彼の家族は
久しぶりに顔を合わせた日の夜のライリーのくちづけは、いつもより性急だ。
ハリエットはせわしなく降ってくる唇を受け止めるだけで息が上がってしまう。
キスの合間に見上げた夫の視線は夜闇の中でも熱を帯びていて、ハリエットは昼間の良き父の姿は演技だったのかとふと考えてしまう。
でもあの姿は嘘ではない。
ライリーは子ども達のことを疑う余地もなく愛しているし、ハリエットへ向ける枯れることのない恋情にも偽りは混ざらない。
妻と子への愛情の重さを比較するほど馬鹿馬鹿しいことはないだろう。
「ごめんなさい。今回は思いがけずお会いする口実ができて喜んでしまいました。ライリー、大丈夫ですか?」
手を止めないまま、ライリーはくぐもった声で問い返した。
「何がですか」
「今回の叙爵は、あなたの本意ではないだろうと思って」
「……その話、今しないと駄目ですか」
「しておいたほうがよくないですか?」
今夜は流れに身を任せてしまうと話をする余裕などなくなりそうだし、ライリーには明日朝からも隊務が待っている。
「……………………はい」
ハリエットを強く抱きしめながらの長い葛藤の末に、ライリーは承諾の声を絞り出した。
彼は寝台の上に脚を広げて座って、前に据えた妻を背中から抱きしめるいつもの話し合いの姿勢になった。
腹の前で落ち着きなく動く大きな両手を上から握りしめて、ハリエットは夫の胸に寄りかかる。
「お辛くはないですか」
「今このときほどは。……ザックとマーロンが、気にすることはないと」
「サイラス様にはお話ししたのでしょう?」
「ええ。サイラスは自分のときは領地を断って、金と馬を受け取ったとおっしゃっていました。すでに爵位も息子もある俺に辞退することはできないだろうとも」
「まあそうですね」
ライリーはハリエットの髪に顔をうずめて、華奢な身体に回した腕に力を込めた。
「…………俺はこれまで努力してきたつもりです。それでも今の地位は、ティンバートンとあなたの名によるものが大きいと自覚しています」
「そうでしょうか。ライリーより他に適任はいないと聞き及んでいますが」
「エベラルドがいませんから。それに俺がこれまで上から目をかけてもらっていたのは、伯爵家の名のためです」
やはりライリーは悩んでいた。
彼は少しばかり自己評価が低いのだと、サイラス達が心配していたことをハリエットは知っている。入団当初、身分が違うと弾かれた記憶が蘇って不安になっているのだろうという話も聞いていた。
ライリーは騎士団長になる覚悟は早くからしていたが、伯爵位を得ることには嫌悪感があるのだ。
ハリエットは逞しい腕を優しく撫でて、夫の顔を振り仰いだ。
「最初はそうだったかもしれません。でも団長の座はそんなに軽いものではないのでしょう。皆さま、ライリーの実力だとおっしゃっていますし、わたしもそう思っています。伯爵位にしても、陛下があなたに相応しいと思われたからくださる爵位です。黙って受け取っておけばいいのですよ」
みなが言うように、そうするしかないのだ。
「……そうですね。なるべく安定したものをブラントに残してやりましょう」
「ええ。それが親の務めです」
ライリーが騎士団長として名声を挙げ、ハリエットが増えた領地の安定を図る。そうして次の世代へ引き継ぐのだ。
「普段の名乗りはホークラムのままでいいでしょうか。アッシュデールも悪くないが、慣れるのに時間がかかりそうだ」
キャストリカの貴族には他国にはない名乗りの決まりがある。本来ならば一番高い爵位を名乗るべきだが、通称としてすでに知られている領地の名を使っても問題はない。
「分かりました。屋敷もしばらくは今のまま暮らしたいです。わたしはホークラムが好きです」
「俺もです」
ほとんどの領民の顔を覚えてしまうくらいの小さな領地だ。愛着ある土地を離れるのは寂しい。
「アッシュデールのほうも正式に受け取ったら、最初は一緒に見に行きましょうか。十年もしたらブラントに任せてしまえばいいわ」
