詩
「思い出の国」は、象徴詩人モーリス・メーテルリンク氏の作品「青い鳥」の中に出てきます。
しあわせを呼ぶ青い鳥を探す主人公たちは、思い出の国で、亡くなった祖父母に再会して、生きている者が思い出すことで動き始めるその国のことを知ります。
普段は時間が止まっていて、誰かが思い出した時だけ動き始める国というものが、子どもの私には怖くもあり、美しくも感じられました。
「思い出の国」は、子どもが、死という理解できない現象と悲しみや喪失感といったものを納得する一つの手段となるように感じます。今でも、この童話が好きな理由の半分くらいを占めています。
人は二度死ぬといいますよね。一度目は生物としての死。二度目は残された人たちの記憶からの消失という意味での社会的な死。
死んでいく側の立場であれば、さほど執着はないのですが、残された側の立場で考えると、まだ、どこかにいてくれる、そういう感覚というものはとても大切に思われます。
そして、それは、亡くした人たちだけではなく、失くした人。もう、関係性が断ち切れた人についても同じことが言えます。もちろん、どこかで元気に暮らしていらっしゃるのでしょうが、それを信じていられるだけで、少ししあわせな気分になります。
憎しみさえ育てなければ、哀しさは愛しさの裏返しです。ですから、亡くなった人も、去っていった人も、忘れずに大切に想っていきたい。そんなふうに思います。
歓喜を詠うことなどを 知らず、風情の野に入りて
言の葉を摘むわけもなく
目につくものが、哀しみの 露に濡れては
鮮やかに 色を増すのが愛しくて
いつか、哀しきことばかり 言葉に紡ぐ我となる
失くした人を偲びつつ その哀しみを描くほどに
哀しきことの水底を 愛しきものの浮かびきて
幼き頃に繰り返し 読んだ童話の
思い出の 国をみつける喜びは ひとり遊びの友となる
詩を紡げば、哀しみは
別れた人を忘れずに 愛しむための呪となりぬ
言葉を編めば、愛しさの 裏に、等しき哀しさの
芽生えるように思われて
きみを詠えば、哀しみは きみに繋がる糸となる
頼りなくとも、確かなる 遠ききみへの糸となる
青い鳥には、他にも「しあわせの花園」「未来の王国」「夜の宮殿」などが描かれ、それぞれの場所で青い鳥はみつかります。でも、気づけば、青くなくなってしまっていますよね。結局、家の中で「いま」買っている鳥が青い鳥だったというのは、ちょっと教訓的ではあります。
ちなみに、この「青い鳥」で、メーテルリンク氏がノーベル文学賞を受賞していることを、うかつにも最近知りました。ファンといっても、その程度のものです。