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シリーズ完結編になります。

よろしくお願いします。


 キャストリカの冬は、雪が深く寒さが厳しい。

 だが、ここまでの寒さは経験したことがなかった。

 彼女は粗末な小屋の隅で蹲り、凍える身体を自身で抱きしめた。

 これまでが恵まれすぎていたのだ。改めて思い知った。

 幼い頃は寒いと言えば暖炉に薪が足され、肩に羽織をかけられた。

 結婚は少し遅かったが、夫はいつも優しく、冬の夜に抱き合って体温を分け合えば、心の芯から温かくなった。

 優しい夫は、居場所どころかもはや生死すらさだかでない。

 これは、あれもこれもと欲張った彼女に対する天罰なのだろうか。

 大切なものはすべて失われた。否、まだ失われていないかもしれない。

 分からないのだ。何も分からないまま、彼女は逃げた。逃げることしかできなかった。

 逃げた先でも、彼女は何もできなかった。

 かつて薔薇に喩えられた容貌は、なんの役にも立たない。必死で身につけた優雅な振る舞いは、ここでの生活では邪魔にしかならなかった。

 思い上がっていたのだ。

 嫌だ嫌だと言いながら、視線ひとつ、仕草ひとつで思い通りに動く大人たちを見下していた。すべてが自分の思うがままになるような気がしていた。

 それが今ではどうだ。

 自分ひとりでは口を糊することもできず、寒さにかじかんだ身体は思うように動かすことすらできない。

 彼女は無力だった。

 大切なものを守るために立ち続けた過去の自分が嘘のようだ。

 守られることに慣れ、温かい手に縋って生きることを思い出させてくれた幸せな結婚生活は、彼女から力を奪った。

 彼女がそう望んだために、夫は優しく彼女の力を剥ぎ取ってしまった。

 愛するひととの幸せな生活が、いつまでも続くと錯覚してしまっていた。

 今なら分かる。愚かだったのだ。

 戦乱の絶えない世で、力を手放すべきではなかった。

 何かあれば再び立ち上がれるように、備えておくべきだった。

 力を失った彼女は、何よりも守るべきだった小さな命をもその手から取りこぼしてしまった。

 後悔するには遅すぎた。

 彼女にはもう、立ち上がる力は残っていない。


 男が、ハリエットが横になった部屋に無遠慮に入ってきた。

 遠慮も何もないのも当然だ。ここは彼の家なのだ。

「ハティ、具合はどうだ」

 彼は素っ気ない口調で、形ばかり気遣う言葉をハリエットにかけた。

「悪くないわ」

「真っ青な顔して何言ってんだ。もう少し待ってろよ。やることが終わったら一緒に寝てやるから」

「子ども達は」

「外で薪になる枝を拾ってる」

「そう」

 ハリエットはそれきり口をつぐんで、粗末な寝台で身体を丸めた。

 男は辛気臭いと言うかわりに鼻を鳴らして、再び己の仕事に戻った。




 会場に重い音が響いて、甲冑を着た騎士が騎馬から転げ落ちた。

 一瞬の静寂ののち、試合会場に歓声が沸き起こった。

「優勝、ライリー・ホークラム!」

 キャストリカ王国の建国記念日から始まった社交の季節の終わりを告げる、御前馬上槍試合である。

 昨年は戦禍にあったため中止となった御前試合だ。今年は二年振りということもあって、出場する騎士も観覧席で応援する人々も熱が入っていた。

 落馬した前回の優勝者は、馬上のライリーを見上げると、そのまま天を仰いだ。