「それであなたはホークラムで余生を過ごすのですね」
現役の貴族夫人と変わらない生活を送っているハリエットだが、気分は余生なのだ。夫と子どものために必要ならば最低限人前にも出るが、それ以上の付き合いはしない。
ハリエットのささやかな願いを、ライリーは最大限尊重する。
「そうです。あなたが引退される日をのんびりお待ちしています」
あと二十年といったところか。
武官が現役でいられる期間は文官よりも短い。五十過ぎてなお若者に押し勝つデイビスは化け物に近い存在だ。
話の終わりを意識して、ライリーは目の前の豊かな金髪をかき分け、露われた頸の後ろにくちづけた。今度はハリエットも余計な話はせず、ライリーのすることを受け入れる体勢になる。
今回のハリエットの王都滞在は、国王からの爵位の授与に同行するまでの間だけだ。冬が近いこともあり、五日後にはホークラムに帰らなければならない。
ライリーの気分は、短い逢瀬を惜しむ恋人そのもだ。
本当は昔のように共に暮らし、毎晩抱き合って眠りたい。それが叶わない今は、束の間のふたりの時間を大切に過ごすしかないのだ。
翌朝からは約束通り、ライリーの出発前にサイラスが息子を連れて訪れた。
子ども達は友人に会えて大はしゃぎし、護衛役の青年達は前騎士団長の威容に興奮して、ライリーからの叱責を子どもより先に受けた。
ライリーとアルの主従は、予定とは違う一抹の不安を残しながらも、アンナの指導力を信頼して仕事に向かった。
王都到着から二日後、ハリエットは正装を身に纏い、夫人らしく結い上げた髪に飾り網を被せて、同じく騎士団の正装のライリーと共に謁見の間に立った。
かつて彼女は、何度もこの場の主役となったことがある。今は夫の添え物であるという態度を崩さず、ライリーの斜め後ろを己の定位置として控えめに在ることとした。
ライリーは国王の手から恭しくアッシュデール拝領の証を受け取り、礼の口上を述べた。
子爵となってから九年、こういった場での振る舞いもすっかり堂に入っている、と後ろのハリエットは感心していた。
少年の面影を残した新米騎士ライリーはもういないのだ。彼は大人の男になってしまった。
今更ながらに実感してしまった事実に、ハリエットは少しばかり寂しい気持ちを覚えてしまった。
自分でも今更何を考えているんだろうと思う。彼はもう二十七歳。ふたりの子を持つ父であり、キャストリカの騎士団を束ねる騎士団長だ。
いつまでもハリエットだけの騎士様でいるわけにはいかないのだ。
ライリーは、国中が冬支度に慌ただしいことを理由に叙爵祝いの宴は辞退した。
残りの短い滞在期間、ハリエット達は朝からライリー帰宅までの時間を、サイラスとテオ親子と共に賑やかに過ごした。ハリエットは帰宅後にサイラスに羨望の目を向ける夫の嫉妬心を適当にあしらって、夜はわざとらしいくらいくっついて離れなかった。
その短い期間にもまた、建物の影から一家を見る目があった。体力が有り余っている護衛役にも捕まえることはできず、あれはただの通りすがりではないだろうという結論に至った。
もう気のせいかもしれない、などと言ってはいられない。ライリーの家族は何者かに見られているのだ。
どういった意図を持つ視線かは不明だが、それは王都に滞在している間にしか現れない。早々にホークラムに帰るべきであると、ハリエット達は予定を一日早めて王都を発った。
折り悪く東の国境がきな臭いとの情報が上がり、騎士団長のライリーは反対方向のホークラムまで送るとは言えなくなった。
サイラスが暇を持て余している隠居の身だからと同行を申し出るのに甘えて、ハリエットとふたりの子ども、乳母、アンナ親子とホークラムの若者五人の他に、前騎士団長とその息子の、合計十三人はホークラムに向けて出発した。
ライリーは朝、出勤前に一行を家の前で見送った。
その日を境に、彼の家族は消息を絶った。