇ってこられたら勝敗の予想はつかない。
冬前なのに、ではなく冬前であるからこその戦であるのであれば、勝利を得た暁に望むものは備蓄庫の中身か。
食糧だけは、いくら金を積まれても売るに限りがある。金銀だけがいくらあっても腹は膨れないのだ。
今年のキャストリカは豊作とまではいかないにしても、冬を越せるだけの蓄えは確保できている。隣国エルベリーも似たようなものだとキャストリカでは認識していたが、情報に誤りがあったのだろうか。
「腹が減ってんのかね」
「おまえと一緒にするなよ」
寒さに凍えながらの戦闘は辛い。
雪が降りはじめる前に片がつけばいいという思いはみな同じだ。
戦に勝ったとしても、補給隊が敵襲に遭って食糧が無駄になってしまうようなことがあれば、他の季節よりも痛手は大きい。冬を越せない民が続出することがあれば、戦の勝敗に関係なく騎士団の負けだ。キャストリカの民を護るのが騎士の役目なのだ。
近頃、王立騎士団の若者を近衛騎士団の鍛錬に参加させることが正式に決定し、すでに何人もが送り込まれている。その代わりにと、請われたデイビスが近衛の指導役として派遣されていた。
若者の勘の良さに感心した近衛騎士団長が、実戦を模した鍛錬を、と熟練の騎士の教えを求めたのだ。
その人選にひと悶着はあったが、短気なのは駄目だ、若いのは舐められる、といつかのように消去法で、最年長のデイビスの背をみなで押して送り出した。
大隊長達の胸の内には、息子の忘れ形見を育てるために引退できない最年長騎士の身体の負担を軽くしてやろうという意図も、多少はあった。
デイビスの大隊を丸ごと王都の護りに残して、ライリーは副官のウォーレンと共に五個大隊を率いて東に向かった。
キャストリカ王国王立騎士団は、六個の大隊から構成されている。大隊とは六個中隊のことを指し、中隊は六個小隊から成る。
各大隊は六個中隊とは別に三個中隊を抱えており、王都に六個中隊が常駐し、残りの三個中隊は国内各地に派遣されている。
つまり千七百の騎士と付き随う同数の従騎士、五個大隊合計三千四百人が、今回のキャストリカの全戦力である。
幼い従者はこの機会に帰省を促し、残った者は居残りのデイビスの隊が面倒を見る手筈になっている。
相手方の意図は未だ知らされていないが、国からの指示では可能な限りの戦力でもって確実に撃破せよとのことだった。
冬を迎える前のこの時期にあまり戦闘が長引くようでは、国力低下の懸念も出てくる。
幹部陣も納得して、大急ぎで戦支度を整えた。
ライリーが騎士団長に就任して、小競り合いではない初の大規模な戦になる。
彼は妻と子どもふたりの髪の毛を入れた御守りを懐に忍ばせて、戦に臨んだ。
すでに国境に達していたエルベリー軍を、ニコラス大隊とマーロン大隊が前線に立って一気に押し返した。彼らが疲れを見せる前に、ピートとロルフの隊が交代する。
兵の滑らかな前線の交代を、ザック大隊と共にライリーは後ろから見ていた。
その時点ですでに、前線は平原に引かれた目に見えない国境線をはみ出して、エルベリー側に入っている。
「なんか変じゃないですか?」
ライリーが呟けば、ウォーレンも首を傾げる。
「呆気ないな。奴らは何をしに来たんだ」
事前に選んで高台に登らせていた視力の良い従騎士の報告によると、両軍共に死傷者は数えるほどしか確認できないという。
そのまま夜が近づき、温存しておいたザック大隊も投入して一気に片を付けようとなったところで、猛攻に遭った。
夜の帳が下りてしまうと、それ以上戦闘は続けられない。
短期決戦のつもりで大軍を引き連れてやって来たキャストリカ軍は、仕方なく野営地に引き揚げた。
「何が問題でしたか」
不可解な戦況に、後陣から指揮を執ったライリーは率直に訊ねた。
「指揮に問題はない」
「出し方も時機も良かったぞ」
「声もちゃんと出てた」
「え、そうですか?」
いつにない誉め言葉に、ライリーは思わずてれっとした。
「緊張感のねえ顔はやめろ」
すかさずマーロンの叱責が飛ぶ。
「はいっ」
「てかピート、あの場でライリーの声なんか聞こえるわけないだろ。誉めすぎだ」
「いや、それが聞こえたんだよ。気のせいかと思ってるところに伝令が走ってきた」
指揮官は軍の後ろから戦況を見極め、指揮を執るのが戦場における一般的な作法だ。
前線の隊の後ろに控えていたピートの立ち位置は、距離だけ言えばライリーの声が届いても不思議ではないが、怒号飛び交う戦場の話である。さすがに無理がある。
「多分本当だ。近くにいたら耳がやられるくらいの大音声だった」
思い出したウォーレンが顔をしかめて耳を押さえた。
副官の仕草に視線を向けながらも、ライリーはどこか遠いところを見る目になった。
「引退前の団長から特別訓練を受けまして」
「声出しの?」
「声出しの」