 それは、観覧席の人々の目には優勝を逃したことに対する悔しさからくる仕草に見えた。

 ライリーは面頬を上げると、真っ直ぐに観覧席の妻を見上げた。手綱を持つ手首には、金の髪を編んだ御守りが巻かれている。

 優勝者に御守りを授けた金髪の持ち主は、心得て優勝者に向かって歩いた。

 たなびく髪が陽光を弾いて眩しいほどに輝く。優勝した騎士がその輝きに向かって足早に進み、眼前まで近づく。彼は妻から目を逸らさないままひざまずいた。

 宗教画か、それとも騎士道物語の一節か。絵画か芝居のような場面を観覧席の人々はうっとりと見守った。

 ライリーは作法通り、ハリエットのガウンの裾を手に取ってくちづけた。彼女は身を屈めて、夫の額に祝福のキスを授ける。

 視線を合わせて微笑みを交わすふたりに乙女達が花弁を撒き、会場には拍手と歓声が巻き起こる。

 意中の女性がいなかった前回の優勝者は、王妃にその勝利を恭しく捧げた。

 今年優勝した騎士は、キャストリカの娘がこぞって憧れる夫婦の夫だ。

 会場の興奮はいつまでも冷めなかった。

 ライリーは立ち上がるついでにハリエットを高く抱き上げると、そのまま騎乗して会場をひと回りした。

「やったなライリー!」

「とうとう兄貴を超えたか!」

「調子に乗るなよ、この野郎!」

 騎士団の面々が、罵倒混じりの祝福を投げかける。

 ハリエットは夫にしがみついて、祝福者らしい微笑を浮かべていた。だが、彼女はライリーの片腕に乗る形で馬を走らせられ、途中で不安定さに耐えきれず悲鳴をあげる羽目になる。

 妻の慌てぶりにライリーは声をあげて笑った。

「もう! わざとですね?」

「すみません。あなたがあんまり澄ました顔をしているから」

 ハリエットが破顔するのを確認してから、ライリーは彼女を鞍の上に座らせ、自分は馬から降りた。退場口で待機していたアルに手綱を渡し、走って試合会場に戻る。

「エベラルド!」

 敗者はのろのろと立ち上がるところだった。

「おう。やりやがったな」

 痛みに顔をしかめながらも、エベラルドはいつも通り唇の端を上げた。

 ライリーは彼に肩を貸して、退場口まで歩いた。

「なんで負けたんですか」

「ああ?」

「一瞬、気を抜いたでしょう。本当なら、今回もあなたが勝つはずだった」

 理由はすぐに思いついた。

 ライリーはもう、騎士団に入ったばかりの子どもじゃない。上の、周囲の思惑にはとうに気づいている。

「……ちげえよ」

 エベラルドは彼らしくない、困ったような優しげな表情をした。

「俺は譲られた勝利をハリエットに捧げたんですか?」

「てめえ気にすることは他にねえのか」

 歴代騎士団長のなかでも最強と謳われたサイラス・アドルフが右腕を負傷し、引退を表明した。

 まだ早い。みなが彼を惜しんだ。

 今なお彼には若い騎士が束になっても敵わない強さがあった。優勝を総なめにしてしまうからと、あるときから御前試合に出なくなったほどだ。

 もう歳も歳だしな。頃合いだろう。

 四十を超えても未だ衰えぬ頑強な肉体をもつ彼は、そう言ってライリーの肩を叩いた。

 その言葉の、その仕草の意味が分からなかったわけではない。

 だが、それとこれとは別の話だ。

「そんなに心配してもらわなくても、剣闘では俺が優勝しました。今更花形競技のひとつ譲られたところで、あなたのほうが上だって事実は変わらない。それくらいみんなが知ってます」

 エベラルドがわざと負けるなんて、らしくなさすぎて腹が立った。

 本来の彼ならば何喰わぬ顔でライリーを叩きのめし、その後も態度を変えることなく、上官となったかつての配下に接したはずだ。

「違うんだ。そうじゃない。俺の問題だ。集中が切れた、それだけだ」

「冗談でしょう?」

 それこそエベラルドらしくない。

「ライリー。俺は、騎士団を辞める」

「なんで!」

 エベラルドは、その場にしゃがみこんで前髪をかきあげた。

「アデラが寂しいって泣くんだ」

 アデラはエベラルドが故郷に残してきた妹だ。

「……アデラをこっちに呼び寄せたら」

「今更あの田舎娘がこんなところで暮らせるかよ。俺は、あいつをほっとけない」

 ライリーは唇を噛み締めた。

 十五歳のときから数えて、もう十二年にもなる。エベラルドはずっと、ライリーの良き上官であり兄であり、尊敬する父ですらあった。

 立場は同じ大隊長になってからも、エベラルドはいつだってライリーの目標だった。

「……分かりました」

 納得できなくても、そう言うしかなかった。

 そんなライリーの頬を軽く叩いて、エベラルドは優しく笑った。まったくもって、らしくない。

「情けない顔するなよ。今すぐの話じゃないんだ。しばらくは、新しい団長が若い連中に舐められないように見ててやるよ」

「若くない騎士は」

 現在二十七歳のライリーを、入団当初から知る騎士はまだたくさん残っている。

「まあ諦めるしかねえな。うまいことやれよ」

 はああ。ライリーは大きく息を吐いて、肩を落とした。ついでに落とした額を、エベラルドの肩にぶつけてやる。年季の入った鎖帷子が音をたてた。

「……お元気で」

「おまえもな。大丈夫だ。またすぐ会いに来る」

 エベラルドは弟分の頭をぐしゃぐしゃにかき回した。

 ライリーはいつも、こうやって子どものように扱われることに抗議していたが、それももう終わりなのだ。

 こんな扱いを受けていても、ライリーはもういい大人だ。エベラルドはもっと大人だ。彼の決断に口を挟むことはできない。

 離れたところから甲高い声が響いたので、ふたりはそちらに視線を向けた。

「父上!」

 ホークラム家の長男だ。父譲りの赤毛と母似の青い瞳をもつ活発な少年である。

 七歳になる我が子が走ってくるのを、ライリーは両手を広げて待ち構えた。

「どうした、ブラント! なんでここに?」

「ちちうえぇ」

 ライリーは右手で長男を抱き上げ、兄の後を必死で追いかけてきた長女を左手で掬い上げた。

「ソフィアまで。まさか試合を見てたのか?」

「見てないよ! 母上がまだ駄目だって」

 御前試合には、下手をすれば死人が出る競技もある。今年は無事終わったが、怪我人は何人も出たし、幼子が見るには衝撃的な場面もたくさんあった。

 少年が自分の父が活躍するところを見たいといくら騒いでも、母は頑として許可しなかった。

「そうだな。母上が正しい。もう少し大きくなるまで待ってろよ」

 僕もう大きいのにな、と口を尖らせたブラントは、父の頭越しにエベラルドを見た。

「エディ、父上に負けたの?」

 無邪気な子どもの発言に慌てたのはライリーだ。

 ライリーは息子を腕から降ろすと、厳しい声で名前を呼んだ。

「ブラント」

「……エベラルド様、父上に負けたのですか」

「そこじゃない!」

 いや、そこもか。ライリーは顔を覆った。

 いくつになっても変わらないライリーをいつもと同じように笑って、エベラルドはブラントと同じ目線の高さになるまで膝を曲げた。

「そうですよ、ブラント様。あなたの父上は強いですから。負けてしまいました」

「父上はエベラルド様のほうが強いって」

「ええ。俺も強いが、今日は父上のほうが強かった。次は負けません」

 エベラルドはブラントを抱き上げた。

「僕も強いよ。ひとりで馬にも乗れるんだ」

「おお。もう立派な騎士だ。すぐに父上より強くなりますよ」

「ソフィアもエディの抱っこ」

 エディとは、喋りはじめた頃のブラントがエベラルドに勝手につけた愛称だ。幼子には呼びやすいらしく、矯正する前に妹も真似するようになってしまった。

 ソフィアは小さくても女の子だ。三十を過ぎてますます男前に磨きがかかったエベラルドがお気に入りなのだ。

「父上の抱っこでいいだろう」

 ライリーはむっとして娘を抱きしめた。

「いや!」

 エベラルドが笑いながらブラントを降ろし、ソフィアに手を伸ばす。

 あからさまに傷ついた顔をするライリーには、子ども達の後ろからゆっくり現れたハリエットの手が提供された。

 ハリエットは夫の肩を叩くと、重々しくうなずいた。

「男親の試練です」

「そんなのまだ先の話でしょう!」

「泣くなよ、優勝者だろ」

 ライリーは国王をはじめ国の要人が見守るなか、その実力を示してみせた。

 前のティンバートン伯爵の息子ライリー・ホークラム子爵が王立騎士団の先頭に立ち、キャストリカ王国の剣となり盾となるのだと、国中が認めざるを得ない結果となった。

 彼は伯爵の息子だから、ではなく、鍛え上げたその武勇を必要とされ、請われて騎士団長となるのだ。


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