元々鍛えてある腹筋を更に酷使させられ、ひたすら大声を上げた日々のことはちょっと思い出したくない、とライリーは思っていた。熊のような体格のサイラスを背負ったまま腹から声を出す訓練は、果たして必要なものなのかと、問いたくても恐ろしくて問えなかった。
しかし、やっぱり団長のすることに間違いはなかったのだ。帰ったら報告しよう。
「ああ。あれ酒焼けじゃなかったのか。風邪でもないのになんで声が掠れてんのかと思ってた」
ザックが思い出し笑いをする。
ここは戦の最前線の基地である。
何故ここまで緊迫感がないかというと、規模の割に被害が極端に少ないからだ。
負傷者はすでに引き揚げて手当てを受けさせている。
戦場は、戦うことを生業とする男達が武器を手に暴れる場所である。今日もそのとおりのことが起こった。
死傷者が少ないのはもちろんめでたいことだが、それと同時に不可解なことでもある。
「おい、真面目にやれよ。さっさと片付けて帰らないと、雪の中の戦闘になるぞ」
デイビス不在の今は、マーロンが場をまとめる。
雪は困る、それは嫌だと、幹部達は表情を引き締めた。
「向こうから仕掛けてきた割に、あまり積極的に攻める姿勢は見えなかったんですが、どう思いますか」
「同意だ。押せばすぐに退いた」
「同様の経験のある方はいますか」
一番経験が浅いのは大将のライリーだ。躊躇うことなく年嵩の騎士を見回して訊くが、全員不可解な顔のままだ。
「のらりくらりは時間稼ぎの戦法だ。ただ今回は、それをする意味が思いつかない」
ロルフの言葉に、他の面々も唸る。
時間稼ぎをするのは、援軍を待つときと考えてまず間違いない。
だが、充分な支度を整え、満を持して進軍してきたのであろう敵がそれをする理由が見当たらないのだ。
「理由は不明でも、時間稼ぎが目的と見て間違いないですね」
「そうだな。その方向で考えよう」
「そしたら、相手の思惑の乗ったら駄目だな。明日一気に叩いてしまいましょう」
「いけるか」
「いきましょう」
数は同等だ。可能な限りの戦力を、との上からの指示は的確だった。
決着を付けようとすれば、同等の力で返してくる。ならば、返せないほどの圧倒的な勢いでもって押してやればいい。
「明日は今日と同じように、正面から四隊で向かってください。ザックは隊の半分を率いて左から、残り半分は俺とウォーレンが連れて右から突っ込みます」
「大将は後ろにいろって言ったろ」
マーロンが顔をしかめる。
「ちゃんと後ろにいますよ。騎馬隊の最大の強みはその機動力にある、でしたよね? ザックの隊が一番身軽に動くから、横から突っ込んで撹乱します」
「ああ。隊長が軽いから」
「それ今関係ねえからな」
長年同じ釜の飯を喰ってきた仲間だ。時折混ざる軽口の息もぴったり合っている。
騎馬隊の利点は機動力にある。だがそれは敵も同じだ。
兵力は拮抗しており、敵の大半は金で雇われた戦闘を生業とする傭兵だ。
こちらにあって敵にないもの、それはこの呼吸だ。
指揮官の指示が間を空けず前線まで通り、鍛錬場で繰り返した演習通りの素早い兵の移動を可能とする。
敵の総指揮官は、エルベリーの貴族だ。安全な後方で希望を出し、実戦経験豊富な傭兵がその願いを叶える。彼ら個々人の能力はキャストリカの騎士団に負けずとも劣らないが、命令系統が必ず一度止まるのが彼らの弱点だ。
指揮官による素早い判断と、命令が末端まで浸透するまでの時間の短さに関して、彼ら騎士団が負けることはない。
「明日は正面のマーロンの判断で始めてください。俺は右側から向こうの様子を見てみたいです。見えたら後はウォーレンに任せて、マーロンの後ろに戻りますよ。それでいいですか?」
キャストリカの王立騎士団の団長は、過去ひとりの例外もなく叩き上げの戦士だ。総指揮官自らが武器を持つのも珍しいことではない。あまり褒められた行為ではないが、身軽さと巧みな武器捌き、力強さを兼ね備えた騎士団長の実力を信用して、幹部達は頷いた。
「よし。じゃあ明日で終わらせて、すぐに王都に帰りましょう。帰ったら俺は休暇取るんで、後処理はウォーレン、頼みますね!」
作戦会議の終了と共に、その場のライリーの立場は一番下まで下がった。
「戦闘中に戦後の話をするもんじゃねえってあれほど教えてきただろうが」
殴る気力も失って、マーロンはげんなりと元配下を叱りつけた。
「だって今のうちに言っとかないと。また直前になって捕まるのは嫌ですよ」
「おまえよりザックだろ。今頃生まれてたりしてな」
ニコラスが飄々としているザックに水を向ける。もうすぐ、もしくはすでに父になっているのかもしれない彼も顔をしかめる。
「だからそういうこと言うなよ。戦闘中にする話じゃないだろ」
家族を心配する気持ちはライリーもザックも同じだ。
「これが片付いたら、ライリーもザックも家族の様子を見て来い。今回は仕方がない」
副団長が言うならば仕方がないと、その場は解散となり、それぞれの天幕に戻った。
明日の決戦に備えて身体を休めるのも、大事な仕事のうちだ。